Track 02. 立ち位置
伝説のアイドルとの突然の邂逅。衝撃を抑えきれないまま、
「カズキ君のお母さんって……マユさんだったの……?」
結依が驚きを隠せない声で聞いた。華子は緊張に口を開くこともできず、両膝の上に手を重ねたまま、場違いとしか思えない車内の様子をちらちらと
まあね、と素っ気ない態度の和希とは対照的に、往年のスター、羽生マユは明るく唇を
「そうだよ、
そう言われて、華子は和希が初めて部室を訪れた時のことを思い出した。目の前にいるのが超が付くほどの有名人でなければ、苦笑の一つも漏らせたかもしれない。だが、実際のところ華子には、岩のように強張った唇をなんとか開けて「いえ……」と答える以外に選択肢はなかった。
結依はといえば、ふふ、と小さく笑って、「色々お世話になりっぱなしです」などと言っている。
やっぱり住む世界が違う、と華子は実感せざるを得なかった。
仲間として結依を全力で支えてあげたいと、数時間前に決意を新たにしたばかりだったが。あまりに急転直下の出来事が起きているせいで、今は、昨日のトーナメントについて結依に慰めの言葉を掛けるどころではなくなってしまっていた。
――そういえば、と華子は思い至る。マリナ達に、自分達が校外に出た旨の連絡をしなければ。だけど、こんな場で
ちらりと自分のスクールバッグに目を落としたとき、羽生マユがこちらに視線を向け、ふわりとした声で言ってきた。
「いきなり連れ出しちゃってごめんね。お友達に連絡してあげて?」
「は……はい」
華子はほっと安心する反面、背筋の凍るような恐ろしさも感じていた。一瞬で全てを見透かしてくるような大スターの視線。神とまで呼ばれたアイドル達は、皆こうなのだろうか――。
胸の動悸を押さえて、華子がマリナ達へのラインを打っていると、羽生マユの声が続いた。
「あなたの名前はずっと知ってたんだ、ユイちゃん」
華子は思わず結依の横顔を見た。真紅の
「だって、小さい頃のカズ君、いっつも『ホムラユイが! ホムラユイが!』って言ってたんだもん」
「言ってねーよ」
「言ってたよぉ。スクールから帰ってくるたびに、『今日もホムラユイが!』って」
「言ってねーって」
吐き捨てるような和希の言葉に結依がくすりと笑う。華子にも少しだけ笑う余裕が戻ってきた。
「それに……ミレイちゃんもよくあなたの話をしてたしね」
さらりと羽生マユが告げたその一言に、えっ、と結依がシートから身を乗り出した。
「ミレイちゃんを知ってるんですか!?」
「まあ……ね」
偶然か、意図したことか、車はちょうどそこで目的地のガレージに乗り入れた。スモーク貼りの車窓から見えるビルの入口には、「
「さあ、着いたよ。見せてもらいましょう。カズ君に役者の道を諦めさせたスーパー子役、灼熱のユイちゃんのお手並みを」
「……余計なこと言うなっての」
ドライバーが外から後部座席のドアを開ける。一同に付いて車から降り立つと、せっかく収まりかけていた緊張がまた華子の全身を襲ってきた。
羽生マユらに案内されて建物の自動ドアをくぐり、結依と一緒に明るいエントランスに足を踏み入れても、まだ実感が湧かない。結依のおまけで付いてきただけとはいえ、自分がこんな場所に居るなんて。
そう、ここは芸能プロダクション。自分には生涯縁がないと信じて疑わなかった場所だった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
まだ五月の頭だというのに、ビルの中は
「ユイちゃん。
「それは……」
「正直に言っていいよ」
優しい声で促され、結依は少し置いてから口を開く。
「……悔しかったです。すごく」
わかっていたつもりではいたが、華子は結依のその一言だけで嗚咽が漏れそうになった。昨日、華子らの前ではついぞ口にすることのなかった言葉。だが、結依があの敗戦を笑って流せるはずがない。指宿瞳との一戦で、彼女はそれまで磨いてきた全てを否定されてしまったに等しいのだ。
「わたし、もっと戦えると思ってたんです。カズキ君が素敵な歌詞を書いてくれて。華子さんがこのために新しい衣装を作ってくれて。みんなからも力を貰って、きっと勝てるって思ったのに……。でも、わたしの力は、瞳ちゃんに全然及ばなかった……」
