第45話 時間
バザールの当日。自室で目が覚めると、白いカーテン越しに朝の光が差し込んだ。むくりと起き上がりカーテンを開けると、窓の外は雲一つない青空が広がっていた。
昨夜の徳梅さんの感触がまだ胸の中に残っている。あの時、どれくらいの時間が過ぎたんだろう。徳梅さんはメインエンドを前に、ずっと俺の胸にもたれかかっていた。
そして、さっと潮が引くように俺の胸に預けた体を離して。
「今日はもう終わり。真面目に仕事がんばったら良いことあったでしょ」
少し頬を赤らめながら、こちらが悪いとばかりにどんと肩を叩いた。
そこには、あのとき垣間見せた迷いも憂いもない、一人の俺が恋した気高く優しい『今日のセイルさん』の姿があった。
いよいよだ。
俺は枕元に置かれたスマホを確認する。既にウリちゃんから大量のメッセージが入っていた。
『棚森先輩! ちょー凄いですよ! 今日、ヤバそうっ!』
このメッセージを受けて俺は確信した。きっと成功するはずだ。
俺と徳梅さん。
ウリちゃん、角場店長、智良志、MD長、お店のみんな……。
そこに関わる全ての人の想いを込めたエンドが始まる。
俺は玄関を出る前に、兄貴の仏壇に手を合わした。
口には出さずに一言だけこう告げた。
じゃあ、やってくるよ。見ててくれよ。
玄関で靴を履いている時に、後ろから母さんに声を掛けられた。
「なんか、楽しそうね。どうしたのよ、なんかウキウキして」
「そうだね……」
母さん……。もう、俺は言うよ。今まで胸に秘めた想いを口にするよ。
俺は立ち上がり振り返ることなくこう言った。
「俺さ、今、毎日が楽しいんだ」
一瞬、空気が止まる。
「どうしたの、今日、なんかあるの?」
「今日さ、エンドやるんだよ」
「エンド? ああ、前にあんたが言ってたスーパーの売り出しのこと?」
「そう。そのエンドでさ……」
この後のセリフに少し言葉が詰まる。靴の踵をトントンと合わせてドアノブに手を掛ける。手のひらの熱が冷たいドアノブをゆっくりと温めて。
「兄貴から教わったイラストを大きなPOPにしてエンドに飾ったんだ」
背中越しに母さんの顔が固まっているのがわかった。その震えた空気の振動が痛いぐらいに伝わってくる。迸る感情を背に、振り返るのを躊躇ってしまった。正直、母さんの目を見るのが怖い。今までその話題は避けていた。
今でこそ見かけ上の平穏は保っているが、一時は家族崩壊の一歩手前まで陥った。あなたが就職しろって言ったから。父と母は存在しない責任を擦り付けるように何度も罵り合い、無限に続く深い悲しみに暮れた。俺が出来ることはただ黙って時が過ぎ去るのを待つこと、特別な用事がない限り門限を破らないこと、バイトが終わったら余計な心配をさせないように帰宅時間を伝えることであった。
あれから母さんは繰り返し、ある言葉を口にした。
――ほどほどにね。
何にでものめり込んで前が見えなくなることは決してしないように。
そんな呪縛に搦めとられていた。
でも、もう動き出さなきゃならない。
止まった時間の針を前に進めなきゃならない。
「今日は、そのエンドを大勢のお客さんに見てもらう日なんだ」
「そう……。でも……」
「だから、今日は凄い楽しみなんだよ。もう、興奮して夜も眠れなかったよ」
俺はその続きを上塗りするように被せた。そして、勢いよく振り返る。
「今日は、めちゃくちゃ派手な日になるよ!」
俺の目に飛び込んだ母さんの顔。それは、自分の恐れとは程遠い、いつもの朗らかな目じりに皺のある優しい微笑みだった。
「そのエンド、母さんも楽しみだわ」
「だろ?」
「それ、写メしてよ。いや……、やっぱり私もあとで見にいこうかしらね」
「ああ、来てよ。どこからでも目立つ、めちゃくちゃ派手なエンドだから」
ドアを開けると、眩い光とともに清涼なる風が流れ込んできた。
それは、まるで魔法みたいに。
今まで俺たちを覆っていた暗い霧を吹き飛ばしていく。視界は良好で、見慣れた街の景色が輝いて見えた。
でも、魔法の続きはまだあるよな。
あのエンドに。
俺のために唱えてくれよ。
ラメンちゃん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます