第30話 別に

 ぐぐぐ――。


 俺のすぐ隣からイビキ声が聞こえる。


 声の主は智良志ちらしだ。机にうつ伏せになり心地よい眠りについている。一限の流通論の講義が始まる前に、「俺、ほぼ寝てないから、あとはよろしく」とだけ言われた。

 任されても困るが、彼のイビキがあまりにも大きくなると周りに迷惑なのでたまに肘で小突く。

 今までは単位だけが目的だったが、講義も真面目に受講すれば、奥が深いことがわかった。改めて、勉強にしても何にしても積極的に取り組む姿勢が、一番大事なんだと気付かされた。こんな当たり前の事実を今まで疎かにしていたのか、俺は。失った学生生活を取り戻すのは、今からでも遅くはないのかな。そう思えたのもきっと彼女と出会ったからだ。


 やがて流通論の講義が終わり、ばたばたと学生たちが席を立つ。俺も智良志の肩をゆすり起こしてから、午後のバイトに向かうことにした。



「なんか、お前変わったよな」



 去り際に彼のつぶやきが耳に届く。

 そうなのかも知れない。

 今までの自分は、何につけても冷めていた。適当に時間だけを浪費する、そんなつまらない奴だった。それが彼女と出会ってから、少しずつ自分の中で何かが変わっていくのを感じている。うまく言葉でいい表すことが難しいのだが、流されるまま、前向きになれなかった自分も、そうじゃないと気付かせてくれた。自分の中に燻っていた熱い何かが、自分を突き動かしていく。そんな気さえしてくるから不思議だ。


 最近、モリモリフーズのシフトが楽しみで仕方ない。意気揚々とタイムカードを通し、慣れた手つきで制服に着替えたあとバックヤードに向かった。そこには、いつもと変わらぬ透明感で、カゴ車に積み上げられた段ボールをチェックしている徳梅さんがいた。


 遠巻きに眺めても、近くで見つめても、凛とした佇まいに毎度のことながらどきどきしてしまう。悔しいのが、一向に慣れない。働く女性は三割増しで素敵とよく言うが、彼女は五割増しで美しい。徳梅さんの首筋に流れる一筋の汗が輝く。ぽけっと突っ立つ俺に徳梅さんは気付くと、弾んだ声で手招きする。


「ちょうどよかった。今日、納品多いから手伝って」


 もちろんですと快く腕を捲り、一台ずつ重たいカゴ車を整理していく。大量に積まれたカゴ車は重く、徳梅さん一人で片付けるには重労働だ。


「あの……、ありがとうございます」

「ん?」彼女は額に流れる汗を手の甲で拭う。「昨日のこと?」

「それもそうなんですが、その……、色々です」

「色々?」彼女は手を動かしながら、じっと俺を見つめてくる。

「昨夜、講義のレポートを作っていたんですが、徳梅さんのおかげでさくさく仕上がりました」

「私、何かやったっけ?」

 徳梅さんは頭上に『?』マークを浮かべて視線を斜め上に向ける。

「徳梅さんから色々教わってくうちに、仕事に興味を覚えて、講義も積極的に聞くようになり、内容も理解出来るようになったんです。今までPOS大のくせして流通について何にも勉強してなかったんで、勿体なかったなって」

「そう、よかったじゃない。学生なんだから今から勉強すればいいだけよ」


 彼女は、よいしょと重たいジュースの段ボールを持ち上げる。重量があり、少しよろけたので、咄嗟に手を貸すと一瞬だけ体が密着した。たったそれだけで緊張の余り発火しそうになる。多分、ずっとこんな調子が続くんだろう。


「ごめんごめん、ありがとね」


 彼女は何事もないように体を離すとそのまま段ボールを降ろしていく。彼女からいつものように、柑橘系のリンスと甘い汗の混じった柔らかい匂いが漂う。正直、ずっとこの匂いに包まれていたい気分だ。もし、彼女がこの店を辞めたら、後を追う人が続出しそうだ。きっと、俺も。


 徳梅さんは俺のことをどう思ってるんだろう。多分、ただのバイトってだけで、それ以上や以下でもないよな。徳梅さんクラスになれば、色んな男から言い寄られているだろうし、別に俺じゃなくても――。そう思うと、手の届かない月みたいな場所に必死になっている様が滑稽で、少し寂しくなる。


