これが僕らの幸せ

伊豆クラゲ

これが僕らの幸せ

 傍から見ればきっと、いや、絶対にもっといい結末はあった。しかし彼らにはその結末を迎えることはできなかった。彼らはお互いがお互いを不幸にする勇気がなかったのだ。

 一緒にいられれば、それだけでよかったはずなのに、彼らは相手が不幸だと知っていたからこそ、これ以上自分のせいで不幸な目に合わせたくなかったのだ。信じ切る勇気が足りなかった。誰よりもお互いの幸せを願っていたからこその結末だった。


 でも、彼らにとってはこれが、最善の選択であり、最高のハッピーエンドだった。自分達の人生を呪いたいはずが、こんな人生だからこそ出会うことが出来た。だからこそ、最悪な人生だったとは、言い切れないところも不幸なところだ。


 この出会いはお互いの幸せの容量が空っぽだったから成り得たことだ。

 どちらかが満たされていたら、出会いすらしていなかった。


 だからこそ、断言しなければいけない、彼らは間違いなく「幸せだった」と。

  

 ずっと我慢して過ごしてきた。思い通りにならないとすぐにヒステリックになる母。それを見ると話も聞かずに大声で怒鳴る父。

 僕の意思は関係なく、親がなってほしい人間になるのが最優先事項だった。だから物心ついた時からずっと我慢してきた。僕が我慢すれば少なくとも、親は幸せになれると信じていたから。

 親が強制したことでも、それを飲み込んだらいつの間にか、それは僕が自分の意思で行ったことに変わっていく。親が決めたことなのに失敗したら、それは僕がまだ未熟で判断能力が無いから。努力が足りないからだといわれる。絶対にNOといえない選択を迫られてYESと言わされる。


 そんな人生だった。

 それでも我慢して、言われたとおりにしていれば、怒られる回数は減るし、笑ってくれていることの方が多かった。母は弱い人で理想の高い人だったが、それ以上に平凡な人だった。

 だから僕を思い通りに操り、特別な人間になれなかった自分の代わりに、特別な人間の母になることを望んでいた。理想に応えれば自慢の息子。理想に応えられなかったら親不孝者。母にとって僕はこの2択しかなかった。

 父は母への愛情が無いことは、子どもながら感じていた。しかしそれを悟られないように、母が泣いているときには、僕を叱ることで隠していたのだと思う。

 母と違い父はあきらめがつく人だったからこそ、平凡でいられない母とは馬が合わなかったのだろう。だからそのやり場の無いストレスを、僕にぶつけていたのだと思う。それでも一緒にいなければいけないのが、家族という物だった。少なくとも僕はそう思っていた。

 本当に歪んだ家族だった。だけどこのままの生活を続けていれば、僕たちは破綻せずにいることが出来ると信じていた。僕さえ我慢し続ければ、僕さえ本音を言わなかったら。

 そんな家族に意味があるのか、なんてことは考えないようにしていた。だって家族ってそういうものだと思い込んでいたから。

 親は大事にしなくてはいけない。

「生んでもらった感謝をしなければいけない」

「親の望む自分であり続けなければいけない」


 本当にそう思っていた。いや、そう思い込むことが一番楽だと気づいた時から、そうすり替わったのかもしれない。だから、これまでの17年間我慢し続けられていた。これから先何年続くか分からない人生も、ずっと我慢し続けると思っていた。普通だったら耐えられないことかもしれない。しかし不幸にも僕には、それを受け入れられるだけの心の弱さが備わっていた。母親から引き継いだものだろう。ありがたいことだ。

「我慢は美徳」

「自己犠牲は最大の自己救済」


 このクソみたいな人生を送り、おそらくこれから先も送る自分に送った言葉である。これを胸にいつも我慢するのだ。諦めが最大の救済だと気づいたときには、だいぶ心が楽になった。母も父もこういう人だから変わることは無い。だったら自分が変わるしかない。


