倫理

ユウキ

前編

 インセストタブー。

 それは、近親相姦の禁忌を指す言葉。


「あなた方は、正真正銘、血の繋がった兄妹です。」

 結婚を目前にした僕達は、何の気なしに、最近巷で流行りだという、遺伝子のルーツを探る検査を行ってみた。

 ……その結果、僕と彼女が血の繋がった実の兄妹だと、同じ男を父に持つ異母兄妹だという事実が判明した。


 僕を育てた父親は、生まれつき精子を作れない疾患を抱えていたらしく(無精子症というそうだ)、その事実が発覚したのは、母の不妊治療がきっかけだった。父はその事実に大層ショックを受け、子供なんていらないと豪語したらしい。しかし、どうしても子供が欲しいと望んだ母は、精子バンクを利用し、無事僕を身ごもり、そして出産にまでこぎ着けた(精子バンクを利用するにあたり、それはそれは揉めたそうだが、話が脱線してしまうため、ここでは割愛する)。そのため、異母兄妹だったといっても、親が不倫したとか、生き別れただとか、そんな複雑な理由は全くない。……いや、異母兄妹という事実だけでも、十分複雑ではあるのかもしれないが、匿名での精子提供ならば、こういうことも起こり得るのだろう。なんいせよ、僕と彼女は、精子提供によって、半分血が繋がっている。それ以上でもそれ以下でもない。

 ……とはいえ、その事実が、僕達が結ばれるにあたっての最大の問題であることには、なんのも変わりもなかった。


 僕が精子提供によって生まれた子供だというのは、交際が決まった後、彼女に話したことがある。

「へー。面白いね。」

 彼女は昼食のサンドウィッチを貪りながら、ゆるりとした口調で言い放つ。

「面白いって……そうか……?」

「そうだよ。なんか倫理観への挑戦って感じ。」

「お前なぁ……。僕はいいけど、他の当事者の前では絶対に言うなよ!マジで!」

 僕は彼女の無遠慮な言動を軽く叱った。まぁ、彼女のこういったところが、僕は嫌いではないのだけれども。

 まだ口の中に残っていたサンドウィッチを、勢いよく飲み込んだ彼女は、「ごめんなさぁい……」とバツが悪そうに口にした後、こちらの様子をチラリと伺いながら、意外な言葉を続けた。

「私の父も匿名で精子提供をしたことがあるって言ってたよー。」

「えっ、へぇー。」

 自分が父とは血が繋がっていないと知らされたあの日、家族の手前、今までとなにも変わりはないという言葉に頷きはしたものの、本当は、絶対の足場が半分崩れたような感覚に襲われていた。どうあがいても、血の繋がりというものは、永久に覆しようのない「事実」であるからだ。当時多感な時期にあった僕は、精子提供をする人間にも、される人間にも、軽蔑にも似たような感情を抱いたものだ。が、それは今となっては過去の話だ。

「こういうの、けっこう身近になってきてるのかな。」

 僕は顔も名前もわからない自分の実の父親に思いをはせた。

 彼女の父親の精子も、それを必要としている誰かに望まれて、受精させられて、この世に生まれ落ちて、こうして僕等と同じように日常を謳歌しているのかもしれない。

「まぁ、でも、悪くはないんじゃないかな。」

 ミルクを少しだけ混ぜたブラックコーヒーを口にしながら、彼女と二人まどろんだ穏やかな午後。

 その時の僕は、まさかこんな状況になるだなんて、夢にも思っていなかった。


 鉛のような沈黙が場を支配する。

 遺伝子検査の結果は郵送の資料で送られてくる。最初それを見た時はなにかの間違いだと思った、そうに違いないと思いたかった。けれど病院に行き正式に検査を行った結果、それは揺るぎない事実として僕等の前に突き付けられた。

 僕は恋に落ちた彼女と結婚し、子供を持ち、そんなごく普通の、ありふれた幸せを教授できるものだろうと思っていた。……そのつもりでいたのだ。

 こんな検査さえ行わずにいれば、ドス黒い感情が底から湧きあがり、そんな感情は正気の沙汰ではないと、理性によって奥深くに沈められた。

 病院の帰り、僕等は一言も口を聞かずにそれぞれの家へと帰って行った。

「××…!」

 玄関のドアを開いた途端、バタバタを音を立てながら母が駆け寄ってくる。そういえば、検査の結果が出たらすぐに電話をすると約束したにもかかわらず、なにも連絡をよこさないまま帰ってきてしまった。

