第15話 離れていく道

 鳴沢を最初に飲酒へ誘ったのは風間だ。酒乱の父親と同じものを飲むのは気が進まなかったが、実際に飲んでみるとふわふわした気分になって、家や学校で感じる居心地の悪さが軽くなるようだった。町中で風間と酔って騒いでいたところを補導されて、父親が警察に呼び出され、頭を下げているのを見た時は痛快だった。酒で散々人に迷惑をかけてきた父親が、息子の飲酒で困らされている。復讐の喜びは酒の酔い以上に魅惑的だった。この光景を見られるのなら、自分は何度でも飲酒で補導されてやろうと思った。

 風間はいつの間にか同じ中学の不良グループに馴染んでいた。風間はあの小生意気な、しかし憎めない笑顔で上手く立ち回り、上級生からはパシリという訳でもない、弟分のような扱いを受けていた。鳴沢も付随的にグループと関わるようになったが、面倒な上下関係に巻き込まれるのが嫌で付かず離れずを保っていた。しかし、夜半まで一緒に時を過ごせる顔見知りができたことは鳴沢にとっても好都合だった。暗がりで一人で星を見上げる代わりに、ゲームセンターの安い台で皆と時間を潰した。

 中学の二年生になると、風間は他校の生徒に絡んで喧嘩を売るようになった。うまく相手を負かしてしまえば仲間に、特に女子に武勇伝を報告したし、自分の手に負えないときは鳴沢に加勢を頼んだ。それまでには、鳴沢の顔には傷も出来ていて、地元の生徒の間では「川野の鳴沢」は相手にしない方が良いという了解がなされていた。だから、立ち会いに駆り出されたとしても、七割は噂につけ込んだ勢いでどうにかなると鳴沢にはわかっていた。本気での殴り合いに至ることは稀だった。

 それより鳴沢が心配したのは風間だった。弟の受験が近付いてくると、風間は追い立てられるように騒ぎを起こした。風間が補導されると、彼を迎えに来るのは必ず母親だった。一緒に補導された鳴沢が気の毒に思うほど、風間の母親は恐縮していた。風間の父親が来たことは一度も無かった。また、風間は鳴沢を家によく誘った。受験を控えた弟の隣室で最大の音量にしたゲームで遊んだ。弟が風間を迷惑がっているのはありありと見てとれたが、鳴沢がどうこうできる状況ではなかった。せいぜい「お前、うるせえよ」と言って、ボリュームを時々下げさせるくらいが関の山だった。

 風間は家族と食事をしなかった。いつも母親が風間の部屋に食事を運んで来ていた。食事の内容も、インスタントラーメンや冷凍物が多かった。それが風間自身の選択なのか、父親の言いつけなのかはわからなかった。鳴沢も時々相伴に預かった。不思議と風間の母親が鳴沢に嫌な顔をすることは無かった。風間は、「お前がこの家に居る間はクソジジイが猫かぶらざるを得ないからな」と言っていた。確かに父親の方は鳴沢が煙たいようで、「早く帰らないとおうちの人が心配するんじゃないかい?」などと風間の部屋に顔を出し、お為ごかしに言ってくることもあったが、鳴沢は「いや、うちは親父がまじクソなんで。心配なんてされないっすから」と言って居座った。風間の父親がドアを締めた後、風間と二人で笑いこけることもあった。

 年度が変わり、風間の弟は第一志望の私立の中学校に進んだようだった。その頃になると、風間は家庭内で暴れるようになり、手に負えなくなると風間の母親はなぜか鳴沢に電話をした。鳴沢は律儀に風間の家に出向いて、風間を落ち着かせるために外に連れ出した。二人で連れ立って風間の家を去る時に見る、風間の家族のほっとした表情を見て、家に親が揃っていようがいまいが、自分たちは家族に見捨てられた存在なのだと鳴沢は思った。

