第18話 揺らぎ

 鳴沢は神社への階段を上り下りするようになった。山崎と神社に行った日に、登りきった時の達成感が新鮮だった。登ることに集中して、酒を飲みたい気持ちが和らぐのも好都合だった。その日も階段を登りきって、街を見下ろすベンチに腰掛けた。

 何もすることがないと、すぐ風間のことを考えてしまう。山崎のいう頭の振り子を落ち着かせようと思い、ベンチの縁に腰掛けて背中を真っ直ぐにして座ってみた。

 しかし、すぐに思考は風間のことに囚われてしまった。鳴沢がアパートで荷物をまとめている最中に開いたドア。そこに立っていた風間。風間の笑った口元。その口元が鳴沢の父親の笑った口に重なった。前の晩には散々酒を飲んで自分を足蹴にしておいて、翌朝には何も起きなかったかのように取ってつけたような笑顔で「しっかり勉強しろよ」などと心にもないことを言いながら仕事に出掛けていく。

 さらに、その父親の笑顔が母親の笑顔に重なった。スーツケースを引いて玄関に立っている。春休みの最後の日だった。まだ午前中なのに仕事に着ていく派手なワンピースを着て、きれいに化粧もしていた。

「お母さん今日、早番でちょっと遠くまで行かなくちゃいけないさぁ。お土産買ってくるからいい子にしてるんだよ。ね?」

 鳴沢の母親の話し方には訛りがあった。川野の近くの丘陵地に広がる井原地方の訛りで、鳴沢の母は井原でも更に山間部の東尾あずまおというところの出身だった。鳴沢の父親は、彼女の東尾訛りを「山言葉」と呼んで蔑んだ。そのため、母親は、鳴沢と二人のときにだけ東尾の言葉を使った。そういうときの母はいつも寂しそうだったが、鳴沢にとっては二人のための特別な言葉のようで嬉しかった。

 その日の母はことさらに物憂げだった。赤く塗られた唇が笑うように横に開くが、目は泣きそうだ。

「どこ行くの?」

 何かがおかしい。鳴沢はすぐに感じ取った。母親を引き止めたくて抱きつこうと手を伸ばした。その両手を母親は自分の両手で受け止め、下に降ろさせた。鳴沢は当惑した目を母親に向けた。母親は鳴沢の目を覗き込んで言った。

「今日はえらい早番なのさぁ」

「お母さん……」

 鳴沢は、自分を拒否するかのように近づけない母親に焦れてその場で地団駄を踏んだ。母親は諦めたように鳴沢の手を離し、鳴沢を両腕に包み込んだ。そして鳴沢の髪に唇を付けて、そっと何かを囁いた。それからふいに両手で鳴沢の肩を押しやり、明るい声で言った。

「今日、お母さんえらい張り切って陽くんのお弁当、二つも作ったさぁ。お昼の分と夜の分。陽くんの好きな甘い卵焼きとハンバーグが入ってるさ。ちゃんと食べるんだよ。明日の朝には、帰ってるから。また明日ね。」

 そう言って作ったように笑った顔が鳴沢の目に焼き付いた。


 背後で「わん」と犬が吠え、鳴沢を回想から引き戻した。

 坐禅で無心になんかなれやしないし、在り方が整うような気もしない。嫌なことを思い出してしまったと考えながら振り返ると、山崎が犬を見下ろして「しーっ」と口に人差し指を当てていた。鳴沢の視線に気付いた山崎は心苦しそうに「ごめんね、邪魔して」と言いながら近づいて来た。鳴沢はベンチの上で腰を横にずらし、山崎のために席を作った。そこに腰掛ける山崎に鳴沢は尋ねた。

