7th Single:強くなりたい

Track 01. シアターの女神

『スクールアイドル・ニュースターズ、遂に決着の瞬間です! 決勝戦、三曲目の判定は――審査員票、指宿いぶすきひとみ! 会場票、指宿瞳! そしてデータリンク票、指宿瞳! 「Venus+ヴィーナスプラス」指宿瞳、トーナメント優勝決定――!』


 スタジオに響き渡る熱の籠もったアナウンス、そして幾千人の観客の盛大な歓声が、華子はなこの鼓膜を苛烈に叩く。

 乗り出していた身体をすとんと座席に落とし、彼女はステージを見た。真っ先に視界に映るのは、勝ち名乗りを受け、華々しく客席に笑顔を振りまく指宿瞳の姿。続いて、息を切らしてステージの下手しもてに立ち尽くす結依ゆいの小さな身体を目にしたとき、華子の視界に熱い何かが溢れた。


 ――結依が負けた。春の地区予選で並み居る敵を瞬殺し、あの春日かすが瑠璃るりにさえ一矢報いた結依が。このトーナメントでも、大阪の長居ながい聖麗奈せれなや神奈川の成田なりた梨央りおら、全国級のスクールアイドル達を軽くあしらい、「桜花のヨシノ」と呼ばれる薩摩さつま芳乃よしのまでも圧倒してみせた、あの結依が。

 女王の娘、指宿瞳の実力を前に、すべ無く負けた――。


「ユイちゃん……」


 華子が呟いたとき、横に座っていたあいりが、そっと彼女の手を握ってきた。あいりの手もまた震えていた。見れば、マリナも、怜音レオンも、口数の多い和希かずきさえも何も言わず、それぞれが失意や悔しさに満ちた目で、熱狂のステージを見つめていた。


「指宿さん、今のお気持ちは」


 ステージの中心に立つ瞳に、司会者の男性がマイクを向ける。瞳は堂々とマイクを受け取り、客席をぐるりと見渡してから、口元に笑みを浮かべたまま述べた。


「会場の皆さんがこんなにわたしを応援して下さって、とても嬉しいです。ありがとうございます」


 上品な所作で深く頭を下げる瞳に、割れんばかりの拍手と歓声が浴びせられる。それは勝者のみが浴することを許される栄誉の洪水。瞳の一歩後ろで所在なげに立つ結依の耳には、決して届くことのない勝利の祝砲――。


「今夜の勝利を誰と分かち合いたいですか」

「それはもちろん、わたしを推して下さった会場の皆さんと、テレビの向こうの皆さん、そして、わたしがこれから出会う、まだ見ぬ沢山のファンの皆さん……。そして誰より、わたしに翼を与えてくれた養母ははと」

