第11話 凶行

 鳴沢は強盗事件のせいで工場を退職することにになった。工場は弁護人を指名してはくれたが、費用は鳴沢の未払いの給与と退職金から充て、残りは上司がポケットマネーから負担した。その上司からも「今回の件についてはね、生前、お父さんから君のことを頼まれていたからここまで面倒見たけど……。これ以上は……ちょっとね……」と言われてしまった。鳴沢のアパートは会社の借り上げだったので、退職後はいられない。鳴沢は身の振り方も決まらないうちに放り出されることになった。

 およそ一月ぶりに鳴沢が自分のアパートに帰ると、人が住んでいる気配があった。流しには洗い物が残っており、ゴミ箱には新しいカップラーメンの空き容器が覗いていた。鳴沢のいない後、風間が入り込んで住んでいるのだと鳴沢は思った。風間はまだ鍵を返していなかった。

 自分さえ出て行けば後は会社がどうにかする。ともかく持てるだけの荷物を持って出て行こう、と鳴沢は思った。風間とは顔を合わせたくなかったので、なるべく手早く荷物をまとめるつもりだったが、部屋の中を見て回っているうちに子供向けの星座の本を見つけた。

 鳴沢が九歳ぐらいだっただろう。まだ母親も一緒にいた。めったにないことだが、親子三人でプラネタリウムに行った。そのときに買ってもらった星座早見盤付きの図鑑だった。鳴沢はそれがいたく気に入って、夜ごとに図鑑を持ち出してベランダから星を見ていた。その後も、星座や宇宙に関する本を図書館から借りてきては読んでいた。それを見て、父親が珍しく双眼鏡を買ってきてくれた。口径もそれほど大きくない安物の双眼鏡だったが、それで月を見るとクレーターがはっきり見えて驚いたのを覚えている。

 懐かしく思って本を手に取り、ページを繰った。季節ごとに見える主な星座が各ページに描かれていた。鳴沢は冬の夜空が好きだった。見える星の名前が冬の方がかっこいいと思っていた。最後のページを捲ると、裏表紙の見返しに写真が貼ってあった。プラネタリウムに行った時に、通りがかりの人に撮ってもらった自分たちの写真だった。父親が携帯からわざわざプリントしていたのを覚えている。鳴沢は屈託のない様子で笑っていた。何も知らない人がみたら幸せそうな家族と思うだろう。少なくともあの日は、口論も暴力もなく幸せだった。

 本を閉じて目を上げると、その本の後ろにしまってあった日本酒を見つけた。風間は本などに興味を持たないため、気付かなかったのだろう。残しておいて風間にタダで酒を飲ませるのは癪だったし、鳴沢自身も警察で散々な目にあったのでうさをはらしたかった。鳴沢は手近にあった湯呑みを掴むと酒を注ぎ、そのまま一気に飲み干した。急に腹と手足が暖かくなり、緊張が緩んだ。少し気が軽くなって、再び湯呑みを満たした。そして、そのまま飲みながら鳴沢は荷造りを始めた。

 二時間ほどが過ぎ、手持ちのボストンバッグとバックパックに詰められるだけのものは詰め終わった。これを飲み終わったら行こう、と最後の一杯をあおっていたところ、ドアが開いた。鳴沢は振り返った。風間だった。そして二人の目が合った。



「あのとき、風間が謝ってくれたら自分はもう少し落ち着いていたと思います」

 鳴沢の手は膝の上でぎゅっと閉じられていた。

「でも、あいつは目が合って、笑ったんです」



 開いたドアから日が差し込んで、風間の顔は逆光でよく見えなかった。気まずさをごまかすためだったのか、蔑み笑いだったのか、わからない。鳴沢の目に映ったのは、風間の口元が横に大きく開いて覗いた白い歯だった。その瞬間、鳴沢の視界にはその白い歯だけが残った。そして、鳴沢は吐き気のような強烈な感覚が腹の底から湧き上がってくるのを感じた。あの歯をへし折ってやりたいという凄まじい衝動だった。

 言葉にもならないような唸り声を上げて鳴沢は風間に飛びかかった。逃げようとする風間を引きずり倒し、その顔に幾度も拳を振り下ろした。握りしめた拳に肉が潰れる感触を受け、鼻か歯かが折れる衝撃も伝わってきた。風間が上げる屠殺される動物のような声も聞こえた。しかし、どうしても殴ることを止められなかった。

