第14話 問答
自立準備ホームでは、朝の五時半になると手振りの鈴が響いた。起床の合図だ。住人はごそごそと起き出し、六時までに隣接する大正寺の中にある広間の前に並ぶ。中には座布団と坐蒲が四方の壁に向かって置かれていた。禅堂だ。ホームの住人が近所の人々に混じって朝晩に坐禅をするのが、このホームでの必須の日課だった。もちろん誰にでも歓迎されるような習慣ではなかったが、鈴は全員が起きてくるまで鳴り止まなかったし、禅堂に入り、それぞれが黙ってただ壁や障子に向かって座る様子があまりに当然に行われるので、抵抗する方も戸惑ってしまうのだった。鳴沢も最初はいかにも「施設での生活」といった雰囲気に驚いたが、皆と一緒に黙って坐ってみると何となくしっくり来た。
坐禅の最中、山崎は皆の後ろを歩き回ることもしなかったし、警策で肩を打つこともしなかった。最初に禅堂での立ち居振る舞いと坐禅の座り方を教え、後は自分も皆と一緒に座るだけだった。眠りこけている者は、古参の者が注意した。
「これ、何かの役に立つんすかね。悟りが得られるとか」
坐り始めて二、三日目に鳴沢は山崎に聞いた。
「なんにも」
山崎はにこやかな笑顔で答えた。それが当然という顔だった。
「じゃ、何のために座るんすか。朝早くから」
すこし面食らって鳴沢は聞いた。
「習慣だね。習慣は大切だよ」
それから、少し置いて山崎は言った。「後はね、位置合わせみたいなもんかな」
「位置合わせ?」
「そう。僕たちの頭は振り子みたいなもので、思うようにならないとふらふら、気持ちをかき乱されるとふらふら、あっちこっちに揺れて落ち着かなくなるのさ。背骨を真っ直ぐにして静かに坐っていると、その振り子が落ち着いてきて揺らぎが小さくなる。僕らが生きてる限り、振り子の振動がまったく無くなるということはないけれど、無駄にゆらゆらすることは減ると思うよ。そうして、その振り子を僕らの身体の真ん中に合わせる。僕は、この頭の振り子と身体の中心位置が合うことで、僕らの『在り方が整う』と思ってる」
鳴沢は、山崎の言う『在り方が整う』という意味がよくわからず、眉をひそめて山崎を見た。
「……禅問答みたいだと思うかい?」
山崎は楽しそうに笑った。
「そのとおりだよ。頭でいくら考えても理解なんてできない。こればっかりは坐り続けてみないとわからないのさ」
ホームでは施設や寺の境内の掃除、食事の準備以外の雑事が日課として住人にあてがわれた。鳴沢は与えられた仕事を黙々とこなし、今の状況や今後に対する不安を紛らわした。しかし、境内を竹箒で掃いている最中など、ふいに自分が殴った風間の顔が浮かんではっとすることが多かった。自分がアパートで荷物を詰めているときにドアを開けた風間。逆光の中で笑った風間の顔と、初めて会った時に肉まんを鳴沢の顔に押し付けて陽気に笑った彼の顔が重なった。思わず頭を振って、その映像を頭から追い出そうとするのだが、考えまいとするほど風間の顔がちらつき、右手が痛んだ。いつしか作業の手は止まり、酒への誘惑に駆られた。飲んですべてを忘れてしまいたいという焦燥感に囚われた。
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