第19話 失態
その晩、芙美がホームの夕食の片付けを終えて帰ろうとしたところだった。靴を履こうと玄関ホールに立つと、曇りガラスの引き戸の外側に立った男の影が見えた。背が高くてがっしりした体型から、鳴沢だとすぐにわかった。彼は夕食に戻っていなかった。午後に山崎から連絡があり、電話中に急に鳴沢がいなくなってしまったことを報告された。鳴沢は事件後、電話を解約し、新しい番号は持っていないと言う。そして山崎はその午後からしばらく寺を空けなければならず、鳴沢を探したりもできないとのことだった。芙美は、自分が近くを探してみるので心配しないように伝えた。その言葉どおり、時間の許す限り芙美は近所を歩き回って鳴沢を探してみたが、彼を見つけることはできなかった。
少なくとも、自分が帰宅する前に鳴沢が帰ってきたことに芙美はほっとして、持っていたバッグを床に置いたところ、引き戸が開いた。
「よかった……」と言いかけた芙美の微笑みが固まった。
鼻につくアルコールの匂い。鳴沢は酔っていた。
鳴沢は、目前に芙美が居ることに気が付くと、玄関に入るのを躊躇して、その場から去ろうとした。
「行っちゃだめ!」
思わず叫んだ芙美の言葉に、鳴沢はその場に立ち尽くした。芙美は、サンダルを突っかけて三和土に降りると鳴沢の袖を掴んで中に引き入れた。鳴沢は一瞬ためらったが、芙美が戸を閉めている間に、急いで靴を脱ぐと自室に行くために廊下を歩き始めた。
「鳴沢くん、待ちなさい!」
芙美の言葉を無視して、鳴沢は歩き続けた。
「鳴沢くん!」
芙美がすぐ後ろに追いつくのが聞こえたが、鳴沢は振り返らなかった。階段の登り口で、芙美に後ろから腕を掴まれたが、それを振り払って階段を登り始めた。
「陽介!」
下の名前を呼ばれて驚いた。もう何年も誰からも呼ばれていなかった。父親は「おい」としか呼ばなかったし、風間からもいつの間にか「よぉ」とだけ呼ばれた。そして、何よりもその断固とした言い方に引き止められた。
「こっちを向きなさい! あなたに話があります!」
鳴沢はそのまま部屋へ行こうと思った。しかし、芙美の声の調子に振り返らずを得なかった。ようやっと振り返ったが、その目は芙美を睨みつけていた。今は誰しもが憎かった。皆が自分を犯罪者扱いする。
「あなたが睨んだってちっとも怖くありません!」
その小柄で華奢な身体のどこから出てくるのかと思うような、力強く威厳のある声で芙美は言った。
「身体ばっかり大きくっても、自分の行動に責任が取れないんだったら所詮は子供です! さっさとここへ降りてきなさい!」
芙美は自分の立っている場所を人差し指で示した。鳴沢はまだ階段の途中から芙美を睨んでいた。
「物置から梯子を持ってきて、あなたの鼻の先で言ってあげましょうか?」
腰に手を当てて芙美は鳴沢を見上げた。鳴沢はようやっと階段を降り始めた。芙美は食堂のドアを指差して、鳴沢に中に入るように促した。
鳴沢に腰掛けさせ、芙美はダイニングテーブル越しの反対側の椅子に坐った。
「ホームの規則は知ってるわよね?」
鳴沢は目をそらして黙っていた。
「山崎さんが心配してたのよ。何があったの?」
鳴沢は、山崎が電話口で言った言葉を思い出した。
『自分の犯した罪を反省しているってことだと思っています』
そして、ただ顔をしかめて首を横に振った。
「言いたくないの?」
芙美の言葉に鳴沢はゆっくりと頷いた。芙美はしばらく鳴沢を見つめていたが、やがて言った。
「……明日話しましょう。今は、お互いに話せるような状態じゃないですからね」
芙美は溜息を吐いて席を立った。そして鳴沢を見下ろして言った。
「不本意ですが、懲戒を与えなくてはなりません」
芙美は、キッチンへと歩いて行った。しばらくして戻って来た彼女の手には、GPS のリストバンドとスマホがあった。
「手を出して」
鳴沢はしばらくリストバンドを見つめていたが、やがて芙美の方へ黙って腕を伸ばした。
「三日間謹慎です。この期間は建物から出てはいけません。基本的には部屋に居てください。リストバンドには GPS が付いていて、あなたがどこにいるかすぐにわかるようになっています。違反した場合は観察官に直接連絡が行きますから」
そう言いながら芙美は、リストバンドを鳴沢の腕に巻き、器具が無いと外せないクリップで留めた。
「明日また話は聞きますから。今日はもう部屋に行きなさい」
芙美の語尾が震えた。鳴沢が芙美を見上げると、芙美の目が潤んでいた。
「こんなこと、させないでちょうだい。何度しても胸が張り裂けそうよ」
芙美は涙を拭いながら、リストバンドに印刷された QR コードをスマホに読み取った。それから「ちょっと待って」と言って、またキッチンへ引っ込んだ。そして、一リットルのペットボトルに入った水とコップを持ってきて、鳴沢の前へ置いた。
「はい、これを持って部屋へ行く! 早く酔いを冷ましてちょうだい」
鳴沢は、ペットボトルとコップを見た後、自分の手首に巻かれたリストバンドに目を移し、最後にちらりと芙美を見た。芙美は相変わらず腰に手を当てて、赤い目をして鳴沢を見ていた。鳴沢は立ち上がり、ペットボトルとコップを持って食堂のドアへと向かった。ドアを抜ける時に、肩越しに芙美を振り返ると、少しだけ頭を下げて出て行った。
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