「見事なお答え。指宿さんの風格はもう立派にプロのアイドルですね」

「……いえ、そんな。わたしの戦いはまだ、始まったばかりです」


 計算し尽くしたような笑顔を保ったまま、如才ない受け答えを披露した瞳に続いて、残酷にも、司会者は結依にもマイクを向けた。


火群ほむらさん。惜しくも優勝は逃されましたが、堂々の二位です。今のお気持ちはどうですか」


 補聴眼鏡グラスを外したままの結依には、司会者の言葉は聴こえていないはずだ。それでも彼女は、淀みない動きでマイクを受け取り、客席に顔を向けた。

 会場の大画面に結依の顔が大映しになる。その瞬間、今の今まで固く唇を結んでいたはずの結依の顔が、ぱっとテレビ向けの笑顔に転じるのを華子は見た。


「わたしは――」


 その身に刻み込まれた電波の掟がそうさせるのか。明るく声を弾ませて語る結依の顔には、たった今希望を打ち砕かれたばかりの失意の色は、もうどこにも見受けられなかった。


「久しぶりにテレビの舞台で歌えて、すっごく楽しかったです。瞳ちゃんや、他にも凄いアイドルの子達とたくさん競演できて。夢みたいな時間でした」


 いや――。

 華子にはわかる。結依の作り笑顔の裏で、その魂が声を上げて泣きたがっているのが。


「皆さん、応援ありがとうございましたっ」


 ぺこりと頭を下げた結依に、その健闘をたたえる拍手が客席のあちこちから飛ぶ。

 華子は溢れる涙を止められなかった。結依の流さなかった涙が、かわりに自分の頬を伝うようだった。

 ハンカチを濡らして周りを見ると、マリナも、あいりもボロ泣きしていた。怜音は握った拳を自身の手のひらに叩きつけ、静かに身を震わせていた。

 気持ちは皆同じはずだった。結依の負けは、彼女一人の負けではないのだ。


「……ユイちゃん」


 気付けばステージは様相を変え、サプライズ的に登場した指宿いぶすきリノの姿に客席から大歓声が上がっていた。芸能大臣直々に優勝トロフィーを手渡され、指宿瞳が一礼する。

 予定調和の親子共演にスタジオが沸く中、結依の姿はもうステージになかった。「次は全国大会でスクールアイドルの頂点に立ちます」――そんな言葉を堂々と宣言する瞳の声は、華子の耳には半分くらいしか入らなかった。

 全ては最初から仕組まれていた茶番だと、言い切るのは簡単かもしれない。だが、それを覆すつもりで戦いに臨んだ結依が、仕込みのない真剣勝負で瞳に完敗してしまったのは事実だ。惜敗なんてものではない。アイドルとしての格の違いを見せつけられ、完膚なきまでに叩きのめされてしまったのだ。

 結依を支えてあげなければ、と華子は思った。自分にできることは少ないかもしれないが、それでも彼女に励ましの言葉を掛けてあげないと。

 もう一度涙を拭って華子が立ち上がると、いつのまにか和希と北村きたむらは控え席から居なくなっていた。


「部長、自分も――」


 合わせて席を立つ怜音に頷きで応え、華子はスタジオの出口を目で探す。

 と、そこで、思わぬ人物が彼女を呼び止めてきた。


千葉ちばさん」


 華子が振り向いた先に立っていたのは、シャギーの効いた茶髪を顔の横に広がらせた、高校生らしからぬ風格の持ち主。春暁しゅんぎょう学園「Marbleマーブル」のキャプテン、大宮おおみや冴子さえこだった。


「大宮さん……?」

「火群さんを慰めに行くの?」


 突然の声掛けに戸惑いながらも、華子はこくりと頷いた。すると、冴子は、華子のチームメイト達にもくるりと目をやってから、遠慮がちな口調で言葉を続けてきた。


「ごめんね、こんなの、部外者のわたしが口を挟むことじゃないだろうけど……。今の火群さんには、慎重に接してあげたほうがいいと思う」

「えっ……?」


 冴子の発言にドキリとして、華子は思わず目をしばたいた。


「あなた達の絆を疑うわけじゃないの。ハタから見てても、いいチームだなって思う。でも、ウチのルリもそうだけど……やっぱり、あの子達は、だから……」


 都内最強のチームを率いるキャプテンは、伏目がちになってそう言った。華子の脳裏で、先日の大会での春日瑠璃の自信満々の姿と、その瑠璃の不在を番組スタッフに謝っていた今日の冴子の姿が重なる。


「可愛い後輩で、大事な仲間だけどね。それでも、一緒にいるからこそわかるの。あの子達の世界に、所詮、わたし達は入っていけない。どんなに寄り添ってあげたくてもね……」


 冴子の表情は不思議な寂しさを湛えていた。彼女のそんな姿も、語った言葉も、華子には予想外のものだった。

 この人がこんな顔をすることがあるなんて。華子から見れば、冴子だって到底手の届かない世界の住人なのに――。


「あの……大宮さん」


 華子がおずおずと名を呼ぶと、冴子は「え?」という顔をこちらに向けた。


「春日瑠璃ちゃんは……どうしたんですか?」


 同い年なのに、どうしても気後れして敬語になってしまう。だが、そんなことはこの際どうでもよかった。早く結依のそばに行ってあげたい気持ちもあるが、それでも、華子にはどうしても気になったのだ。あの春日瑠璃が今日のトーナメントに姿を見せなかった理由が。

