第17話 菜園での会話

 鳴沢の当面の目標は次の仕事探しだったが、おいそれと見つかるものでもない。事件のショックもまだ尾を引いていて、簡単に次に進む気にもなれなかった。そもそも何をしていいのかさえ分からなかった。ホームには小さな菜園があり、職員が面倒を見ていた。そこで取れた野菜はホームの食事に使われた。天気の良い日で、鳴沢は一通りの雑事が済み、手持ち無沙汰に菜園を見て回っていた。アパート育ちの鳴沢は野菜が育つ様子など見たこともなかった。中学校にあった花壇は荒らす方の側で、誰が手入れをしているかも知らなかった。玉ねぎやかぶが地面から覗いているのを見て、野菜はこんな風に成長するのか、と初めて理解した。残りは葉野菜のようだったが、名前はわからなかった。六十代かと思われる女性が野菜から何かを摘み取っていた。ホームの寮母をしている三好芙美だった。芙美は、自立準備ホームの寮母に持たれがちな肝っ玉母さんというイメージとは異なり、グレーの豊かな髪を後ろでまとめた、華奢で上品な雰囲気の女性だった。不思議そうに見ている鳴沢に気付いて、「春菊よ」と言った。

「花が咲いちゃうと固くなるから摘んでおくの。今晩はこれで天ぷら」

 そう言って芙美はざるに摘んだ花の蕾を見せた。鳴沢はざるを覗き込んだが、青い葉っぱが重なっているだけのように見えた。

「ああ、もう疲れちゃった。一休み」

 芙美は「うーん」と言いながら腰を伸ばし、菜園の横に置いてあるプラスチックの椅子の一つに座り込んだ。そして、「あなたも座ったら?」ともう一つの椅子を指差した。鳴沢は戸惑ったが、言われるままに指された椅子に腰掛けた。芙美はエプロンのポケットに手をやり、少し探った後、鳴沢に飴を差し出した。

「お一つどうぞ」

 鳴沢の家では父親が甘いものを好まなかったので、鳴沢も甘味を食べた記憶があまりなかった。差し出された飴の包装紙がきれいな色だったこともあって、鳴沢は素直に一つ受け取った。芙美はポケットから飴をもう一つ取り出すと、包装を開けて自分の口に放り込んだ。鳴沢も倣って小袋を開けようとしたが、怪我をした右手の指に力が入らなかった。手間取っている鳴沢を見て、芙美が「やりましょうか」と手を伸ばした。鳴沢は、飴の小袋を芙美に返した。芙美がそれを鳴沢に再び手渡したとき、裂けた小袋からはピンク色の丸い飴が覗いていた。鳴沢は小袋から飴が飛び出さないようにそっと押し出し、それを口に入れた。ふわっと甘い香りと味が口の中に広がった。思わず口元が緩んだ。

「ふふ。幸せの元」

 そう言って芙美は微笑んだ。

「どう? 少しは慣れた?」

「いや……まだ」と鳴沢は答えた。「あ、でも飯はうまいっす」

「そう? 良かった」

 芙美はざるの中の春菊を取り上げて、悪い葉を摘んだ。

「そう言ってもらえると作りがいがあるわ」

 芙美は春菊の悪いところをよりながら、鼻歌を歌い始めた。春先の暖かな日がふたりを包んで、鳴沢は夢を見ているように平穏な時間に浸った。こんなに静かな時間を最後に過ごしたのはいつだったろう?

「あなたは落ち着いてるわね」

 ふいに芙美が言った。

「えっ?」

 意外な言葉に鳴沢はなんと返事をしていいかわからなかった。父親からは「図体ばかりでかいでくのぼう」としか言われたことがなかった。

「山崎さんが気にかける理由がわかるわ」

 気にかけなくてもいい、と鳴沢は思った。そして言った。

「あの人は……何なんすか」

「山崎さん? いい人よぉ」

 歌うように芙美は答えた。

「……なんか、こう、ふにゃふにゃしてるっつうか……よくわからないっつうか……」

 鳴沢の言葉に芙美は笑い出した。

「掴みどころがない感じ? みんなそう言うの。ときどき難しいこと言うしね。でも、いいのよ。聞き流して。そのうちにね、すとん、とわかるときが来るわ」

 それから芙美は立ち上がり、エプロンや膝についた細かな葉を払って落とした。

「でも、話はすごく親身になって聞いてくれるから。なんでも相談したらいいわ」

 そう言って芙美はキッチンへ戻って行った。

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