 鳴沢が三階の教室の窓から机を放り投げたのはその年の十一月だった。風間と二人で痛い目に会わせた他校の生徒たちが、教室にまで乗り込んで来たのだ。乱闘になり、風間にけしかけられて鳴沢が振り上げた机はガラス窓を突き抜け、校庭にまで落ちて行った。出席停止になりそうなところを救ったのは、生徒会長で同級生だった音羽雛乃だった。雛乃は風間と鳴沢の出席停止に反対する生徒の署名を集め、担任教師の支援と併せて風間と鳴沢の出席停止を食い止めた。雛乃に借りができた鳴沢と風間はこれで少しおとなしくなった。

 中学を卒業して、鳴沢は父親と同じ金属加工工場に勤め始めた。この工場は地元の定時制の工業高校と技能連携を結んでおり、雛乃に諭されて、鳴沢はその連携制度を利用した。中学の授業とは異なり、学ぶことの殆どはこれからする仕事に結びついていたので、目的も習得する内容も明確で納得がいった。鳴沢は初めて学ぶことが楽しいと感じた。もうひとつ楽しかったのは、父親から離れ、工場の借り上げのアパートで暮らし始めたことだ。築五十年の古臭いアパートだったが、夜中に酔った父親に突然蹴り上げられることも、泥酔した父親を呑み屋や路上から連れ帰る必要も無くなったのは夢のようだった。自分がいなくなった後、父親は一人でどうするのだろう、とも思ったが新しく手に入れた自由を手放すつもりはなかった。

 風間は金さえ出せば入れるといわれる私立高校に進学した。風間の父親が私立の学費に金を出すとは驚きだったが、「昇級が目前なのに息子が中卒じゃ困るんだろうよ」というのが風間の見解だった。今度は風間が鳴沢のアパートに入り浸るようになった。

 鳴沢が家を出て一年を過ぎた頃、鳴沢の父親が仕事中の事故で亡くなった。その頃には父親は肝臓を壊しており、高所作業中にめまいで足を踏み外したのだ。葬式の手配も費用も会社が請け負ってくれ、鳴沢は言われるままに弔問客に神妙な顔でお辞儀を繰り返した。涙は出なかった。これでとうとうあの怪物から本当に解放されるのだと思うと、心底ほっとした。

「陽介くんもこれから大変だと思うけど、そんなに落ち込まないでね」

 そう声を掛けてくれた人がいて驚いた。「はい」と応えながら、落ち込んでいるように見えるとしたら、それは父の死を悲しいと思わない自分に対する罪悪感からだろう、と思った。

 風間が学校を辞めて鳴沢のところへ転がり込んだのはそれからしばらくしてからだ。鳴沢も天涯孤独になってさすがに寂しかったので、風間の同居は鳴沢を明るい気持ちにさせた。風間は鳴沢と同じ工場の梱包の仕事についた。最初の三か月はパート扱いで給料が低いことに文句を言っていたが、稼いだ金で家賃の半分を入れていた。鳴沢も風間の家には中学時代に世話になったので、家賃だけをもらっていた。しかし、本採用になって何か月もしない内に風間は工場を辞め、様々なバイトを転々とするようになった。そのうちに、家賃の支払いも滞るようになった。鳴沢もそれを大目に見ていたが、ときには催促した。そうすると風間は、その金をどこから工面してくるのか、ビールだのつまみだのを買ってきて、「悪りぃ!来週になったら金が入るから!今はこれで勘弁してくれ」と鳴沢にあのにかっとした小生意気な笑顔を向ける。そうなると鳴沢もまあ仕方ないか、と諦めてしまうのだった。

 とはいえ鳴沢も聖人君子なわけではなかった。そうやって風間が買ってきた酒が回ってくると、ときにはいつもは言わない不満が溢れ出してくる。くだを巻き、風間を小突いた。風間も気が短いのでやり返す。取っ組み合いの喧嘩になることもあった。

