第7話 帰宅
二人はしばらく無言だったが、菜々未の頭の中では先程鳴沢が言った言葉が気にかかっていた。聞こうかどうしようか考えあぐねて、やっと勇気を出して話しかけた。
「お姉ちゃんに借りがあるってどういうことですか」
鳴沢は軽く笑って、「さんざん怒られたってことだな」と答えた。
「俺が三階から机放り投げたの知ってるだろ?」
鳴沢はミラー越しに菜々未を見た。菜々未は頷いた。
「あのとき出席停止に反対してくれたのが音羽だ。……聞いてないか?」
菜々未は首を振った。
「中学のときは……あんまり仲良くなかったから……」
「そうなのか? 意外だな。俺には……」
言い始めて鳴沢はそこで黙った。菜々未はミラーの中の鳴沢を見つめた。その視線に気が付いて、鳴沢は少し取り繕ったように言った。
「音羽は……雛乃は物怖じしないだろ。俺なんかにも平気で声かけてきて、学校にちゃんと来いだの、進路を考えろだの。先公より真剣だったな。定時制でもともかく高校に行っとけって。俺は親父と同じ工場に勤められればいいと思ってたけど」
菜々未は、そういえば姉が父に職業訓練校や定時制の高校についてあれこれ聞いていたことを思い出した。県立の進学校に A 判定が出ているくせに、なんでそんなことを聞いているのか当時は不思議だった。
「そんな気にしてたってことは……」
菜々未は尋ねながら、自分の顔が赤くなるのがわかった。
「お姉ちゃんは……な、鳴沢……先輩のこと好きだったんでしょうか」
鳴沢が前を向いていて、自分の顔が見えないのがありがたかった。
「ああ、そりゃねえな」
鳴沢は即答だった。
「雛乃はバカ嫌いだからな。それに彼氏がいただろ? 副生徒会長の……須田だっけか?」
「そうなんですか?」
初耳だった。
「あっ、……秘密だったのか?」
鳴沢はちょっと肩をすくめた。
「まあ、時効だろ。三年になってから付き合い始めたから受験でどうのこうの言われたくなかったんだろう」
菜々未はショックだった。雛乃が中三、菜々未が中一だった一年間、雛乃は菜々未に冷たかった。入学してすぐの頃、雛乃の教室に忘れ物を借りに何回か行き、そのときにきつい口調で怒られた。それまではとても優しい姉だったので驚いた。多分、どんくさい妹がいると思われるのが嫌だったのだろう。その後は、なるべく雛乃にまとわりつかないようにした。雛乃が高校に進んだ後は、また優しい姉に戻ったので、やはり同じ学校にいるのが嫌だったのだと思った。だから、高校は別のところに進学した。そもそも雛乃と同じ成績など取れなかった。それでも、雛乃に付き合っていた相手まで秘密にされていたのかと思うと傷ついた。
「じゃ、もう須田とは付き合ってないってことだな。どうしてるんだ。元気か?」
その言葉に我に返り鳴沢を見た。鳴沢の様子はごく自然だったが、菜々未はすぐにその言葉の裏を勘ぐった。「今は西大に行ってます」
そしてわざわざ「同じゼミの人と付き合ってます」と付け足した。
「西大か、すげえな。相変わらずバリバリやってんだろうな」
鳴沢は懐かしそうだった。
菜々未は少し意地悪な気分になった。
「……鳴沢先輩は……どうだったんですか。お姉ちゃんのこと。好きだったんですか」
「えっ」と言って、鳴沢は笑い出した。
「いいヤツだけど、あんなおっかねえのはちょっとなあ」
それからミラーの中の菜々未をちょっと見て「言うなよ」と付け足した。
傷の目立つ顔に似合わないいたずらっぽい表情に、菜々未は微笑みたくなるようなむずがゆい気持ちが涌き上がって、頷くふりをして下を向いた。
それから二人は何も言わなかった。
車が川野の市内に入ると、「家は変わってないだろ? 緑地公園の南にある、なんとかってスーパーの近く」と鳴沢が聞いた。
「はい。……うち、知ってるんですか」
「ああ。親父が死ぬまでは公園の北側に住んでた」
「……前に……。お姉ちゃんが年賀状が返って来ちゃったって言ってました」
菜々未は下を見て、髪を耳にかけながら言った。
「年賀状書いてあげてください。住所知りたがってたから」
「そうだな」と言った鳴沢の声はやわらかかった。
菜々未の自宅に続く袋小路の入り口に車は停まった。鳴沢は運転席を降りると、反対側に回り、後部座席のドアを開けた。菜々未はちょうどステップを降りるところだった。「足、痛いだろ」と言って鳴沢が手を差し出した。菜々未は鳴沢の顔を見ないようにしながらちょっと頭を下げて、その手に自分の手を重ねた。菜々未は自分の手が鳴沢の大きな手に包まれ、ステップを降りるタイミングでぎゅっと強く握りしめられるのを感じた。先程の男たちと違い、一人の女性として見てくれ、敬意を払ってくれていることが感じられた。手を離すときに、ほんの少し気恥ずかしさが漂った。
鳴沢はスライドドアを勢いよく閉めると、菜々未の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
菜々未は目を合わさずに頷いた。
「変な目に合わせて悪かったな」
菜々未は首を横に振って、鳴沢を見上げた。微笑んでいるような、悲しんでいるような表情だった。
鳴沢のせいではない、と言いたかったが言葉にならなかった。菜々未はただ黙って頭を下げた。そして、自宅の方に向かって歩き出した。鳴沢も運転席に戻るために歩き始めた。
背後で運転席のドアが閉まる音がしたので振り返ったが、鳴沢はウィンドウを下げて、菜々未にそのまま行けというように手を払った。
袋小路の奥で自宅の門を開けて、菜々未がもう一度通りを振り返ると、車のエンジンが掛かる音が聞こえた。暗くて運転席の様子はよく見えなかったが、菜々未はドアの前で鳴沢に向かってお辞儀をした。頭を上げたとき、運転席の鳴沢も右手を挙げて振ったような気がした。
車が走り去った後も菜々未はしばらく通りの暗がりを見つめたままだった。玄関灯に照らされた生け垣の影からコオロギの鳴き声が響いていた。
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