 冴子はまた目を伏せてから、ふうっと寂しそうに息を吐き、再び華子の目を見て口を開いた。


「あの子は知ってしまったのよ。立ちはだかる壁の高さを」


 華子の後ろで、怜音やマリナ達も息を呑むのがわかった。


「やっぱり、全国大会で何か……?」

「千葉さんも知らないわけじゃないでしょ。千城せんじょう学園『DOLLSドールズ』の壬生町みぶまち紡姫つむぎ……」


 冴子の挙げた名前は華子も当然に知っていた。何より、つい昨晩、テレビの中継で彼女が春の全国大会スプリング・アイドライズの優勝旗を手にするのを目にしたばかりだった。

 神奈川の壬生町みぶまち紡姫つむぎ。エイトミリオンの歴史に燦然さんぜんと名を残す二代目女王、壬生町ユーコの実の娘。「七光」の筆頭、「波濤はとうのツムギ」の二つ名で恐れられ、現在のスクールアイドル界の頂点に君臨する実力者だ。


「準決勝で『DOLLS』と当たったわたし達は、当然のようにルリをセンターに据えた。『七光』と互角に戦えるのは『七光』しか居ないからね。だけど……ルリ一人で立ち向かうには、壬生町の輝きはあまりに強すぎた……」


 冴子は、それ以上の具体的なことは何も語らなかった。そのことが、逆説的に、壬生町に手も足も出なかったその戦いの様子をありありと物語っているようだった。

 春日瑠璃は打ちのめされてしまったのか。まさに、今夜、結依が指宿瞳に打ち砕かれたように。


「ルリが怪我したのは本当だけど、あの子がそこまでの無茶をやるほど追い詰められてしまったのは、わたし達が頼りなかったせい。一年生のあの子にそんな重荷を預けてしまった……わたし達も先輩失格だわ」


 冴子の寂しい瞳に、華子はすぐには言葉を返すことができなかった。ややあって、冴子はそっと華子の肩に手を添えて、何かを言おうとするような表情を見せてから――


「大宮さん?」

「……ううん。引き止めてごめんね」


 結局、それだけ言い残して、華子達の前を後にした。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……あはは、ごめんなさい。勝てなかったです、わたし」


 楽屋でやっと顔を合わせた結依は、着替えを終えたステージ衣装を丁寧に畳みながら、貼り付けたような笑顔を華子ら四人に向けてきた。

 彼女を励ますつもりで華子が考えていた言葉は、一瞬で頭から吹き飛んでしまった。真紅の眼鏡グラス越しに一同を見上げてくるその瞳に、痛々しいほどの明るさが灯っていたから。


「やめてよ。謝ることなんてないじゃない」


 マリナの言い返した言葉に、結依はふるふると首を振った。


「せっかく、華子さんの衣装や、カズキ君の歌詞や……みんなの助けがあったのに。ダメですね、わたし自身がこんなんじゃ。もっと頑張らないと」

「そんなこと――」


 華子は結依に歩み寄ろうとして、しかし、その一歩を踏み出せなかった。

 とても笑っていられる精神状態ではないだろうに、それでも皆の前で笑顔を崩さない結依の姿が……何故か、「来ないで」と言っているように見えたから。

 あの子達は特別だから――。冴子が寂しそうに語った言葉が、華子の中でぐるぐると渦巻く。

 スタッフの人達に挨拶をして、テレビ局の建物を出るまで、結局、誰も結依に言葉を掛けることはできなかった。


「……今夜はわたし、一人で帰りますね。皆さんも……お疲れ様でした」


 ぺこりと一同に頭を下げて、結依の小さな背中が夜の街に消えていく。

 彼女が今、どんな思いを噛み締めているのか。自分は彼女に何をしてあげるべきなのか。華子の頭には黒くもやが掛かり、心は答えを出すことを拒んでいるようだった。


「華子ちゃん、行ってあげなくていいの」

「……わたしは……」


 マリナが言うように、結依を追いかけて寄り添うべきだろうか。彼女を慰める役目を自分が果たせるのだろうか。


「華子ちゃんが行かないなら、あたしが――」

「いけませんよ、先輩。自分達には受け止めきれない感情もあるでしょう」


 怜音がさらりとマリナを止めていた。マリナの押し黙る息遣いと、あいりのすすり泣く声が華子の耳に届いた。


 ――あの子達の世界に、所詮、わたし達素人は入っていけない――。


 プロ入り確実と言われる「Marble」の大宮冴子でさえ、そんなことを言うのだ。ただのアイドル好きの一般人に過ぎない自分が、結依の心を支えてあげようだなんて、おこがましいのかもしれない。