「……何かいろいろ考えが浮かんで来て全然落ち着かないんすけど」

 山崎はふと微笑んだ。

「考えが止まることはないよ。脳みそがそういう風にできてるからね」

 鳴沢は頭を掻いた。

「でも、ほら……。カンフー映画だと主人公が坐禅をするとさーって波が引くように静かになるじゃないすか」

 山崎は笑い出した。

「それは香港映画かなんかだろう」

 山崎は、鳴沢の背中を軽く押して真っ直ぐになるように整えた。

「考えが浮かんできて、それに囚われているな、と気が付いたときにはそこから出てくればいい。そしてまた坐ることに集中する」

 ベンチの端に腰を預けたまま、鳴沢はもう一度座り直した。

「本当はちゃんと坐蒲の上で練習した方がいいんだけどね」と言いながら、山崎は鳴沢を導いた。

「身体を揺すって頭の振り子が身体の中心に落ち着くように背骨の位置を調整する。手はおへその下辺りに親指を合わせて置く。身体の位置が落ち着いたら、何度か呼吸を整え、視線は落として一メートルくらい前を見る」

 そうして鳴沢は坐り始めた。頭の中に母親のことがまた甦ってくる。その考えに没頭し始めたかと思うと、山崎が警策を打つように二本指で鳴沢の肩を軽く叩いた。鳴沢は息を吐いて坐り直す。また考えに囚われた頃、山崎に肩を打たれた。そんなことを二回ほど繰り返した後、山崎は合掌して話し始めた。

「頭の中がいっぱいになってくると、合わせた親指がくるくる回り始めたり、目がうろうろし始めたりするから。自分でそれに気が付いたら、考えから抜け出す」

「考えから抜け出すって言っても……」

 鳴沢は目をこすりながら言った。なんとなく泣きそうな気分だった。風間や母のことが頭から離れなくて苦しかった。

「言葉を考えない」

 鳴沢は片目をこすったまま、もう片方の目で山崎を見る。山崎はそんな鳴沢を見返しながら続けた。

「僕らの考えは言葉でできている。まず言葉を忘れてしまおう。そうすると、その考えに没頭していた瞬間の身体の感覚が残るはずだ。例えば、何か嫌だったことを思い出していたら、肩にぎゅっと力が入っていたり、胃がむかむかしているかもしれない。それをただ感じよう。和らげようとしなくていい。肩に入った力、胃のむかむかした感じを飽きるまで感じる。感じきってしまえば、自然と身体の力が抜けるはずだ。

「多分、その間にも、考えが戻ってくるだろう。そうしたら、とにかくまずは言葉を手放すところからもう一度始める」

 鳴沢は自信なさげに頷いた。

「頭の振り子がぐるぐるしてるんだろう? そういうときは、身体の芯が緊張している。それを落ち着かせようと思って身体は何か手っ取り早く楽になることを探し出す。お酒もそうだし、煙草もそう。ギャンブルとか気晴らし食いとか。ホームに来る人には多い。危ないな、と思ったら、『あ、今ぐるぐるしてるな』って考えるだけでも少し落ち着くと思う。」

 山崎は鳴沢の横顔を覗き込んだ。

「……君は今、何が苦しい?」

 鳴沢は、風間を殴ったことを言おうかと一瞬だけ思ったが、言わなかった。代わりに、「……親父と同じになりそうで怖い」と呟いた。

「お父さんとどう同じになるんだい?」

「……あいつは……。酒を飲むと、自分だけが偉くなったような気になって、おふくろのことをバカにしたり、いつまでもくだらないことで責め続けたり、打ったり……」

 自分で発した言葉に、父親に打たれる母親の姿が蘇り、鳴沢は胸が苦しくなった。そして、自分が風間にしてきたことも同じではないかと思った。

「君のお父さんは不安だったんだね」

 意外な山崎の言葉に、鳴沢は山崎を見た。山崎の眼差しは優しかった。

「君のお父さんはきっと、自分に自信が無くて、人を自分より下に置かなければ自分を保てなかったんだと思う。本当は君のお母さんのことが大好きだったんだけれど、自分に自信が無いから、お母さんがずっと自分と一緒にいてくれるかどうか不安だったんじゃないかな。だから心配になってつい責めてしまったんだと思うよ」

