第21話 吐露

 母親がスーツケースを引いて出掛けて行った晩、彼女の作った弁当を食べて鳴沢は一人で床についた。いつものように枕に母親の寝間着を巻き付けて、それに頬を押し付けて寝た。だが、夜中に酒臭い息をさせた父親に突然起こされた。父親は妻がいないことで鳴沢を問いただした。鳴沢は出掛け間際に母親が言った言葉を繰り返したが、今日は母親の仕事はないはずだと言う。母親が仕事に出る日は不規則なので鳴沢にはわからなかった。父親はあちこちに電話を掛けて妻の行方をつかもうとしたが無駄だった。父親は鳴沢に何度もどこに行くと言っていたか、誰かと一緒だと言っていたかと詰問したが鳴沢には答えられなかった。そのうちに父親は「もういい」と言って電気を消して横になった。暗闇に残されて鳴沢が不安を感じているうちに、父親のいびきが聞こえてきた。酔いに任せて眠ってしまったらしい。鳴沢はまんじりともしなかった。一人残されたことに恐怖した。朝になって、いつものように母親が台所で味噌汁を作っていてくれていることを願った。

 朝が来て、いつの間にか入っていた眠りから鳴沢が目覚めると台所で誰かが動く気配がした。母親が帰ってきたと思い、うれしくなって布団から飛び出した。扉の向こうに見えたのは父親の背中だった。パンをトースターに入れながら、湯を沸かしていた。

「お母さんは?」と鳴沢は聞いた。父親は鳴沢の顔を見ずに言った。

「知らねえ。そのうちに帰ってくんだろ」

 しかし、その日の夕方になっても、翌日になっても母親は帰ってこなかった。鳴沢は放課後毎日アパートの前に立って母親の帰りを待ったが、残酷に日は落ちていき、母は現れなかった。何日か経って、何度も聞いたように再び父親に「お母さんはいつ帰ってくるの?」と尋ねた時、父親は烈火の如く怒り狂って鳴沢に怒鳴った。

「うるせえっ。お前がいくらバカでもそれぐらいはわかるだろう! あいつは二度と帰ってこねえ! みんな捨てて出て行ったんだ。そうだ、捨てられたんだ。お前も! 俺も!」

 鳴沢は最初、父親の言葉を理解できなかった。何を言っているのかと思った。しかし、次の瞬間にその意味が腑に落ち、それが真実であることを悟った。それを認めてしまった時の崖に落ちていくような心持ちを、鳴沢はその後何度も思い出し、身震いした。



 鳴沢は芙美の問いかけに答えようとした。

「あの……、卵を割って……」

 言い終わらないうちに涙が溢れて言葉に詰まってしまった。自分でも何を感じているのかわからなかった。芙美はガスの火を消すと鳴沢に近づいた。

「大丈夫?」

 鳴沢は泣き顔を見られないように下向きになって頷いた。芙美は椅子を引いて、鳴沢の斜め前に腰掛けた。

 鳴沢は、気持ちを落ち着かせるために何度も深呼吸をした。それでも、母親の顔がちらついた。消えやがって、ちくしょう、ちくしょう。叫びたい気持ちを堪えて、両手をぎゅっと握った。

 芙美が鳴沢の肩にそっと手を添えた。

「我慢しなくていいのよ」

 鳴沢は芙美を見た。知り合ったばかりの女性に母親を重ね、助けを切望している自分に気が付いた。そしてそのことに戸惑った。しかし、その戸惑い以上に何か生き延びるための本能のようなものが鳴沢の唇を動かした。

「……やってない。俺は……やってない……!」

 そう言うのが精一杯で、後は鳴き声を堪えることしかできなかった。

 芙美は鳴沢の肩を擦りながら、「そう……。そうなのね……」と言った。


 芙美は鳴沢に対して、冤罪の話を山崎にするように勧めた。鳴沢は、山崎は自分の言うことを信じないと言ったが、芙美は口添えをするので山崎と今後どうするか決めたらどうかと促した。鳴沢が同意した後、芙美は鳴沢のいる前で山崎にメッセージを送った。しばらくすると山崎から芙美に電話が入った。鳴沢の状況をかいつまんで話した後も、山崎は鳴沢の冤罪の訴えについて懐疑的なようだった。そんな山崎に芙美は抗議するように言った。

「私、前に言いましたでしょ。鳴沢くんと強盗って変な組み合わせですねって。私だって何人もここで見てるんですから、普通、この年の子がここに来たらもう気が立ってるし、ほかの人のことなんて考えられないでしょう。でも、鳴沢くんは『ご飯がおいしい』って言ってくれるし、今日だって私が大丈夫って言ってるのにお米も運んでくれて、こんな思いやりのできる子が強盗なんて変ですよ。

「そりゃあ、私だって昨日は怒りました。せっかくきちんとやってきていたのに、どうして急に自分で駄目にしちゃうようなことをするのかしらって。でも、理由が理由でしょう」

 山崎が電話の向こうで「いや、鳴沢くんの本質が思慮深いっていうのはわかりますけど、初日に酒臭い息で喧嘩してこっち来てるってなると、僕だってやっぱりそれなりの見方をせざるを得ないじゃないですか」と反論しているのが聞こえた。しかし、芙美は「言ってることはわかります。でも、私たちの仕事はここに来る人たちの支えになることでしょう。こんなときに受け止めてあげられなくて何のためのお坊さんですか」と厳しかった。山崎はさすがに黙って、最後には「……わかりました」と言った。その後、山崎は今は同輩の寺の開山式を手伝っている最中なので、ホームに顔を出せるのは三日後になると伝えていた。鳴沢は考える時間が出来たのでほっとした。芙美は満足げに「それじゃ、明々後日に。時間はまた知らせてくださいね」と言って電話を切った。

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