 ずっと自分は不幸だと思っていた僕だが、もっと不幸な少女の存在に、心当たりがあった。それが、彼女だった。彼女は同じ団地に住んでいたため、顔はもともと知っていたし、なんとなく彼女の事情は知っていた。だから、親からも彼女とは関わってはダメだとよく言われていた。元々興味もなかったし、気にも留めていなかったが、おそらく僕より不幸である彼女のことを知ることで、僕の気は少し紛れるのではないかと思った。我ながら最低なきっかけだったが、それは僕に人生を変えるほどの時間を与えてくれた。


 彼女も僕のことは認識していたようだ。周りの人に絶望しきっていたから、他に話しかけてくる友達もいないようだった。だからこそ、僕と関わることは彼女にとっても、新鮮なことだったようだ。仲良くなった僕らは少しづつお互いの心情をさらけ出すようなった。僕が自分の境遇のことを、話したのも初めてだったが、それは彼女も一緒だったようだ。彼女の話を聞けばそれも納得がいく。とてもではないが、こんな話をむやみやたらに他人には話せやしない。そのくらい酷い内容だった。彼女の周りには、弱音を吐ける場所すらなかった。だからこそ、僕の存在をとても大事にしてくれていたのだと思う。そんな感謝の気持ちと同乗の気持ちが、歪んでいき恋愛感情に変わっていくには、そんなに時間がかからなかった。それもそのはずで、環境は違えど僕と彼女はとても狭い世界で生き、他人に絶望している中での、小さな逃げ道だったのだから。

 僕は自分の不幸なんて忘れ彼女のことで、頭がいっぱいになっていた。その想いは僕に初めて、自分の意思で行動する決意をさせた。しかしそれは同時に、自分の非力さを痛いほど知ることになった。

 彼女に母親はいなく、父と二人で暮らしている。仕事もろくにしない父はよく彼女に暴力をふるうらしい。無断で学校を休んだり、遅刻が多々ある彼女は先生にその理由を聞かれたときや、我慢の限界が来た時に学校に助けを求めたことはあるらしい。しかしまともに取り合ってくれなかったり、家に電話するくらいで、彼女の環境を変える程の、救いの手を差し伸べてはくれなかったそうだ。学校は何もしてくれないと分かった彼女は、児童相談所に一度行ったが、子どもの訴えだけでは話を聞くだけで、特に何もしてくれなかったそうだ。それで、彼女の心は完全に折れてしまった。もう誰かに頼るのは諦め、すべてを受け入れることにした。それもそのはずで、誰かに相談したのが父にばれると、激怒していつも以上に暴力を振るわれたらしい。

 この話を聞いた僕には彼女を無理やり父親から引き離すしか方法はないと思った。今考えればいかにも子供が思いつきそうな、とても浅はかなものだ。自分から何かをしたことが無かった僕は、自分のことを過信しすぎていた。そんな僕の計画が成功するはずがなかった。幸せになれるはずがなかったし、幸せにさせられるはずがなかった。

  

 彼は私に初めてできた、たった一人の理解者だった。そして彼も性質は違えど、ゴミみたいな親のせいで人生を狂わされていた。私にとって彼は、いてくれるだけで救いだった。そんな彼は、私に寄り添ってくれるだけでなく、救い出してくれるとまで言ってくれた。もう、胸がいっぱいだった。誰かに必要とされることが、こんなにも暖かいことだとは知らなかった。あの父親から逃げることは何回も考えたし、実行もした。だけど、上手くはいくはずがなく、諦めてただひたすら、自分の人生を呪うだけになっていた。子どもは親を選べないのに、親は子どもを恐怖で操ることが出来る。勝手に生んでおいて、なんて自分勝手なのだろう。

 でも、今の私には彼がついていてくれる。だからもう一回だけ頑張ろうと決めた。彼はいきなり私を連れ出す予定でいたらしいが、私は彼にもう一度だけ自分で頑張ってみると告げた。それは私の最後の抵抗であるが、何よりも彼を悪者にしたくなかった。親権を持っている人がどれほど強いか私はこれまでの人生で何度も見てきた。だからこそ、強引では無く最後にもう一度大人を頼ってみようと思ったのだ。

