第49話 こんなにも胸が

「お父さんはね、私が高校三年生の時に亡くなったの」



「そうなんですか……」


「お父さんは優しい人で、私に怒ったことなんて一度もなかった。私が思春期や反抗期だった時も、一丁前に生意気な口をきいた時だって、あの人は否定もせず、ただ優しく見守ってくれた。私はそんなお父さんが好きだったの」


 徳梅さんの思春期や反抗期――どんな感じだったんだろう。


「お母さんはね、私が高校に進学する前に離婚して、別の男性のもとへ行ってしまった。小学校の頃からうまくいってなくてね。いざ、別れる時には選ぶ余地なんてなかったけど、選択肢があったとしても迷わずお父さんって伝えたかな。でも、お父さんはどう思ったんだろう。私と一緒に暮らすことが嬉しかったのかな」


「嬉しいに決まってるじゃないですか」


 思わず口を挟んでしまった。


「いや、すいません、なんか話の腰を折っちゃって」


「ううん、いいのよ」徳梅さんは微かに首を振る。「それからかな。お父さんが少し変になっていったのは……」


 彼女は当時を思い返すように目を閉じて上を向く。



「お父さんはね、食品メーカーの営業をやってたの。もう棚森くんも気付いてるかな。バザールで売ったよね」



「グローリー食品……」



「そう……。そこで働く営業マン。毎日遅くまで会社に残ってね。たまの休日でも、家に閉じこもってひたすらパソコンと睨めっこして、梅ラーメンの企画書を作っていたわ」



 グローリー食品は大手に比べると売上高も小さく、社員数もそれなりで残業が当たり前の会社だったそうだ。徳梅さんの父親は営業担当として、一人で関東、東北、北海道まで担当しているハードワーカーであった。元々人がよく断ることが出来なかった性格もあり、担当エリアはどんどん広がっていったそうだ。



 お人よしだったんだよね。彼女は懐かしむようにそう言った。



「私が家事は全部出来るから問題なかったけど、日に日に疲れた目をしていくお父さんが心配だった。でもね、お父さんは私にそんな素振りを一切見せなかった。多分、お父さんは離婚して私を引き取ってから、弱音を吐くことができなかったんだよね。私が心配して、『何が大変なの?』『私に出来ることある?』って訊いても、『別に、聖流せいるが知らなくてもいいことだよ』とか、『そのうちわかるよ』って曖昧な返答だけ。私はムキになってね。『教えてよ。興味があるの』って伝えたの」


 ここで思い出したように、徳梅さんは「ふふふっ」と笑う。



「なんか俺みたいですね」



 苦笑いをして、頭をぽりぽりと掻く。

 本当だねと徳梅さんは伏し目がちに微笑む。


「お父さんはね、私が何度も『教えて、興味がある』ってしつこく訊くもんだから、とうとう観念してこう言ったの。『お父さんはね、梅ラーメンをエンドに並べようとしてるんだよ』って」


「エンド……」


「そう。売れない商品を抱える弱小メーカーの営業ってね、あのエンドのスペースを取るために必死なの。毎日、上司や得意先から怒られて、数字を詰められて、走り回って、また怒られて。でも、そんなこと高校生の私にはわからなかった。だからね、『エンドって何?』って訊いたの。そしたら、『エンドはエンドかな』だって。答えになってないよね。これ以上、教えてくれないのよ。ただ、スーパーの売り出しって言えばいいのに。

 その頃はファミレスでバイトしていたから、この業界のことよく分からなかったしね。こっちも悔しくなって問い詰めちゃったの。私に期待してることはないのって。お父さんは何も言わずにただ笑ってた。『別にないよ』。そう言われただけ。それが、お父さんとの最後の会話よ」



 もしかして。俺は嫌な予感がした。そして、それは的中することになる。



「深夜、一本の電話がかかってきたの。それは、お父さんの営業車が高速道路で事故を起こしたって内容だった。居眠り運転だったんだって。無理もないよね。毎日深夜まで働いて、休みなんてなかったし。お父さんとの再会も出来ずに、私に残されたのは、あの時の後悔と、お父さんがたまにストレス発散にしていた戦争ゲームぐらいだったかな」


 ふと思い出した、あの時のバックヤードでのやりとり。


「もしかして、あのゲームって……」

「うん? 私なんか言ったっけ?」

「戦争ゲームです。ゴールオブダーティーやってるって」

「ああ、あれね。別に深い意味はないんだけど、なんかはまってね。あの頃はイライラしてたっていうか、今でもたまにストレス発散にやってるのよ。スカッとするしね。別に感傷に浸ってやってるわけじゃないよ。もう今じゃ誰にもKILLされない腕前よ。もしかして棚森くんをKILLしたことあるかもね」


 徳梅さんは、無理して明るく振舞っているように思えた。話の腰を折ってしまってなんだが、俺は彼女みたいに明るい笑顔は見せられなかった。



「ごめんね」



「何がですか?」


「なんか棚森くんと似てるかもしれない……。詳しいことは聞いてないけど、きっと棚森くんもご家族のことで、何かあったんだよね。私の話なんかで、棚森くんが嫌なこと思い出したら……。自分から聞いてほしいって言っておきながら自分勝手だと思うけど……」


「いえ、気にしないでください」静かに首を振る。「俺は、もう散々思い出してますから。ほんとに笑っちゃうぐらい」


「そうなんだ……。棚森くんは強いんだね」


「強くなんてないです。ただの冴えない、弱いやつです」


「そんなことないよ。実はね、私も同じ。私も嫌ってぐらいにお父さんの夢をみたの。そしてね、目覚めたときは決まって独り言を言うの――」


 

 もう飽きたって。



 徳梅さんはどこか自嘲気味に微笑む。

 徳梅さんには徳梅さんの胸に秘めた想いがある。だから俺は何も言えないし、言いたくもない。絶対に侵してはいけない領域。それはわかっている。わかっているんだけど、思わずこう言ってしまった。



「同じですね」



 その時、俺はどんな顔をしていたのだろう。



 一筋の涙が頬を伝うのがわかった。気が付くと俺は泣いていた。



 彼女が発する一つ一つの言葉が、心の灯りが、自分を温かく包みこんでいく。胸の奥で一人抱えてきた、誰にもぶつけることが出来ない憤りと、もどかしさ、それを乗り越えてきた心の強さに触れることで、自らの過去が優しく肯定された気がした。


 

 その刹那、感情と重ねるように白い手が頬に伸びてきた。突然のことに戸惑いながら固まっていると、彼女は涙で濡れた頬を優しく指で拭ってくれた。俺はあまりの恥ずかしさに、ぴたりと涙が止まってしまった。



「す、すいません。何て言ったらいいかわかりませんが、そんなんじゃないんです」



 温かくやわらかい指の感触がいつまでも頬にのこる。



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