 鳴沢は、父親のことをそんな視点から見たことがなかった。それが例え真実だとしても、あんな風に人を苛んでいいはずはない。鳴沢は混乱して頭を振り、両手で頭を抱え込んだ。

「君はお父さんと同じにならなくていい」

 山崎は鳴沢の肩に手を置いた。鳴沢はしばらくそのままでいたが、やがて頭を抱えた手の下から上目遣いで山崎を見上げた。

「……そうならないと思いますか」

 山崎は鳴沢の肩に腕を回して、ぎゅっと力を入れた。

「ならないさ。君とお父さんは違う人間だ」

 山崎はかがみ込むようにして、鳴沢に話しかけた。

「誰だって好きで人に辛く当たるわけじゃない。自分に抱えきれないものがあって溢れ出してしまうだけだ。でも、お父さんの悩みはお父さんのもの。君が引き継がなくてもいい」

 そう聞いて鳴沢は、ほっとした気持ちになったが、だからといってどうしたらいいのかはわからなかった。

「でも……、俺にはあいつの血が流れてる……」

 自分ではそうならないと思っていても、同じようなことをしてしまうかも知れないと思うと不安になった。

「鳴沢くん、僕らの身体はそんなに単純なものじゃない」

 山崎の声は励ますようだった。

「僕らの身体には、驚くほどの情報が詰まっている。ある特性を引き継いでいたとしても、環境次第でその出方は全く変わる。ときには環境が情報自体を変えてしまうだろう。君はこれまで厳しい環境で生きてきて、間違ったこともしてきたかもしれない。でも、これからは環境を変えよう。君のいいところがもっと伸びるように」

『間違ったこともしてきたかもしれない』と言われて、ふいに鳴沢の意識は硬くなったが、山崎の質問が彼に考える暇を与えなかった。

「……鳴沢くんは『過去』も『未来』も想像上のものだって考えたことがあるかい?」

 鳴沢は山崎の質問に面食らった。言ったことがすぐにはわからなかった。ようやっと、昨日も明日もあるのではないか?という考えに至って、鳴沢は首を振った。山崎は少し満足そうに微笑んだ。

「僕たちは、時間を流れのように感じているけど、厳密には僕たちは『今』にしかいない。一秒前にだって戻ることはできないし、今すぐに十分後に移動することもできない。未来も過去も現実のように感じるけれど、それは僕らの頭の中で今想像していることだ」

 鳴沢は、少し考えてから「……デジタルの時計が一秒一秒変わっていくのを見てるようなもんすか」と言った。

「そうそう。その一秒が現実ではもっともっと細かいので、僕たちには連続して見える。

「そんな中で、僕たちが考える自分の過去、自分の生い立ちは想像と同じなんだ。過去は、自分の目の前にはない。僕たちが今、脳のネットワークから作り出しているイメージだ。

「不思議なことにこの想像──つまり、過去の記憶は僕たちがどんな人間かを形作る。ホームに来る人達の多くは難しい環境で育ち、頭が悪いだの、お前は要らない人間だのずっと言われてきた。だから、本当にそうだと信じている人も多い。

「でももし、そういった記憶をすべてリセットできて、まっさらな気持ちになれたら君は自分をどんな人間だと思う? 君は自分が誰かを傷つけてしまうかも知れない、と心配するだろうか?」

 鳴沢は、再びふわり、と自分の心が軽くなるのを感じた。

「とはいえ、同時に僕らは因果から逃れられない。いくら時間は『今』にしか存在しないと言っても、僕らの『今』は常に移り変わっていて、『今』は次々過去になって行く。

「でも僕は『今この瞬間』という認識を持つことは大切だと思ってる。過去の記憶からも未来への不安からも切り離されて、思考さえも入る隙が無いくらいの『今』には『自分という存在』だけが居るように思えるんだ。その素のままの君で、君は今この瞬間の選択をすればいい」