 ようやく我に返ったときには、手が倍に膨れ上がったかのようにじんじんと痛み、足元には血だらけの風間が倒れていた。



「その途端に急に怖くなりました。自分は何をしたのかと思いました。自分の父親のことを考えました」



 鳴沢の父親は酒乱で、酒を飲んでは妻や息子に暴力をふるった。鳴沢の母親はそれで家を出ていった。残された鳴沢は、一際激しくなった父親の暴力に晒された。それを避けるために夜間徘徊するようになった鳴沢は、風間と知り合い、悪い仲間と過ごすようになった。ある晩遅く、家に戻ると居合わせた父親と口論になった。父親は、いつもどおり鳴沢を叩き始め、自らの怒りで徐々に興奮すると鳴沢を殴った。この時、身体も大きくなっていた鳴沢は初めて父親を殴り返した。頭に血が上った父親は、鳴沢に飛びかかろうとしたが鳴沢は一歩退いた。かなり酔っていたせいもあり、父親はよろけてテーブルに手をついた。そして間近にあった安物のグラスを掴むと、鳴沢に向かって投げつけた。身を捩って鳴沢はグラスを避けたが、グラスは壁に当たって砕け、破片がそちらの方向を向いた鳴沢の顔を直撃した。青くなった父親が呼んだ救急車で、額と手からおびただしい量の血を流しながら鳴沢は病院に運ばれた。

 鳴沢の顔と手には傷が残った。父親はしばらく大人しくしていたが、鳴沢の傷が癒える頃には以前と変わらずに酒を飲んでは暴れた。鳴沢に手を上げることもあった。しかし、鳴沢は二度とやり返さなかった。その代わり、父親より高くなった背を思い切り伸ばし、黙って父親を見下ろした。父親も深追いすることはなくなった。



「血だらけで横たわる風間を見下ろしながら、自分のしでかしたことにぞっとしました。酒に呑まれて、父親がしていた以上の暴力を他人にふるっている。風間が電器店の店主にしたよりも残酷なことをしている。自分も父親と同じ道をたどるのかと思いました。自分が子供の頃から怯えて耐えていたことを、自分はこれから他人に為すのだろうかと思うと全身から力が抜けていくようでした」



 鳴沢は二つのバッグを掴むとアパートを飛び出した。途中の公園で手を洗ったこと以外、自立準備ホームに行くために指定された駅までどうやってたどり着いたのかはよく覚えていない。電車からプラットフォームに降り立ったとき、あたりは薄暗くなり始めていた。夕方の明かりが残る改札口の外で、あまり背の高くないハの字眉毛をした痩せ型の男が立っていた。ひと目見た感じでは教師然としていたが、頭には毛が無く、着ているものは汚れたダウンジャケットにぶかぶかのトレーナーとくたびれたスウェットパンツで、足元はサンダルだった。地元の商店街で安く手に入れたと思われるピンク色のトレーナーは、おおよそお洒落とは言い難い絵柄が前身頃に大きく描かれていた。男はバッグを抱えて改札を抜けてきた鳴沢に近づくと、「もしかして鳴沢くん? 自立準備ホームの山崎です。よろしく」と言って、人懐こい笑顔を見せて手を差し出した。反射的に差し出した鳴沢の手の様子に気が付いて、山崎は「あれっ? 怪我してる? 大丈夫?」と聞いたが、鳴沢は「はい」と硬く答えただけだった。山崎は鳴沢が酒臭いことに気が付いたようだが何も言わなかった。「荷物、一つ持とうか」と言って、鳴沢のボストンバッグの取っ手を握ると、夕方の通りに歩き出した。

 鳴沢は山崎がホームに向かっていると思ったのだが、連れて行かれたのは整形外科だった。中に入ると山崎は受付で、「大正寺の山崎です。ホームの患者です。」と言った。申し送りがあるらしく、受付係は「どうされましたか?」と山崎と鳴沢を見た。山崎は鳴沢を見やりながら「ボクサー骨折みたいで……。」と答えると、受付係はごく事務的に「わかりました。こちらに記入しながら、掛けてお待ちください。」と、問診票を渡しながら言った。山崎は待合室のベンチを指して、鳴沢に座るように促した。山崎は受付係と二言三言交わした後、氷嚢を持ってきた。

「痛いでしょ」

 山崎は、鳴沢の手の甲に氷嚢を当てた。鳴沢は何か言われるかと構えたが、山崎はただ横に座り、鳴沢の代わりに問診票に記入を始めた。しばらくは山崎が問診の内容を伝え、鳴沢が答える声だけが待合室に響いた。

 診断の結果、鳴沢の指にはひびが入っており、固定後、完治したらリハビリが必要とのことだった。鳴沢が保険証が無いと言うと、山崎は「今は建て替えておくよ。後で保険の手続きをすれば返金してもらえるから」と答えた。それからぽつりと一言付け加えた。

「もう喧嘩しちゃだめだよ」

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