私も瞑想をしたことがありますが、思った以上に難しかったです。常に何かに囚われて生きているんだと思いました。
過去からも未来からも切り離されて、ただ今を生きる。まっさらな自分になる。本当に、その通りですね。
鳴沢さんは、自分自身に立ち返ることができるのでしょうか……。
作者からの返信
現実的には、何も考えない、ということはありえませんからねえ。考えても中に入り込まずに出てこられるようになる、というのが目指す点かなと思います。
「自分が何者か」という自分の中での定義は、自分の人生を左右するほどの意味を持ちます。「あなたについて教えて下さい」と言われたときに私たちが語る物語は、私たちのこれまでの生い立ち、つまり「過去」という名前で、この世界に対して私たちが作り出した解釈に過ぎません。その解釈でさえ、「言葉」という媒体を使わなければ表わせないのに、その「言葉」が逆に私たちの在り方を定義してしまう、とは不思議なことだと思いませんか。
「今」という瞬間には、この言葉が入り込む隙きがないので、自分がただ在ることができるのだと思います。
菜々未ちゃんにいつか会える日を信じて、鳴沢くんにはもうひと頑張りして欲しいと思います…。
山崎さんの説明する座禅がレジリエンスというより、フォーカシングに見えて来ました。
職業病ですね(笑)
作者からの返信
ここはゲシュタルトを思いっきり意識して書きましたので、そう思われるのは必然かと…… (´∀`;)
坐禅と心理学を混ぜて書いてしまうのに躊躇がありまして、最初は山崎さんに「ここまでは坐禅」という境界を宣言させていました。でも、読む側にしてみれば「突然の技術情報乙!」って思うだろうし、頭の中で区切り付けながら考えたりもしないだろうなという結論に達し、目をつむってごちゃまぜのまま出してみました。
この作品は、北島さんに査読とレビューをお願いして、会議しながら書きたかったですね。そうしたら後の山崎さんのスピーチがもっと系統だったものになったと思います。