第38話 ある告白と、ある独白
「棚森くんが描いたイラスト?」
「大して上手くはありませんが……。徳梅さんの感想を聞かせてください」
「ふーん」彼女は探るように目じりを下げると、背筋を正して座り直す。「じゃあ、見せてもらおうかな」
彼女が俺のノート③を開く。
白く細い指先が、ページをめくるたびに緊張が走った。胸が熱い。
あの夜、俺は鉛筆を手に、想像力と向き合った。実に三年ぶりだ。いざ、久しぶりにイラストを描こうと思っても、思うように描くことは出来なかった。無理もない。元々、俺には才能なんかありはしない。切っ掛けなんて、お前も暇なら絵でも描けって言われたことだったもんな。本格的に勉強したいとか、新人賞を獲りたいとか、そんな類の野心も夢もなかった。俺の技術なんて、兄貴が練習用に描いていたノートを盗み、それを参考にして、ネットで技法を調べただけの我流。だから、兄貴みたいに専用のペンタブすら持ってないし、使えはしなかった。
ただ漫然と、でもなぜか止められず、月日だけが流れた。
芯が丸くなる度に細く尖らせて、描き方を思い出すように、あの人を思い出すように。ああでもない、こうでもないと毎夜、机に向かった。描いたのは全てカップ麺を美味しそうに食べている女性。梅ラーメンから始まり、西洋食品のカップラーメンなど。思いつく限りのカップ麺を、様々な表情で食べている。そんなイラストがページいっぱいにノート③に描かれている。
「棚森くん」彼女はページをめくりながら、ゆっくりと口を開く。「上手いよ、これ」
「本当ですか?」
「ほんとほんと。なに、どうしたの急に。昔からイラストなんか描いてたの?」
「まあ、別に本格的にやっていたわけではないんですが」
「へえー。そういえば、エンドを見て回ってた時も、メモ帳に構成図を描き写してたもんね」
「そうですね……。イメージを表現するのに手っ取り早いし、無意識にですかね。てゆうか、よく見てますね」
「だめ?」彼女は少し甘える口調で言ってきた。
「いやいや、だめじゃないですよ。ちょっと恥ずかしいですけど」
「今もやってるの?」
俺は自嘲気味に笑って、首を振る。
「なんで? もったいないよ、これ。どうして今はやってないの?」
その投げ掛けは予想していたもので。今日、彼女を誘った時に、もう自分の気持ちを正直に話すことに決めていた。だが、あまりの緊張に声が出なくなり、テーブルの下でぐっと握りこぶしを作った。今まで溜め込んだ感情が巨大すぎて、喉が圧し潰されそうだ。そんな俺の異変を察知したのか、徳梅さんは「大丈夫?」と心配そうにこちらを覗き込む。
今から触れなければならない。俺の心の深いところを――。
「俺がこういったイラストを描いたのは、兄貴の影響なんです。元々絵は好きでした。授業なんかロクに聞いちゃいなかったので、いつも授業中に、適当な漫画のキャラクター、先生やクラスメイトを茶化したようなイラストばかりノートの端に描いてました。まあ、典型的なダメな学生です。今もですけどね」
徳梅さんに話し掛けてるようで、自分自身に語りかけてるようで。彼女はじっと見守っている。
「俺より六つ上の兄貴は絵が好きでした。素人の俺から見ても、よくこんな緻密な絵が描けるなと感心するぐらい。大して興味は無かったんですが、兄貴が夢中になってノートに描いている絵を見ているうちに、自分も夢中になっていました。無意識の内にその様子を覗き込んでいたら、『お前も暇だったら、描いてみたら』って笑われたんです。
確かに俺は暇でした。部活もやってなく、コレと言える趣味もなかったし、ゲームやマンガばかり読んでいる陰キャでしたから。でも、実の兄貴から面と向かって『お前、暇だろ』ってモロに言われると、変にムキになってしまい『じゃあ、俺も』って感じで、兄貴には内緒で描き始めました。
まあ、結局兄貴より上手くならなかったんですけどね。当然っちゃ当然です。だって、特別、そこにこだわりは無かったんで、今はもう止めました……」
言葉に詰まり、話が終わってしまった。
彼女は何かに引っかかりを感じて、訊ねてきた。
「何で止めちゃったの?」
「それは……、俺が高校三年生の時に兄貴が亡くなったからです。張り合いもなくなってしまったし……」
「そう……。なんか、ごめんね」
寂しそうに俯く彼女を見て、このことに触れたのを後悔した。
「いやいや、俺の方こそすみません、仕事帰りに何か、暗い話なんかしちゃって。もう、この話は終わります。本題はですね、このPOPを更に発展させて……」
彼女は遮るように黙って首を振る。
「なんか、あるんじゃないの?」
「いえ……、ないですよ」
「棚森くんの本題って言うのはよくわからないけど、私に何か伝えたいことがあるんじゃないの? もしかして、それが本題ってやつじゃないの?」