「先輩……。ユイちゃんとわたくし達は、仲間ですよね……」


 あいりの涙交じりの言葉に、うん、と頷きながらも――

 華子は結局、その夜を通して、結依にラインの一つも打つことができなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 翌日の月曜日になっても、華子の気持ちは晴れないままだった。朝の登校時も、授業間の休み時間も、何度も華子は結依とのラインの画面を開いて――結局、何も文字を打てないまま携帯ミラホを閉じていた。もちろん、結依の方からラインが来ることもなかった。

 ランチタイムには、マリナと友人達が華子を連れ出してくれた。お弁当を持って、彼女達と一緒に上がった屋上の空は、人間のちっぽけな悩みなど知ったことかというように青く澄み渡っていた。


「レオンはああ言うけどさ。あたしが華子ちゃんだったら、追いかけて声掛けてあげてたって」


 ベンチに背を預け、購買のパンをサクサクとかじりながら、マリナは言った。


「『Marble』の子達の関係がどうかは知らないけど、別に、ユイちゃんと春日瑠璃の心理が同じって確証もないでしょ。ていうか、同じなワケないわよ。春日瑠璃は、落ち込んだら偉大なママに泣きつけばいいんだし」

「……うん」


 箸を持つ手を完全に止めたまま、華子は小さく頷いた。周りでは、マリナの友人のアイ、レイ、ナナ達が、「なんかマリナがいいこと言ってる」と明るく茶化していた。

 

「したいようにしてあげたら? ヨソの部長が何を言おうと、ここは華子ちゃんのアイドル部なんだからさ」


 首を傾けて華子の目を見つめ、マリナが爽やかな風を含んだような声でそう言ってくる。誰かを率いるということが初めての華子には、それは先達からの貴重なアドバイスに聞こえた。


「……そう、だよね……」


 雲一つない空を見上げ、華子は今の結依の境遇を思った。

 元アイドルの母親という強力な後ろ盾を持つ春日瑠璃と違って、結依の後ろには誰も居ない。父親は結依の夢に理解を示してくれていると聞くが、それでも、真に同じ立場で彼女に寄り添ってくれる者は、きっとこの世には存在しないのだろう。

 そう、仲間である自分達を置いて他には――。

 結依と自分達が「同じ立場」だなんて思うのは身の程知らずかもしれない。数人の素人の助けなんて何の足しにもならないのかもしれない。

 それでも、寄り添ってあげたいのだ。結依が自分達を仲間と思ってくれる限り。


「……マリナさん、ありがとう」


 自分の心を迷わせていた何かが消えていくような気がした。マリナのおかげで、自分の気持ちにはっきり気付くことができた。

 放課後には結依に明るく声を掛けてあげよう。分不相応でも何でもいい、少しでも結依の重荷を一緒に背負ってあげたいのだ。


「頼むわよ、華子キャプテン」


 少し前まで敵同士だったことなんて嘘のように、マリナのピースサインは眩しかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 だが――