「……そう、なのね。」

 俯いたままの僕を見て全てを察した母と、遅れて玄関にやってきた父から逃げるように、僕は自室へとなだれ込んだ。

 その夜のことはよく覚えていない。


 病院での検査から数日後、どこから漏れたのか、噂好きの隣人に僕等の事情を知られ、連日の井戸端会議はその話題でもちきりだった。

 悲しいかな、こんな時でも性欲は湧くもので、僕は部屋で一人、自慰行為に及ぼうとしていた。それに、これ以外に気を紛らわす方法も思いつかなかった。

 いつもなら、行為に没入したい時は、彼女の写真を眺め、淫らに僕を求める彼女を夢想するのだが、到底そんな気は起きず、結局僕はベッドに仰向けになった。

「はぁ……。」

 僕の体とため息は、光の届かない深海まで、深く沈み込んでゆく。


「えっ!一度も恋愛したことないの!?」

 キャンパス内の学食で、とある二人組の女性が、他愛もない恋愛トークを繰り広げている。積極的に話を進めているのは、黒髪ロングにくすんだ水色のワンピースという、清楚な印象の女性。もう片方は、焦げ茶色の髪をミディアムヘアにした、これまた清楚そうな、でもどこか抜けた印象のあるふわふわした女性。

 僕は普段学食を使わないのだが、一緒に昼食を食べようと友人に誘われ、珍しくここを訪れていた。が、その約束をすっぽ抜かされ、一人コーヒーを啜っていた僕は、なんとなく彼女らの話に聞き耳を立てていた。

「ってことは処女?」

 黒髪ロングの女性があっけらかんとした口調で言い放った。あまりの開けっ広げさに、僕はコーヒーをむせかけ、必死でそれを堪えた。

「もぉー、そういうの大っぴらに言うのやめてくれないかなぁ……」

 ミディアムヘアの女性は、少し困っているようだ。

「(そうだよ!!)」

 僕は心の中で彼女に激しく同意した。

「あんたでもこういう話題は人目を気にするのね。ごめんごめん!」

「そうだよー。っていうか、そういうのって一生を添い遂げる人とするものだと思ってた……。」

 それを聞いた僕は、ミディアムヘアの彼女に対し、軽い親近感と大きな安堵を覚えた。なぜなら僕は、婚前に妊娠の危険性が伴う行為をするのは、非常に不誠実なことだと思っていたからだ。しかし友人からは、古臭いだの、非モテの言い訳だのと、よく馬鹿にされていた。そのため、同じ大学生でもそういった価値観の人間がいるのだと知って、僕はホッとしたのだった。


「……そうだ、まだ引き返せる。」

 不幸中の幸いと言うべきなのだろうか、身持ちが固かった僕等は、現代のカップルにしては非常に珍しく、結婚を目前にしても、お互いが童貞処女のままだ。

 禁忌の、そのギリギリの淵で、僕等は留まっていた。


「××、ちょっといい?」

 母が自室の扉をノックする。

 僕は慌てて起き上がり、衣服とベッドを整えてからその扉を開いた。

「……なに。ごめん、今は顔見たくなかったんだけど。」

 僕は目を合わさないように、俯きながら呟く。

「ごめんなさ……」

「だが、いつまでもこのままという訳にもいかないだろう。」

 母の謝罪を遮るようにして、父が顔を出した。

「恨むなら俺を恨め。」

「父さん……。」

 父は少々亭主関白なきらいのあるいかつい男だが、有事の際はこうして必ず母の盾になってきた。

 もし今僕が「お前が種無しだからこうなった」と言い放ったとしたら。そんな加害恐怖を飲み込みながら、僕はあの日以来初めて家族の顔を見た。

「向こうの親御さんと連絡を取った。日曜日、××さんのお宅で全員揃って話し合いをすることになったから、お前も必ず顔を出すんだぞ。」

 奥底に哀愁を秘めた瞳は、真っ直ぐに僕を映している。

「……わかった。」

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