 それで思いついたのが警察だった。警察官なら暴力を振るわれているといえば、見て見ぬふりはできないだろうと、考えた。しかしそれをするということは、完全なる父との決別を意味するものだった。


 父親を犯罪者として警察に突き出すのだから。


 それを考えただけで恐怖で足がすくむ。もしこれが父親にばれたら、どれほど殴られるだろうか。でも今は彼がいてくれる。私が一人ぼっちになることはない。守ってくれる人がいる。誰かがそばにいてくれるだけで私は、ここまで強くなれることを知った。

  

 彼は交番の前まで着いてきてくれた。本当に優しい人だ。こんな私がこんなに優しくされていいのだろうか、ずっと父しかいない人生だったから、余計に戸惑う。この人も自分の機嫌が悪くなったら、私を殴るようになるんじゃないだろうか。初めはそんな風に思っていたが、今は心の底から信頼している。彼が背中を押してくれたから、私は今ここにいる。彼は話している最中も隣にいてくれると言ったが、それは断った。ここからは先は、私一人で決着を付けないと、いけないからだ。


 とにかく怖かったが中に入ると、若い男の警察官がいた。ここに来るまでに、しっかり心の準備をしてきたつもりだが、いざ、声を出そうとすると自分が体の芯から震えているのがよく分かった。しかし話すと決めたのだから決心して声を出した。

「すみません。お話があるんですけど」

 勇気を振り絞って出した声だったが、かすかすの小さな声しか出なかった。

「こんにちは。どうしましたか」

 すると警察官はハキハキとした声で返答した。私は今から、何度も心の中で練習したセリフをついに言葉にする。それは絶対に言葉として、口にしたくないことだった。だから聞き返されないよう、恐怖で震える体を気持ちで押さえつけて大きな声を出す。

「父に虐待を受けているんです。助けてください。学校に相談しても父と話し合ってみなさいとしか言われず何もしてくれませんでした。母はどこにいるかもわからず祖父母は父との関係を絶っていて他に頼れる場所が無いんです」

 今にも泣きだしてしまいそう声だったが、確かに口にした。最後の頼りだと思って全部話した。ここで私が告発をしたら私は親を裏切った子どもになる。しかしこれ以上は耐えられない。私は十分頑張った。もう終わりにしたい。

「君の想いは十分に分かった。だけど学校か児童相談所の要請が無いと、警察は動けないんだよ。一応、警察から相談所と学校の方に連絡はしてみるね」

 さっきまでの緊張とは別の意味で、頭が真っ白になった。

「それに君ぐらいの歳の子は思春期が行き過ぎて、虐待だと勘違いしていることが多いんだよ。もっとお父さんに、感謝の気持ちを持って接してみれば、変わって見えるよ」

 そんな軽い言葉で、私の最大の決意をなかったことにされ、最後の望みはあっけなく崩れ去った。こんな言葉は予想もしてなかった。私には、この人が何を言っているのか全く理解できない。私は今なんと言われたのだろうか。きっと聞き違いだ。もう一度助けを求めてみよう。

「あ、あの」

 震えながら声を出そうとすると、それに覆いかぶせるかのように警察官は言葉を続けた。

「君のご家庭は複雑な事情があるのかもしれないが、誰がここまで君を育ててくれたんだい?君のお父さんが、一生懸命働いて君を育ててきたんだよ。お父さんだって大変な思いをしてるんだから、たまには君に辛く当たってしまうことがあっても、仕方がないことだろう?」

 ここに来るまでの異常なまでの鼓動が、今は心臓が無くなってしまったのではないかと思うほど静かだ。もうダメだ。心の底からそう感じた。大人はどんなに懇願しても私を助けてくれることはないらしい。無理だと分かっていても心のどこかには、助けてくれる大人がいつか現れると信じていた。しかしそんな幻想は打ち砕かれ厳しい現実を知った。

