第6話 絆創膏

「えっ?」

 鳴沢はミラー越しに菜々未を見た。菜々未はシートベルトを外して、走行中の車内をよろよろとドアの方に向かった。

「おい! 危ないから座っとけ!」

 鳴沢はミラーと進行方向を交互に見ながら言った。

「降ります! 降ろして!」

 菜々未はお構いなしに、スライドドアのハンドルを掴もうとした。

「危ねえって! ロックかかってんだ。開きゃしねえよ」

 鳴沢はきょろきょろと周りを見回してどこか停車できるところを探した。

「開けてください!」

 菜々未はパニックになった。今日は本当についていない。訳のわからない合コンなんかに参加して、変な家に連れて行かれるし、知らない男からあからさまに性交渉を持ちかけられるし、挙句の果てに足まで触られた。舞依の言うことをバカ正直に信じてしまった自分が情けなかった。上手く抜け出せたかと思ったのに、『払うもんは払ってんだ』? 『後はどうしようと俺の勝手』? これからどうなってしまうんだろう? こんな大柄な男に襲われたら逃げ出せっこない。心臓が痛いほど強く打って、手が震えるような恐怖を感じると同時に理不尽な状況に腹が立ってきた。

 鳴沢はリゾートの中心を通る、一際通りが広くなっている並木道で車を停めた。シートベルトを外して、シートの背もたれ越しに菜々未を振り返った。

「落ち着けよ。あんたを家に送ろうとしてるだけだ」

 鳴沢の声は冷静だったが、本当のことを言っているのかは分からなかった。

 菜々未は思い切り鳴沢を睨みつけて「開けてください」と言った。鳴沢は再び口を開きかけたが、菜々未はそれを許さず「開けなさい!」と怒鳴った。怒りで頬が紅潮して、肩で息をしているのが自分でもわかった。

 鳴沢は呆然と菜々未を見ていたが、その頬がふと緩んだのに菜々未は気付いた。そして唇を噛んで笑いを堪らえようとしていたが、やがて耐えきれずに鳴沢は横を向いてふっと吹き出した。

「悪い」と言って、口元に手をやり一生懸命真顔を作ろうとするのだが上手く行かなかった。

 それにつられて菜々未も思わず口元が緩んだが、精一杯怒った顔を作って「……なんですか」とようやく低い声を出した。

 鳴沢は肩を揺らしながら、「……あんた、怒ると姉貴に」と言って少し吹き出し、「……そっくりだな」と言い終わるやいなや大笑いを始めた。

 その笑い声に悪意がないことは感じ取れたが、菜々未は自分が怒っていいのか笑ったらいいのか分からずに口をへの字に曲げたまま鳴沢を睨んでいた。

 鳴沢はようやく一息つくと「あんた、音羽雛乃の妹だろ」と言った。菜々未は頷いた。鳴沢が姉の雛乃と同じクラスだったことは知っていたが、鳴沢が自分を知っているとは思わなかった。「俺は音羽に借りがたくさんあるんだ。その妹に悪いことはしない」と、鳴沢はまだ笑みの抜けない顔で言った。

「……でも、さっき『払うもんは払った』って。あれなんですか」

 菜々未は落ち着きを取り戻してきた。

 鳴沢はしまった、という顔をしたが、「あんたには関係ない」と無表情になった。

「とにかく俺はあんたを家まで送る。あんたは家に電話しとけ。三十分くらいで帰るって」

 菜々未は納得できずに下を向いた。鳴沢は「がんこも姉譲りか」と言ってにやりとした。菜々未がムッとして顔を上げると、鳴沢は「今日は大人しく送られておけ。俺も早く戻らなきゃならないし」と運転席に座り直しながら言った。

