第20話  宿酔

 鳴沢の母は美しかった。子供は誰でも自分の母親が一番の美人だと思うものだが、鳴沢は自分の母が本当に美しいことを知っていた。それは、母と一緒に歩くたびに男がわざわざ振り返って彼女を視線で追うからだった。

 母親が仕事に行くときは、その美しさが一際映えた。鳴沢が学校から戻る頃、母は鳴沢が夜に食べるための弁当を作り終え、シャワーを浴び、半乾きの髪に丁寧にカーラーを巻いた。そして、時間をかけて、幾つもの化粧品の瓶を前にしながら、肌を整え、まつげを足し、唇を赤く塗った。その工程はあまりに長く、鳴沢が興味を持って眺められるものではなかったが、カーラーに巻いた髪をほどき、最後にきらびやかなワンピースを身に着けた母の姿はいつも鳴沢を高揚させた。着飾った母を形容する言葉はあまりにも童話めいていて口にはできなかったが、鳴沢は「お姫様みたいだ」と思っていた。

 母親が「早番」と言うときは「同伴」を意味していたと鳴沢が理解したのは、母親がいなくなって何年も経ってからだった。そういった「早番」があった時、鳴沢の父親は妻の帰宅後、事細かに妻が客とどんな時間を過ごしたかを知りたがった。バーやレストランの名前から、頼んだ酒の銘柄、男が何と妻に言い寄ったのか、妻は何と言って躱したのか、あるいは本当に躱したのか。そんな晩は、執拗に問い詰める父親の低い声で鳴沢は夜中に目を覚ました。暗がりで続く囁くような水掛け論を、鳴沢はいつも布団の縁からこっそり覗き見た。母親は酒と作り笑顔に疲れ切って帰ってきた後に、何時間も同じことを微に入り細に入り尋問され半泣きになる。小さな常夜灯に照らされた薄暗闇での上半身裸の父親と下着姿の母親の密やかなやり取りには、不穏で淫靡な空気がまとわりついていることが子供の目にもわかった。鳴沢は父親のしていることを浅ましいと感じた。強く言い返せない母親を哀れだと思った。両耳を抑えて布団に潜りながら、大人になったら、あの父親から母を守ってやるのだ、と誓った。

 しかし、その誓いが果たされる前に、母は突然姿を消した。


 翌朝振鈴に起こされた時、鳴沢の両の目尻からこめかみにかけては濡れていた。眠りながら泣いていたらしかった。隣室の男はうるさく思わなかっただろうかと考えた。起き上がろうと思って寝返りを打ったが、時化の船に乗ったようにぐらりと床が傾いて、思わず両手を布団に貼り付けた。そのままじっとして、めまいが収まるのを待った。昨日、どれくらい飲んだかもよく覚えていなかった。頭が痛い。風間のこと、両親のこと、犯罪者扱い。薄目を開けると手首に GPS 付きのリストバンドが巻かれているのが見えた。芙美に叱られたことを思い出した。頭痛だけでなく、吐き気もした。

 鳴り響く鈴の音に重なって、部屋の外で「おい、起きろよ」という声と「いや、いいんです。この部屋の人、謹慎なんで。出て来なくても」と言っている声が聞こえた。

 謹慎が無くても次の三日間は動けそうもないと思いながら、鳴沢の意識は再び遠のいた。

 もう一度目が覚めるともう午後だった。水が欲しかったが、ペットボトルはもう空だった。起き上がってみると、めまいもかなり落ち着いていた。のろりのろりと床を出て、階下に向かった。

 玄関ホールに降りると、芙美が立っていた。芙美の足元には米の十キロ袋が二つに、じゃがいもと玉ねぎの大きな箱がそれぞれ一つずつあった。芙美は鳴沢に気が付くと、「あら……。大丈夫? 具合はどう?」と尋ねた。鳴沢は「はあ、まあ、自業自得なんで……」と言いながら、首の後ろに手をやって「すんません」と軽く頭を下げた。

 芙美はくすりと笑った。「そうね。朝ごはんに降りて来なかったから、相当飲んだんだろうなと思ったわ。お昼にも来なかったのにはちょっと心配でお部屋まで見に行っちゃったけど」