「分かりました!相談に乗っていただいてありがとうございました!父と本音で話してみたいと思います。急に変なこと言ってしまってすみませんでした!」

 自然とできた笑顔で出た元気な言葉だった。彼と関わるうちに、頑丈に閉ざされていた扉が徐々に開いてきていたが、今の一瞬でもとに戻った。本音を隠しいい子でいる。何をされても無抵抗な、本当の自分が再び出てき。その後に警察が何かを言っていたかもしれないが、もう私の耳に入ることは無かった。もう、私に救いの道は残っていなかった。

 逃げられないと分かった途端に、彼をどう守り、遠ざけるかで頭がいっぱいになった。これまで本当に幸せだった。彼と一緒にいるときは、頭から父が消えてくれた。本当に優しい人だった。外から見たら傷の舐め合いだったのかもしれないが、私にはそれで十分すぎるほどだった。彼には十分すぎるほどの物を、時間をもらった。これ以上私といたら彼は人並みの幸せすら、手に入れることができない。彼を傷つけることは、絶対にしたくないことだが、私がひどい言葉を投げつければ彼も失望してくれるだろう。大事な人から心ない言葉を言われる衝撃を私は良く知っている。

 警察署の外に出ると彼の姿が一番に目に入る。彼は私が出てきたことに気付くと、駆け足で近づいてきた。

「どうだった?最後は元気な声が聞こえたけど?」

 彼は心の底から私を心配してくれている。そう断言できるほど私は彼を信用している。そんな彼と決別しなければいけないこの悲しさは、今まで経験してきたどんなことよりも辛いものだった。でも、彼を本当に愛しているからこそ、やり遂げないといけない。全部私の中にしまい込めばいいだけの話だから。

「あんたって本当に馬鹿だね。私があんたのこと本当に好きだとでも思ったの?私が今まで話してたことが、全部事実だと思ってるの?暇だから適当に付き合ってただけ。今警察と話してたのは、あんたをどうやって突き放すかを相談してただけ。二度と近寄らないで!」

 そう言い切るか言い切らないかで、私は走り出していた。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 心の中で何度も叫びながら走った。

 彼が突然のことで茫然としている中、私は本来私がいるべき父親という牢屋に向かって走った。


 なぜ、大好きな人にこんなことを言わなければいけないのだろう。なぜ、私は幸せになれなかったのだろうか。どうすればよかったのだろう。誰かわかるなら教えて欲しい。生まれた時から最底辺を歩き続けて、ようやく光が見えて手を掛けたらまた突き落とされた。今の私に出来ることは、彼を私と同じ最底辺まで、引きずりこまないことだけだ。どうか、彼だけは幸せになってほしい。

  

 走っているうちに牢獄についてしまった。この時間帯は父は家にいるし、酔っていない時はないが、機嫌がいいか悪いかは日による。もし寝て居たら起こさないようにそっと、家に入ってじっとしていよう。起こしてしまったら絶対に機嫌が悪くなって殴られるから。そっとドアを開けて家の中に入ると、父は酒を飲みながらテレビを見ているのが分かった。

 最悪だ。後は機嫌が悪くないことだけを願う。

「ただいま」

 いつも通り平然を装いながら父に声をかける。おびえている姿を見せると、それに怒り殴られる。幸せの最高潮から地獄の最底辺まで、突き落とされた直後だが、出来る限りいつも通りを装った。

「・・・」

 何も返答はなかったということは少なくとも今すぐに殴られることは無い。

 それに安堵して居間と区切られた、一応私の部屋となっている場所に腰をおろした。幸せをつかめるかと思っていた、直後のことで感情がボロボロだった。少しでも気が緩んでしまったら大声で泣きだしてしまいそうだ。心を落ち着かせて、一刻でも早く彼との日々を、あったかもしれない、未来の幸せを忘れなくてはならない。それを持っていて辛いのは私だから。もう、すがるものも頼るものも、何もない私には、思い出すら邪魔である。それでも、忘れたくない思いとの葛藤を繰りひろげていると、聞きなれた機械音が耳に入った。それは一回で終わらず、何度も聞こえてくる。

