第12話 少年の日

 右手が痛む。

 しびれるように拳から指先まで、そして手の甲が突き刺すように繰り返し痛む。

 それでも鳴沢はその拳を振るい続けた。風間の頬の肉が裂ける感触が蘇る。自分の指の骨が風間の歯にぶつかる。衝撃は指を通して、手首、そして肘にまで突き抜けていく。

(殴っている。俺は伸司を殴っている。)

 風間は両腕で頭を抱えるように守ろうとするが、鳴沢はその腕を掴んで引き剥がすと、打てる場所が顎だろうが、耳だろうが狂ったように拳を打ち込んだ。打ち込みながら、今の自分は父親と同じような、酔って焦点の合わない目をしているに違いない、と思った。


 どん、という壁を蹴る音が響いた。

「……るっせぇんだよ、てめえは! 毎晩、毎晩! ちったぁ静かに寝ろっ!」

 目が覚める。暗がりに敷かれた煎餅布団と、その向こうにささくれた畳が目に入る。自分がホームで割り当てられた小さな和室にいることを思い出す。

 隣人が毒づきながら、布団に入り直す音が聞こえた。

 鳴沢が身を起こそうと右手に力を入れると、ずきんと痛みが走った。

 左手で身体を支えながら、布団に起き上がる。カチカチと時計の音が大きく響いていた。文字盤が蛍光塗料で光る、古臭い目覚まし時計が三時を指していた。


     *     *     *

     

 鳴沢が風間と知り合ったのは、小学校の六年生のときだった。前年まで鳴沢は、父親が暴れてもじっと家の中で耐えていた。しかし、年を重ねて夜間に外出することにも自信が付き、父親の雲行きが悪くなると家を飛び出すことが多くなった。いつでも外に行けるように、ポケットに双眼鏡を入れたジャンパーを手元に置いておいた。実際に逃走に成功するのは三回に一回程度だったが、トランス状態に入った怪物から逃れられるなら何度でも試みた。

 外に行ってすることといえば、暗がりで星を見上げるくらいしかなかったが、それでも、普段は見えないような小さな星が見える晩もあり、それは鳴沢にとって安らぎだった。雨の日や、あまりに寒い日などはコンビニに避難した。同じコンビニに毎回行くと不審な目で見られたので、近所の複数のコンビニを巡り、時間を潰した。風間とはそこで出会った。

 その日は雲が多く見るものもなかった。コンビニにも、もういい加減長居をしていたので、レジの店員が胡散臭そうに鳴沢を見ていた。鳴沢は、そろそろ潮時だと感じ、店を出た。しかし、そこで立ち止まった。先程までは晴れていたのに、今は雨がかなりの音を立てながら軒先から降り注いでいた。通り雨だろうと思い、しばらく庇の下で待つことにした。店内から漏れる光が水溜まりに白く反射して、そこに雨だれが落ちるたびに不規則な波紋を作っていた。その様子をぼんやりと見ていると、「お前、ときどき見るな」と誰かに横から声を掛けられた。

 振り向くと、自分と同じくらいの年の少年がしゃがんで肉まんを頬張っていた。鳴沢は何と応えていいのかわからず、黙ってその少年を見た。自分より小柄で細身だったが、なんとなく自信に溢れて、大人にも生意気なことを言いそうなやつだな、と思った。

 鳴沢が黙ってその少年を見つめていたせいか、少年はかじりかけの肉まんを鳴沢に突き出すと、「食うか?」と言った。実際、鳴沢は夕食を食べそびれていたのでその申し出はありがたかった。