 風間の交友関係は徐々に胡散臭いものになっていった。コウタや舞依の怪しげなビジネスを手伝うようになり、そこから人づてで危ない仕事もするようになっていった。夜出掛けて、朝方帰ってくることが普通になった。不似合いに派手な腕時計を付け始め、不定期だが家賃以上の金を鳴沢に渡すこともあった。鳴沢が金の出所を聞いても「最近、いいバイト見つけてさ」としか言わなかった。更に、ばかにハイになって帰って来ることが増えた。ただでさえお喋りなのが止めどなく話し続け、話に脈絡もなかった。鳴沢は普通の仕事を見つけて、薬も止めるように何度も言ったが、風間はへらへらと聞き流した。

 ある日、鳴沢が仕事から帰ってくると、風間は全裸で嬌声を上げながら大音量の音楽に頭を揺らしていた。傍らには同じく全裸の女が寝ていた。鳴沢はその場で二人を追い出した。その日以降、風間はその女と暮らし始めたようだった。しかし、気が向けば鳴沢のアパートに戻って来て、勝手に飲み食いをして泊まって行く。鳴沢はそれを許していたが、いつしか風間が泊まった翌日に財布から金が無くなっていることが続いた。「いいバイトしてるんじゃないのか」と鳴沢が問いただすと、「いろいろ付き合いがあってよう。すぐ返すからさ」と信用に足らない返事でごまかすばかりだった。

 風間がコウタの「ビジネス」の運転手代行を鳴沢に頼んだのもそんな時期だ。鳴沢は絶対に嫌だと言い張ったが、風間は「まじで別んとこに顔出さないとヤバいんだよ。運転手だって誰でもいいってわけじゃないしさ。頼むよ、お前ほど口堅いヤツいないんだよ。このとおり!」と言って、床に額を擦り付けた。鳴沢だってそんな風間を見たいわけではない。困り顔で溜息を吐くと、「わーったよ、やりゃあいいんだろ」と言って運転手を引き受けた。

 それから何日かの間、風間はアパートに顔を出さなかった。鳴沢は風間に、コウタ主催の援交パーティーで菜々未に出会って彼女を連れ出したことも、そのせいでバイト代が一銭も出なかったことも、報告する機会がなかった。あまりに連絡がないので風間の安否を気にし始めた頃、風間は顔を真赤にして突然アパートに踏み込み、鳴沢を怒鳴りつけた。

「お前何やってんだよ!コウタさんの客出し抜くような真似してよう!」

 鳴沢は風間が何を言っているのか、すぐに察した。

「ばかやろう、音羽の妹だぞ。俺の目前で妹になんかあったら、俺が音羽に殺されるわ。お前だってあいつには借りがあるだろう」

「何年前の話してんだよ。そんなとこに来る女なんかそんなもんなんだよ。ヤッて金もらえればそれでいいんだよ。ったく、これで舞依とも……」

 鳴沢は思わず風間の頭を平手で思い切り叩いた。風間が何か言い返す前に、また叩いた。風間は両腕で頭を守りながら反論しようとしたが、鳴沢の平手打ちがそれを阻んだ。風間は打たれながらようやっと「女なんか金でみんなどうにかなんだろ!何必死こいてんだ、おめえ!」と怒鳴った。鳴沢は風間の頭をぐいと掴んで、引き寄せると言った。

「……俺の前で二度とそんな口利くんじゃねえ」

 鳴沢は、風間の頭を放り投げるように手放した。風間は悔しそうにしていたが、もうそれ以上何も言わなかった。アパートの合鍵を思い切り床に叩きつけて出て行った。

 その後、風間が鳴沢を訪ねたのは二回だけだった。一回目は大きな借金を頼みに来たが、鳴沢が断った。二回目は、酒を持って来て、鳴沢のパーカーとスポーツシューズを盗んで行った。それ以降、風間は鳴沢の前から完全に姿を消した。

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