第16話 自受用三昧
鳴沢は掃除が終わるとホームの自室に忍んで行った。ずっと我慢していたが、もう限界だった。小銭を掴んでポケットに入れると、外へ出て街道へ向かう道を辿った。街道沿いにはコンビニがある。そこで酒を買うつもりだった。ホームは禁酒禁煙だったが、どこかでこっそり飲んで何食わぬ顔で寺の作業に戻ろうと思っていた。そうして、コンビニの入り口まで来たところで、後ろからふいに声を掛けられた。
「あれ、鳴沢くん、買い物?」
思わず飛び上がって振り返ると山崎が立っていた。山崎の足元には柴犬がいて、はっはっと息を吐きながらしっぽを振っていた。鳴沢の視線を追いながら山崎は言った。
「あ、これうちの犬。マロって言うんだ」
山崎は犬のリードを店の前にあるガードレールに繋ぐと、コンビニの扉を押し開けた。そして、鳴沢を振り返って「どうぞ」とにこやかに言った。完全に見透かされている。鳴沢は仕方なく、山崎の後に続いた。
山崎は、何気なく鳴沢と一緒に店内を回った。歩きながら、犬用のおやつを手に取った。
「これが無いとマロの機嫌が悪くってね」
そう山崎は言ったが、どうでもいい買い物なのは明らかだった。鳴沢は諦めて冷蔵庫から弱炭酸水を取り出した。せめて、喉越しがビールに近いものを、と思ったからだ。山崎も「僕も何か飲もうかな」と言ってペットボトルのお茶を選んだ。
「どうせだから、一緒に散歩でもどう?」
コンビニを出ると山崎は言った。鳴沢は観念するしかなかった。黙って頷いて、山崎と一緒に歩き始めた。
二人は街道を離れ、町の外れにある小さな山へと向かった。特に何も話さなかった。鳴沢は胃と喉に感じる酒への切望と戦いながら時折、山崎の横顔を覗いたが、山崎はただ犬に引かれるまま歩いていた。山の上には神社があるという。
下から見上げた神社への階段は長かった。山崎の犬はそんなことはお構いなしに足早に階段を登って行った。山崎も見た目よりずっとしっかりした歩調で付いて行った。鳴沢の身体は、ひと月も狭いところに閉じ込められていてなまっていた。途中で息が苦しくなったが、山崎より先に立ち止まったり、一休みしようなどと声をかけたりするのは悔しかったので、鳴沢はひたすらに登って行った。一定の速度を保ちながら、規則正しく呼吸を繰り返し、一歩一歩階段を登っていく。鳴沢はいつの間にか酒のことを忘れ、目前の段に足を掛けることに集中していた。そして、最後の段を踏みしめ、階段を登りきったときには、ちょっとした達成感を味わった。山崎を振り返ると、彼の息もはずんでいた。山崎は荒い息のまま犬に引かれるように神社の境内を横切って、少し開けた場所にあるベンチに腰掛けた。犬はベンチの前で横たわった。鳴沢も付いて行った。そこからは町とその外側に広がる山並みが一望でき、思いの外高い所に来たことが分かった。町は午後の日に照らされ、喧騒が遠くに響いていた。
鳴沢は買ってきた炭酸水のキャップを開けて飲んだ。炭酸が邪魔で、普通の水を買わなかったのが悔やまれた。山崎も自分の茶を少し飲んで、犬におやつをやった。その後は二人でぼんやりと景色を眺めていた。会話が無かったので、鳴沢は少しぎこちなく感じた。
「この間……。『在り方が整う』って。あれ、どういう意味すか」
そう尋ねた鳴沢を山崎は驚いたように振り返った。そして笑顔になった。
「そうだよ、そう来なくちゃ。鳴沢くんは絶対そう来ると思ってた」
鳴沢は山崎の見越したような言葉に思わずムッとした。それに気が付いて山崎は「ごめん。きっかけさえあれば、君はものをちゃんと考える人だと思ったから」と言った。
山崎はにこにこしながら少し考えた。
「そうだな。簡単に言うと『自分はこれでいい』って感じられることかな」
鳴沢は目を細めた。
「……また、禅問答ってやつすか?」
「そうじゃないんだけど……」
山崎は笑って腕を組んだ。
「僕の仲のいい友人にね。かなり背が低い男がいるんだ。百五十センチくらい。でもそいつ『自分で背が低いって意識しない』って言うんだ。それを聞いた時『えっ、嘘だろ』って思った。でも、そいつが言うにはね……」
もちろん、ぴったりの洋服を見つけるのは大変だし、混んでると電車の吊り革に届かないこともあって不便だと思うけど、俺にとっては世界がそうなってるだけなんだよ。それ以外の世界も知らないし。たまに、お前たちと一緒にいる自分が店のウィンドウに映ったりすると、「うわ! 俺、ちっけえ!」ってびっくりすることがあるけど。
「そう言って笑うんだよ。僕はそのとき、彼はすごい、と思った。こういうのを自然体って言うんだって。
「自分を好きになる、というのともちょっと違う。言ってみれば、『自分の在り方に矛盾が無い状態』かな。」
そう言うと山崎はやおら立ち上がって、近くから小枝を見つけてくるとしゃがみ込み、地面にがりがりと何か書き始めた。そして書き終わると立ち上がり、鳴沢を振り返って聞いた。
「読める?」
地面には、次のように書いてあった。
これただ、佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり
鳴沢は頷いたが、「でも意味不明っす」と言った。
山崎は同意するように大きく首を縦に振ると、小枝で言葉の一つひとつを指して説明し始めた。
「『佛にさづけてよこしまなることなき』っていうのは、世界に預けてしまってあれこれ心配しないこと。僕の友だちが言う『世界がそうなってる』って状態。
「『自受用』っていうのは、自分を受け入れ、自分を発揮すること。
「それが十分にできているのが『三昧』。
「それを保つことが『標準なり』」
そして山崎は上体を起こすと、腰に手を当てた。
「世界に預けてしまってあれこれ心配せず、十分に自分を受け入れ、発揮する。そしてそれを維持する。僕は彼の話を聞いて、彼みたいな心持ちを『自受用三昧』と言うんだと思った」
山崎は鳴沢を見た。
「そして、『自受用三昧』を維持している状態がお釈迦様の言う『中道』なんだと思ってる。
「坐禅は、そういう状態から外れてしまいがちな僕たちを『中道』に戻す、つまり、『在り方を整える』習慣なんだ」
山崎は小枝を放り出し、手をぱんぱんと叩いて埃を落とすと笑顔を見せた。
「面倒な話だから、今日はここまで。聞いてくれてありがとう」
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