 走り出した車の中で鳴沢の背中を見ながら、菜々未はとりあえず鳴沢を信じることにした。鳴沢の斜め後ろの席に着いてシートベルトを閉めた。何かあったら後ろから引っ掻いてやろうと思っていた。そしてバッグからスマホを取り出して家に電話をかけた。母が出た。姉には合コンのことを話したが、両親には舞依とその女友達に会いに行くと言っていた。思ったより早く終わったので今から帰る、三十分ほどで家に着く、と母には告げた。母は車の音に気が付いて、タクシーに乗ったのかと聞いたが、菜々未は方向が同じなので舞依の友達に送ってもらっていると言った。母はお礼をよく言うように、と言って電話を切った。菜々未はスマホをバッグにしまい、窓の外を見ながらシートにもたれかかってため息をついた。

 中井原の丘陵地帯を抜け、車は国道に入り南に向かった。見慣れた道順だ。鳴沢は確かに川野に向かって車を走らせているようだった。ふと、車が横に揺れるたびに何かがかさこそと動くことに気が付いた。菜々未は自分の周りを見たが、何も見つからなかった。なんだか気になって、背伸びをして音のする助手席の方を覗いた。鳴沢はそれに気が付いて、「ああ、これだろ」と言って小さな箱を取り上げた。絆創膏の箱だった。

「そういやもらったか? これ。舞依に?」

 箱を振りながら鳴沢は聞いた。

「……いいえ」

 菜々未は首を振った。鳴沢と舞依が合コンのことで言い合いをした直後で、舞依は取り繕うのに一生懸命だったし、自分も気が引けて何かを頼む気にならなかった。コウタの家から出てくるときには必死だったので、靴擦れのことは忘れていたが、今はベルトが当たってひりひりする。

「ほれ」

 鳴沢が投げてよこした絆創膏の箱を菜々未は両手で受け止めた。コンビニのテープが貼ってあり、買ったばかりで封も開いていなかった。箱の外側のセロファンを外し、シート状に連なっている絆創膏を一枚取り出して、そのうちの一つを切り離した。外装を外して中の絆創膏を膝に置く。サンダルのベルトに手を伸ばしたところで、ボタンが異常に固かったことを思い出した。まさか運転中の鳴沢にボタンを外してくれるように頼むわけにもいかない。まずは右足のベルトの一方を左手で、もう一方を右手で掴み、「せーの」と頭の中で掛け声を掛けて、力を入れてボタンを引っ張った。呆気なくボタンは外れた。あまりに軽く外れたので不思議になって、左側のベルトのボタンも外してみた。片手でも外せるほどにボタンは軽く開いた。ボタンの周りのベルトを触ってみると何かを吹き付けたかのようにサラサラとしていた。自分の指先についたサラサラとした感触を確かめながら、菜々未は自分の横に置いた絆創膏の箱に目をやった。買ったばかりの絆創膏。

 菜々未は鳴沢の後ろ頭を見上げた。鳴沢は黙って前を向いて運転を続けていた。鳴沢の肩は車の振動で小刻みに揺れ、そこに規則的な周期で通り過ぎる街灯の明かりが落ちていた。

 菜々未は急に泣きたいような無防備な気持ちになった。絆創膏を貼りながら、涙の代わりに何か言わなくては、と思った。そして自分でも予測しない言葉が口をついて出た。

「舞依ちゃんは、いつもあんなことをしてるんでしょうか」

 鳴沢はすぐには答えなかった。少し考えてから「らしいな。俺も実際に見たのは今日が初めてだ」と言った。

 菜々未は黙り込んだ。しばらくして鳴沢が「舞依とは仲がいいのか」と尋ねた。菜々未は運転席の背もたれの横から少し覗き込むようにしながら「舞依ちゃんとは幼馴染みなんです。小さい頃は一緒によく遊んだんですけど」と言った。そして「……でもなんか舞依ちゃん、変わっちゃったな……」とうつむいた。

 車の走行する音だけが車内に響いた。

「舞依もほかに居場所がないからな」

 ふいに鳴沢が言った。

「まあ、でも、今は距離を置いとけ」

 菜々未は頷いて「……はい」と答えた。

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