「いいの?」

 一応の礼儀で聞いた。

「んな食いたそうな顔してたら、そう言うしかないだろ」

 少年はにかっと笑って、肉まんを再び突き出した。

 鳴沢がおずおずと手を伸ばすと、少年はさっと肉まんを引っ込めた。鳴沢は面食らうのと同時に、少し不機嫌になった。

「うっそぴょーん」

 そう言って少年は立ち上がり、再び鳴沢の目前に肉まんを突き出した。鳴沢が今度は疑わしい表情で少年を見ると、彼はいたずらっぽい笑顔で頷いた。しばらく様子を見ていた鳴沢が、ようやっと目前の肉まんを受取ると、少年は今度はすかさず鳴沢の手を鳴沢の顔の方に押しやった。鳴沢の鼻面は手の中の肉まんに埋まった。

「ひゃっはっはっ!」

 少年はいとも愉快そうに甲高い声で笑った。

 これが鳴沢の風間伸司との出会いだった。


 風間は週に四日、塾に通わされていた。私立の中学校を受験するのだという。残りの日も、絵画やらサッカーやらで遊ぶ暇も無いようだった。鳴沢とは違う学区の小学校に通っており、このコンビニの近くに彼が通う塾があるとのことだった。面倒だが両親は厳しいし、「俺は期待の星だからさ」と言っていた。風間は一人でべらべらと思いつくままに喋り、鳴沢は黙ってそれを聞いた。受験する中学のこと、父親は大企業で結構な地位にあること、自分に期待されていること、母と弟のこと、家族でハワイに行ったこと……。鳴沢は思った。風間は自分とは随分違う。裕福な家庭に生まれて、両親の注目を集めているのだ。

 それ以降コンビニで鉢合わせると、風間は必ず食べ物を鳴沢に奢った。鳴沢が何も返せないからと言っても、「いいって、いいって」と言いながら二人で夜食を頬張りながら風間はお喋りを続けた。そのお喋りには、初日に比べて、少しずつ愚痴や塾通いの中で辛いと思うことなどの話題が増えていった。鳴沢は徐々に、このお喋りの時間は風間に課せられたプレッシャーの中での彼の貴重な息抜きなのだということを理解した。

 鳴沢は一度、星を見ないかと風間を誘ったが、風間は「そんなジジイみたいなことするかよ」と例の甲高い声で笑った。ある日、鳴沢はまだ使えそうなサッカーボールがゴミ箱に捨てられているのを見つけた。それを拾ってきて、コンビニの近くの公園の茂みに隠した。それから二人は公園でサッカーの真似事をするようになった。風間はサッカーのジュニアチームに入っていてボールの扱いが上手かった。ときどき真剣になり過ぎ、夜遅くにボールを蹴る音を激しく響かせて二人で大声を出すと、近所の大人に怒鳴られた。

 ある晩のこと、二人が公園でボールを蹴っていると、公園の入口に自動車が停まった。中から出てきた人物を見て、風間は固まった。

「遅かったから心配で見に来たよ」

 風間に似て細身で少し声の高い男性は、そう言って風間の方へ歩いてきた。顔は微笑んでいたが、彼を取り巻く空気は冷たかった。風間はその場に張り付いたように動かなかった。

「帰ろうか」と言って男性は風間の背中に手を回した。そうして初めて気が付いたように鳴沢を見て、「君は?」と言った。鳴沢がぽかんと口を開けたまま男性を見ていると、風間が小さな声で「塾で一緒の……」と言った。男性は鳴沢を上から下まで見た後、「かばんが見えないようだけど……」と周りを見やった。鳴沢は黙って、少し離れた植え込みを指した。

「そう」と男性は言って、「君ももう帰りなさい。遅いから」と冷淡な横顔を向けた。そして風間の背中を押した。風間はちらりと鳴沢を見やり、小さく頷いた。そして近くに置いてあった塾のかばんを掴むと、頭を垂れたまま男性に付いて行った。鳴沢がいつも見る自信ありげで小生意気な様子は微塵もなかった。

 それ以降、鳴沢がコンビニで風間を見ることはなかった。そのコンビニの近所にある塾をいくつか回ってみた時に、そのうちの一つの塾から風間が出てくるのを見たが、近くに止めてあった自動車からこの間の男性が出てきてすぐに風間を連れて行った。

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