 鳴沢はいつしか、頭を上げて山崎を見つめていた。山崎は、軽く息を吐いて微笑むと、鳴沢の肩を叩いた。

「まあ、後は身体を動かすことだね。動いている間は頭が空っぽになるからね」

 山崎はベンチから立ち上がった。

「本堂の拭き掃除とかお勧めだよ」

 山崎の軽口に鳴沢はわずかに微笑んだ。そして、ほんの少しだけ重みの減った心持ちで、歩き始めた山崎の背中を見上げた。


 神社からの階段を山崎と二人で降りながら、鳴沢は山崎に風間のことを言おうかどうか考えあぐねていた。今の山崎の話を聞いて、芙美が言った「すごく親身になって聞いてくれるから。なんでも相談したらいいわ」という言葉を信じてみようかと思ったのだ。

 階段の下に着いた時、山崎の電話が鳴った。山崎は「ちょっとごめんね」と言いながら、スウェットパンツのポケットから電話を取り出した。画面で発信者を見ると、鳴沢に背を向けながら応答ボタンを押して、「はい、山崎です」と応えた。そしてそのまま徐々に鳴沢から離れるように歩き始めた。

 鳴沢は山崎の背中を見ながら、私的な電話なのだろうと思った。鳴沢も距離を取りながらゆっくりと歩いた。発信者は声が大きく、時折話す言葉が電話から漏れ聞こえた。その中に鳴沢の名前が出た。鳴沢は、山崎の方を見た。山崎は背中を向けたまま、「いえ、彼は問題ありません」と答えていた。その後は、山崎が少し声を落としたので聞き取れなかった。しかし、ふいに少し抗議をするようにはっきり言った。

「いえ、今はまだ辛そうなので、事件について話はしていませんが、自分の犯した罪を反省しているってことだと思っています」

 言ってしまってから、はっとしたのか、山崎はふいに振り返った。鳴沢は、呆然としたように山崎を見ていた。

「自分の犯した罪を反省している」

(そうだ。俺は犯罪者のレッテルを貼られているのだ。そして山崎の頭の中でも、俺は確かに犯罪者なのだ。)

 鳴沢は途端に手足から力が抜けた。先程山崎が言った『間違ったこともしてきたかもしれない』の意味がはっきりとわかった。なぜ、自分の意識がそれに引っかかったのかも理解できた。子供の頃に補導されたことを単に指しているのではない。強盗のことを言っているのだ。

 手のひらが湿って冷たくなり、細かく震えた。覚束ない足で二、三歩後ずさると、山崎に背を向けて歩き出した。

「鳴沢くん!」

 背後で山崎が呼ぶ声が聞こえたが、鳴沢は振り返りもしなかった。



 鳴沢は闇雲に歩いた。ともかく山崎から離れたかった。このままどこかに行ってしまおうかと思った。しかし、何より鳴沢を捉えたのは焦るほどの酒への渇望だった。自分でもどうにかしていると思うほど、今すぐに飲みたいと思った。鳴沢はポケットに手を突っ込み、小銭を数えると酒屋を探して歩いた。最初に見つかった店に入り、度数の高い缶チューハイの六缶パックを買った。人目につかない場所を求めて市街地を離れようとしたが、焦りの方が勝った。歩きながら、一缶をパックから引き剥がし、そのままタブを開けて、人通りの少ない住宅街の道で立ったまま飲んだ。飲みながら涙が出てきた。そのまま飲み続けていると、どこかの家の窓が開く音が聞こえた。鳴沢はその音から逃げるように、うつむいてその場を立ち去った。




注: 井原も東尾も架空の地名で、それに付随する訛りも存在しません。作者が関東弁しか話せないので捏造しました。


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