「棚森くん、これもお願い」徳梅さんは手を止めることなく、別のカゴ車を指差す。

「こんなに次から次へと段ボールが押し寄せたら、きりがないですね」

「ふう。ウリちゃんも休みだし、荷物整理は私たちだけだと足りないわね。でも、棚森くんは力仕事、得意だよね?」

 徳梅さんは揶揄うように髪を揺らして、次々と重たい荷物を手渡していく。


 どの業種も同じだと思うが、仕事というものには終わりがない。キリっていうのはあるにせよ、基本的にはずっと継続だ。この段ボールのように際限なく押し寄せてくる。そういえば、俺が知る限り徳梅さんは働き詰めだ。たまたま同じシフトなのかもしれないが、彼女は目一杯シフトを入れている。


「そういえば、徳梅さんはあまり休んでないですよね。パートでも有給ありますよね。取らないんですか?」

「そうね……あるけど、あんまり休んでないかな。私が休むと、回らなくなっちゃうしね」

 責任感の強い彼女らしい発言だった。

「徳梅さんって休みの日は、何してるんですか?」

 彼女はふうと一呼吸置いて、休憩とばかりに作業を止める。「何で、そんなこと訊くの?」

「だって……」



「私に興味あるから?」



 彼女は笑いを堪える。


「そ、そうですよ」

「面と言われると、結構恥ずかしいでしょ」意地悪そうに目を笑わせる。

 冷静に他人からご指摘されると、思った以上に恥ずかしいものだと理解できました。照れ隠しに、はははと頭を掻くのみだ。



「でも、ストレートなものの言い方って、悪い気はしないわね」



「えっ?」なに、その追加。


 こちらの感情を置き去りにするように彼女は手をパンと叩く。「はいはい、休憩は終わり。さっさとコレ片付けちゃおうか。雑談ばかりしてたら、いつまで経っても終わらないしね」

 好きなだけ俺を困惑させたあと、何事もなかったように作業に戻る。視線だけじゃなくて、こういうのも反則なんですよね。小悪魔要素も追加されると無敵じゃないですか。じゃあ、この流れで一つだけ訊きたいことがあるので、こちらも確認しますよ。


「そういえば、昨日のラインで、俺はまだ回答もらってないです」

「回答? なにそれ」

「いや、その、また一緒に行きましょうって」

「ああ」彼女は肩の埃を払うように、「答えてなかったっけ?」

「はい」少しだけ声のトーンが上がっている。

「どうしようかな」

 徳梅さんは笑いを堪えている。

「どっちですか?」


「棚森くん、必死だね」さらに笑いを堪えて頬をふくらませる。


「おかしいですか?」負けじとこちらも前のめりに。


 ここで、堪え切れず彼女は噴き出した。「あはは」と口元を手で抑えて笑う。

 しまった。こんなバックヤードで。仕事中に。いきなりナンパみたいな展開を。もしかしてこれは――KY。


「やっぱり、棚森くんって面白いね。ここ、バックヤードだよ」


 傍から見たら、完全に美人にいじられてる冴えない青年という構図。俺たち以外にもバイトやパートさんが行き交う中、デートの有無を催促する俺も大概なんだけど、それにしても彼女はちょっと意地が悪いんじゃないの? 

 思わず俺は突っ込んでしまった。


「徳梅さん、何でそんなに思わせぶりなんですか?」


「思わせぶり? 私が?」

「そうですよ。俺もKYなんですが、いつも徳梅さんって、自分の話題になるとはぐらかすじゃないですか。何でそんなに自分自身のことは内緒なんですか?」


 徳梅さんの顔が一瞬だけ曇る。


「何ていうか、もっと色々話してくれたらいいのに。俺だけじゃなくて、皆も徳梅さんの色んな顔を知りたいと思っているはずですよ」


「……別に、内緒にしてるわけじゃないわよ」


「じゃ、じゃあ」ここまで言いかけて、はたと最悪なケースが猛スピードで駆け巡る。



 ま、まさか、徳梅さんは俺のことが――嫌い? やばい!!



「そ、その、徳梅さんが俺と話したくないっていうなら別ですが……。そんなに自分も嫌われるようなことしていないと思ってるんで」

 不安を塗り潰すように、口を尖らせて食い気味になってしまう。

 カッコ悪すぎだろ、おれ。

 だが、彼女は彼女でいつもと様子が違って見えた。自信に満ち溢れた姿は鳴りを潜めて、所在なさげに少しだけ目線を落とす。


「別に、棚森くんのことがどうって言うんじゃないけど。ただ……」


 徳梅さんは、何かを言い澱む。

 ただ……。何だろう。彼女は何を。

 しかし、そこへ。



「おーい。あっ、いたいた」



 事務室から半身だけ現した角場店長の声が勢いよく飛んでくる。


「徳梅さん、ちょっといいかな。困ったことになっちゃったよ」


 店長は焦った様子で、彼女を事務室に手招きする。その一言によって、一方通行な恋模様に終止符が打たれた。

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