 その日の放課後、華子が真っ先に一年生のフロアに足を向けると、結依のクラスの前では、既にが腕を組んで待っていた。


桐山きりやま君」


 壁にもたれて立ったまま、和希がちらりと華子に目礼してくる。その直後、ホームルームの終わりを告げる教師の声に続いて、生徒達がどやどやと教室から溢れ出してきた。

 人の波が一段落したところで、ぽつりと一人、結依がスクールバッグを提げて廊下に出てくる。彼女はすぐに華子と和希に気付き、僅かな笑みを口元に含ませた。


「華子さん、カズキ君――」


 と、そこで、和希がずいっと前に出た。


「ユイ、ちょっと付き合え。お前に会わせたい人がいる」

「え?」


 奇しくも華子と結依が揃って声を漏らした時には、既に和希は結依の手首をぐいと掴んでいた。


「えっ、ちょっと――」


 驚く華子の目の前で、和希は結依の手を引いて廊下を歩き出す。なに、なに、と慌てた声で訊きながら彼に付いていく結依の背中を、華子も慌てて追いかけた。


「桐山君っ、何なの、説明してよ」

「部長サンも一緒に来なよ。今のコイツには――悔しいけど、の助けが必要なんだ」


 昇降口を通り過ぎ、和希は結依の手を引っ張ったまま校舎の外に出た。何が何だかわからないまま、華子も二人の後に続く。


「カズキ君、痛いよ……っ」


 結依の小さな声に、和希はやっと彼女の手を放して立ち止まった。

 丁度、校門から一台の乗用車がロータリーに入ってくるところだった。

 白い車体に陽光を照り返す、ひと目で高級車とわかる車体。お金持ちの子弟が多いこの学校でも、なお見かけることの少ない純白のリムジン。

 華子が目を見張っていると、後部座席のドアが開き、一人の女性が降りてきた。

 上品なワンピースに肩掛けショールを掛けた、髪の長い大人の女性だった。サングラスと逆光でその顔はよく見えない。だが、ハイヒールで地面を踏み締め、こつこつとこちらへ歩み寄りながらが発したりんとした声は、どこかで聞き覚えのある甘い音色を湛えていた。


「パフォーマンスにが足りない」


 矢のように撃ち出されたその一言に、結依の肩がびくりと震えた。


「歌声にメリハリがない。ミックスボイス使いすぎ。ビブラート掛けすぎ。歌い方が全部同じ。歌詞の意味を考えてない。ダンスも勢いがあるだけ。振りの意味がわかってない。ステップ強く踏みすぎ。無駄にくるくる回りすぎ。ターン後の残心が全然できてない。髪の動きがダンスに付いてきてない。テクニックに溺れすぎ」


 こちらに状況を認識するいとまも与えないまま、女性は矢継ぎ早に続ける。彼女の姿が結依のすぐ目の前まで迫っても、華子はまだ、この声をどこで聴いたのか思い出せなかった。

 きっと自分は彼女の声を知っている。知っているはずなのに――


「笑顔の作り方もワンパターンすぎ。表情の切り替えがわざとらしすぎ。カメラにばっかり視線振りすぎ。お客さんのことが全然見えてない。歌もダンスも全部一人よがり。生まれ持った可愛さに頼りすぎ」


 そして、女性はそっと片手を伸ばし、結依の華奢なあごをくいっと持ち上げた。硬直して動けない結依に構わず、彼女はサングラス越しにその眼鏡グラスの奥の瞳を覗き込む。


「だけど――


 数秒、その場の時が止まったかのようだった。


「いいよ、わたしがあなたを鍛えてあげる。今より少しは見られるようにしてあげる。可愛い息子の頼みだもんね」


 女性は結依の顎から手を放し、漆黒のサングラスを取り払った。風にふわりと髪を揺らし、素顔を晒した彼女が不敵に微笑む。

 瞬間、華子の中でも全ての認識が繋がった。昔の音源で何度も聴いたこの声。長い時を経ても色褪せぬ、この笑顔は――。


「安心して。得意だったんだ、アイドルをやるのは」


 初代「七姉妹セブン・シスターズ」の一人にして、「アイドルサイボーグ」の二つ名で知られたシアターの女神。2017年の卒業まで十一年にわたり前線で戦い続け、ただの一度も総選挙の上位七名から陥落することのなかった「最後の七姉妹セブン・シスターズ」。

 その黒い瞳に見据えられ、結依が驚愕に声を震わせる。


「マユさん――!?」


 この地上でただ一人、女王・指宿リノを総選挙で下した経験を持つ人物――

 秋葉原エイトミリオンの伝説のOG、羽生はにゅうマユの姿がそこにあった。

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