否定も肯定も出来ず、ただ下を向いてしまった
「私でよかったら訊くよ」
そう優しく包み込まれたような気がした。正直、自分勝手かもしれないが、もうこの流れで誰かに自分の想いを話したくなっていた。それが徳梅さんなら……。いや、むしろ彼女に俺の心の深いところを知って欲しい。勝手かもしれないがそう思ってしまった。
でも、そんなのって――。
言葉なんかに――。
俺なんかが許されるはずないだろ――。
「俺は一位を目指してるんだ」
兄貴の目はおかしいぐらい光り輝いていた。
時刻は深夜二時。もう両親も寝ている時間だ。言葉こそ情熱に溢れてカッコ良いが、薄暗い部屋で朝になるまでパソコンと睨めっこをして、企画書を作っている姿はどこか異様に感じられた。
兄貴が就職した不動産会社は飛び込み営業がメインのマンション販売会社だ。専門業者から仕入れた個人電話番号を元に、テレアポが上から順に絨毯爆撃のようにコールを入れて、首尾よくアポを取ったら営業マンがお客の元へ走る。ノルマは相当に厳しく、土日も関係ない所謂ブラック企業であった。
脛を齧っているだけの俺には営業なんて何をやっているか分からなかった。連日連夜遅くまで働く兄貴を眺めて、最初は社会人ってこんな激務なのかよと驚いていた。だが、そんな呑気な考えが消え失せてしまうほど、兄貴は次第に人が変わっていった。まず、肌に現れた。ニキビもなかった顔に湿疹が出始めた。そして、言動も前のめりになり、半歩先も見れないぐらいになっていた。
「今も絵は描いているの?」
「今は、そんなことよりマンション売るのが大事だよ」
「仕事のこと?」
「ああ、同僚なんか凄いんだぜ。新人なのに早くも全支店で売り上げ一位とったんだ。俺は全然だけど、なかなか難しいんだよ。やっぱり同期には負けたくないよな」
兄貴は異常なぐらいに仕事にのめり込んでいた。口癖は――俺も一位を目指す。
俺は心の中で、ふーんと答えた。そんなことどうでもいいやって感じだった。それよりも、あんなに好きだった絵を描く事より、目を輝かせてマンションを売る話をしている兄貴が、なんだか遠い存在になった気がした。
それから兄貴はどんどん帰りが遅くなって、ほとんど家に帰ってこなくなった。ずっと、仕事に駆けずり回っていた。酷い時は深夜一時から会議が行われ、ひたすらに売上を詰められていた。
顔を見せる度にマンションの事しか話さなくなり、そのうち何も喋らなくなった。
なんだよ、一位って。
ある夜、俺は訊いた。
「そんなにマンション売るのが面白いの? そんな一位なんて価値あるのかよ」
その時は、この言葉の意味もわかっていなかった。他人のことを冷めた目で見下す、ただの最低な子供だった。その問いに兄貴は答えなかった。一言だけ、
「まあ、いずれお前にもわかるよ」とだけ言い残して姿を消した。
観測史上最も気温が高くなったGWの最中、兄貴はマンションの十階から飛び降りた。その事実を知ったのは、クーラーの効いた部屋で、呑気にアイスを食べている時だった。
それが兄貴との最後の会話だ。
兄貴は器用な人間ではなかった。何にでも前のめりになりすぎて、後先は考えない性格だった。大学を辞めたのだってそうだ。ブラック会社は、その人が持つ可能性を、数字の追求とともに遮断する。
ここ以外の道は無い。
ここで成功しなければ、何をやっても成功しない。
ただ、兄貴は追い詰められたにすぎない。
親に就職すると約束したことも含めて、自分を追い込んでしまった。
絵なんかに熱中して、大学なんて辞めなければ、もっと良い会社に。
いや、ブラック企業なんかにまともに付き合わなければ。
なぜ、俺はあの時、あんなことを言ってしまったんだろう。
なぜ、兄貴の気持ちを理解しようともせず、突き放したような言葉を吐いたんだろう。
なぜ、ただの傍観者でいたんだろう。
なぜ、そんな会社辞めろと力づくでも説得しようとしなかったんだろう。
なぜ、何でも否定からしか入れなかったんだろう。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、俺は。
くっ――
そおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
言葉の力は制御できない。時に誰かを守り、時に大切な人をも攻撃する。冷めた態度は、知らず知らずのうちに深く相手を傷つける。そして、時としてそれは取り返しのつかない事態を招く。そんな当たり前の事実に気付かない、ただの愚かなやつだった。
俺は、もう二度と……っ!
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