「おい!」

 しつこいほど、なるインターホンの音に怒りを示す父が怒鳴り声をあげた。その一言で悲しみでいっぱいだった、私の頭の中を恐怖で埋め尽くした。また、怒鳴られないように私はすぐに玄関に向かった。鍵を開けてドアを開くとそこには彼が立っていた。また、頭が真っ白になってしまった。それと同時に、諦めなければいけない感情が、あふれ出て、涙が零れ落ちてきた。あんな酷いことを言って走り去った私を、まだ心配して追いかけてきてくれた。彼は私を信じていてくれたのだ。私が彼に吐いた心無い言葉は嘘だということを。

 しかしもう、私の運命は変えることはできない。また、彼を拒まないといけない。

「ここから逃げよう!僕が何とかするから!」

 彼はそう言うと私の手を引っ張った。父に何度も髪や腕を引っ張られたことはあるが、好きな人の愛情の籠ったものとは雲泥の差だった。だけど私は、これすら拒まないといけない。

「ごめんなさい!もういいの!十分なの!」

 最後まで彼に嫌われようと思っていたが、何を言えばいいか分からない。そんな私から出た言葉は、私に嫌われていないことを、彼に確信させる言葉だった。早く彼を返さないと父が来てしまう。この際どんなに殴られてもいいが、彼の顔を父に見させるわけにはいかない。近い場所に住んでいるから彼にもっと迷惑をかけてしまう。

「おい!うちの娘に何やってんだ!」

 叫んでいる声を聞き、異変に気づき父が出てきた。父は彼を確認するなり突き飛ばした。彼はそれでは止まらず、父につかみかかった。二人が取っ組み合いを始めてしまう。

 もう、私にはどうすればいいか分からないし、私の力では2人を止めることはできない。混乱していた頭の中がさらにぐちゃぐちゃになる。とにかく2人を止めることが最優先だと考えた私は、台所に行き包丁を手に取った、初めはこれで脅せば二人は冷静になってくれると思った。広い家ではないので、すぐに玄関に戻ることができる。これを向けて、大きな声を出せば二人はこっちを見て、意識がお互いから、私の方に向くはずだ。両手で強く握った包丁は、思いもしなかった方に向かっていった。

「・・・え?」

 私は何を血迷ったのか、勢いよく彼に包丁を刺してしまっていた。自分でも自分が何をしたのかが理解で出来ず、私の声と彼の声がかぶさった。彼は驚いた顔をして私を見たが、彼以上に私が驚いている。

「おい!何やってんだ!」

 放心状態になった私にかろうじて届いたのはよく聞く父の怒鳴り声だった。私は父に突き飛ばされ、殴られ続けているようだ。しかし、私には一切の痛みも恐怖も感じられなかった。

 当然だ。だって大好きな人を。私を救ってくれるかもしれない唯一の人を、誤って刺してしまったのだから。私が彼を不幸にした。私がいなければ彼はさらに不幸にすることは無かった。彼への懺悔の気持ちと自分への後悔の気持ちで、埋め尽くされていく私は、徐々に目すらも開けられなくなってきた。この間にも父はずっと私を殴り続けている。ないか大きな声で怒鳴っているようだがもう、何を言っているのかも理解できない。

 かすかに開いている私の視界には彼と騒ぎによってきた近所の人たちが映る。


 すると私は安堵の気持ちがわいてきた。

 ああ、これでよかったんだ。多くの証人がいるこの状況なら、彼は家族間のもめ事に巻き込まれただけで済む。もらっていたばかりだった私は最後に彼への感謝を込めて「ありがとう」と伝えたかったが、声すら出なかった。でもきっと彼には伝わったと思う。いや、そう思いたい。


 これで思い残すことはもう・・・無い。

  

 鋭い痛みが走り目を開けると、見慣れない天井が目に入った。いつも寝ている空間よりはるかに広いし、嗅ぎなれない匂いもする。病院のベットの上にいることはわかった。まだ意識がもうろうとしているが、混乱する頭の中を必死に落ち着かせようとする。看護師が来たと思ったら、僕の方を見て慌てて出ていった。またしばらくすると医者と親が入ってきた。母は僕の顔を見たとたんに、大きな声を出して泣き始めてしまった。見慣れているはずの姿だが、いつもの涙とは違い心の底から僕のことを心配しての涙のように見えた。それは、僕への愛情が詰まっていることが良く分かるものだった。父は相変わらず大きな声で、何かを言っていたが、それには怒りを全く感じず、優しさだけが詰められているように感じる。そして、うっすらと涙ぐんだ目をしていた。父親のこんな表情を見たのは初めてだった。そんな親たちの異常な行動を見ているうちに、混乱していた頭の中はいたって冷静になってきた。