 鳴沢はさすがに恥ずかしくなり、「……ご迷惑おかけしました……」ともう一度、今度はちゃんと頭を下げた。

「お腹は空いてる? お昼取ってあるのよ」

「あ、いや……」

「え、でも朝から何も食べてないでしょ? 何かお腹に入れた方がいいわよ」

 そう言いながら、芙美は足元の米を一袋持ち上げようとした。芙美の痩せた身体に、米の袋がばかに大きく見えた。鳴沢はかかんで、「運べばいいんすか?」と聞いた。

「そう。お台所まで。でも大丈夫よ。いつもしてるから。鳴沢くん具合悪いし、怪我してるんだし」

「やります」

 鳴沢は片手に一つずつ米の袋を持った。めまいで少しぐらりとしたが、よろめくほどではなかった。

「あら、すごい」芙美は感心したように言った。「でも無理しないで」

 鳴沢はちょっと照れた。仕事では厚型剛板を運んだりしていたのだ。多少めまいがあっても、米ぐらいなんてことはなかった。そんなことで感心してくれる人は今までいなかった。芙美に指示された場所に米を置き、玉ねぎとじゃがいもの箱も一纏めに運んだ。

「助かっちゃったわ。ありがとう。一人だから、ここでいいわよね。そこ座って待ってて。すぐ温めるから」

 芙美は、キッチンにあるテーブルの周りにある椅子の一つを指した。それから、ラップのかかった皿を持ち上げたが、その手を止めた。

「お昼、コロッケだったの。気持ち悪いんだったらどうかしら。食べられる?」

 鳴沢は腹に手を当ててちょっと首をかしげた。

「じゃあ、残りのご飯とお味噌汁でおじやにしましょうか。それなら大丈夫?」

 鳴沢は頷いた。「すんません」

「食べたら、反省会ですからね!」と芙美はわざと怖い顔を作って振り返った。鳴沢も大人しく首を縦に振った。

 鳴沢はテーブルの上に置いてある水差しを掴むと、コップに水を注いで一気に飲んだ。調理を始めた芙美の後ろ姿を見ながら、誰かが自分のためにだけ食事を用意してくれるのは何年ぶりだろうかと考えた。こんな母親のいる家庭に生まれていたら幸せだったろうな、とつい思った。

 鳴沢がもう一度水差しの水をコップに注いでいると、背中を向けたままの芙美が言った。

「実はねぇ、うちの息子も『ようすけ』って言うの。『よう』は太平洋の洋。呼びつけ慣れててびっくりしたでしょう?」

 ちらりと芙美は振り返った。そして、「もっとも、鳴沢くんみたいに『しゅっ』てしてないのよ。私に似て小さくて、もうおじさんなの」と一人で笑った。

 鳴沢は気の利いた返答もできずに黙っていた。なんと答えようかと思っていたら、芙美が振り返った。

 その顔を見て鳴沢は思った。この人の息子だったら。そして言葉が口をついた。

「あの……もし、息子が逮捕されたらどうしますか」

 そして言ってしまってからばかなことを聞いたと思った。

 芙美はガス台を背にして考えた。

「そうねえ、やっぱり警察に飛んでいくわね。捕まってから何日間かは会わせてもらえないんでしょ? でも行くわね。弁護士に頼んであの子の様子を確かめるわ」

 厭わずに答えてくれたことに少し安心して鳴沢は重ねて尋ねた。

「じゃ、息子が無実だって訴えたら? 信じますか?」

「そりゃ信じるわよ。もし本当にやっちゃったんだったら何か理由があったんだろうと思うし、やってないって言うんだったら」

 芙美はまたガス台の方に向いて、鍋の様子を見た。それから冷蔵庫を開けて卵を取り出した。

「私は『ようすけ』を信じる」

 芙美が自分の息子のことを言っているのだと分かっていても、同じ名前で呼ばれて「信じる」と言われたことに鳴沢は胸が熱くなった。

「卵、半熟とよく煮えてるのとどっちがいい?」

 芙美が振り返って聞いた。

 突然に鳴沢の脳裏に卵を割っている母親の姿が浮かんだ。おじやを作るときは、いつも溶き卵にしておじやの中に混ぜ込んでいた。一瞬にしてそんな昔のことを思い出せるのは不思議だった。ガスコンロに向かって料理する母の背中。それはずっと鳴沢がもう一度目にしたいと焦がれてきた情景だった。


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