「自分の状況は、何となく理解できている。それより、彼女はどうなったか教えてください!」

 両親の意外な一面を見て、もう少し感傷に浸りたい気分だが、そんなことよりも大事なことがある。僕にとって、一番大事な彼女はどうなったのだろう。知らないってことは無いだろう。もしかしたら、この病院にいるんじゃないだろうか。

「今、目が覚めたばかりなのだから、自分の心配をしましょう」

「そんな時間はない!一刻も早く彼女をあの男から引き離さないと!」

 両親と医者は、困った顔をしながら、僕から目線を逸らす。しかし、普段こんなに大きな声を出さない僕が、切羽詰まった状態な所を見かねた母が口を開いた。

「あの子はね。亡くなったそうよ。お父さんにね・・・。でも、あなたは関係ないのよ。あなたは巻き込まれただけなんだから・・・」

 関係はずがないだろう。母もそれを分かっているが、そう言わざるをえないのだろう。

 本来ならばここでショックを受けて泣き叫ぶのだと思うが、この時の僕は悲しいとは最も遠い感情だった。

 ああ、君はようやく自由になれたんだ。涙があふれてきた。この涙には、悲しみも怒りも詰まっていない。僕と彼女が何度も流してきた涙とは違う。これが嬉し泣きというのだろうか。この初めての出来事は、できれば彼女と一緒がよかった。彼女はこの涙を知ることはできたのだろうか?僕には今すぐにやらなければいけないことが出来た。急いで彼女の元に向かいうことだ。きっと彼女も先に行って待っている。また、彼女を一人ぼっちにさせるわけにはいかない。

 僕はいたって冷静だった。長年の我慢生活の末培ったものは、焦らないことだったのかもしれない。本来であればすぐにでも彼女の元に向かいたいところだが、目覚めてすぐの僕の周りには、まだ大人たちが多い。両親の優しい一面も見れ、病院の人達も僕のことをしっかり考えてくれている現状を見ると、裏切るようで少し気が引ける。しかし、そんな感情よりも大事なものがある。

 病院とはとても便利なところだ。建物が高い構造になっているため一番上まで行かなくとも、飛び降りれば確実に死ねる高さだ。僕は周りが少し落ち着いたころに、部屋を抜け出し上の階へ向かった。エレベーターを使わずに階段で上へ上へと昇っていく。勿論その方が目立たないからもあるが、最後に彼女から貰ったものを、感覚で味わうためだ。僕の為を思って、くれたこの痛みが、とても気持ち良く感じる。

 そんな、幸せな気分の浸っていると、ちょうどよさそうな場所を見つけた。下を見るとコンクリートだったため、ここなら大丈夫だと改めて確認した。

 窓に足をかけいつでも飛び降りれる状態になり、一息つく。

「遅くなってごめんね、いまから君の元に行くから!もうきっと誰にも邪魔されないから、ずっと一緒にいようね!」

 こんなすがすがしい気分でいるのは、いつぶりだろう。常にあった頭の中のぐちゃぐちゃは、今は綺麗さっぱり無くなっている。今の僕はとても身軽で、彼女の元にいくにはちょうどいい状態だ。彼女がまだ何か、背負ってる物があるなら、手持ちぶさになった僕が代わりに持つことにしよう。これからはお互いで支え合おう。そんな未来を想像するとわくわくで胸が躍る。

「長い間待たせてごめんね!今から行くよ!」

 言い切る前に窓から飛び降りた。

 嬉しさのあまり満面の笑みで思ったより大きな声が出た。

 君を幸せにすると言ってから、だいぶ嫌な思いをさせたけどやっと約束が果たせる。

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