先頭を行く羽生マユは、大きなガラス張りの扉の前で歩を止めた。華子や和希とともにその場に留まり、結依は伝説のアイドルの顔をまっすぐ見上げていた。
「マユさんの前で言うのは恐れ多いですけど……わたし、エイトミリオンのトップに立ちたいんです。ミレイちゃんのためにも。……だから」
「だから?」
「……スクールアイドルの大会なんかで負けてられない。足踏みしてられないんです」
結依が喉の奥から絞り出した一言が、なぜか、華子の心をさくりと刺した。
「ユイちゃん……」
決して嫌味のある発言ではないのはわかる。部活動を見下しているわけでも、華子達との日々を無駄足と思っているわけでもないことは。
だが、それでもやはり華子は寂しかった。どんなに友情を深め、青春の炎を一緒に燃やしても……結依にとって、スクールアイドルなど所詮は通過点に過ぎない。彼女の夢は、全国優勝よりももっとずっと先にあるのだ。
「……OK、ユイちゃん。一足早いけど、プロの世界を見せてあげる」
すっと流し目を引いて、羽生マユはガラス張りの扉に手をかけた。扉が開くやいなや、空調の涼しさを塗り潰す勢いで、噴き出るような熱気が華子らの身体を煽った。
「お疲れ様です!」
女の子達の声が一斉に鼓膜を叩き、華子はびくりとした。
そこは広々としたレッスンスタジオだった。「お疲れさま」と明るく手を振って、羽生マユが先陣を切って室内に入っていく。和希と結依に続いて、華子も恐る恐るその場所に踏み入った。その瞬間、ぴりりと張り詰めた空気が肌を刺した。
スタジオには十数人の女の子達が居た。皆、中学生から高校生くらいに見えたが、彼女らが纏っている烈気は、華子がこれまでに見てきたどんなスクールアイドルの子達とも違っていた。
いや、違って当然だ。揃いのレッスンウェアに身を包み、額に玉の汗を散らした彼女達は――
「ウチに所属してくれてる研究生の子達。浦和エイトミリオンの子が多いけど、本店の子もいるよ」
羽生マユに紹介されるまでもなく、アマチュアとのオーラの違いは華子にも一瞬でわかった。
エイトミリオングループの研究生。超難関と言われるオーディションを突破し、プロのアイドルの門をくぐった子達だ。
「あっ、ユイちゃんだ」
と、そのプロの卵達の中の一人が、結依の姿を見るなり黄色い声を上げた。
「え、
たちまち他の子達にもその波が広がり、彼女らは一人また一人と結依の周りに集まってきた。和希が「人気者じゃん」と呟くのを聞きながら、華子は邪魔にならないように身を引いた。
「昨日のテレビ見てたよ。すごかったね」
「いえ、そんな……」
「あたし、子供の頃、ずっとファンでした!」
「あ、ずるい。それ言うならあたしも」
それは不思議な光景だった。エイトミリオンの入口に立っている女の子達が、結依を取り囲んで口々に囃し立てている。結依はなんだか恐縮した様子で、ありがとう、とか、いえ、とか、返事を繰り返していた。
「レッスンに混ぜてあげてくれる?」
羽生マユの凛とした声に、女の子達が一斉に「ハイ!」と声を張る。彼女達は我先にと結依をエスコートし、更衣室に引っ張っていった。
「よかったら、座って見ててね」
「はっ、はい」
この空間の
そこには既に先客が居た。白衣を羽織った、若く線の細い男性だった。和希とは顔馴染みらしく、「久しぶりだね」「どーも」なんてやりとりをしている。
「こちら、研修医のハル先生。……こっちはウチの学校のアイドル部の部長さん」
「こんにちは」
気さくに笑いかけてくれるその男性に、ぺこりと頭を下げて、華子は椅子に腰を下ろした。
研究生達はすぐにスタジオに戻ってきた。結依は補聴
「OK。よろしくね、ユイちゃん」
「ハイ!」
そして、目を見張るような手際で
羽生マユが見守る中、リーダー格らしき女の子の合図で、音響機器が曲の再生を始める。秋葉原エイトミリオンの最新シングルのイントロとともに、十数人の身体が華子らの眼前で躍動を開始する。
天地を揺らすような震動が、たちまち華子の全身を包み込んだ。
目の前の女の子達のダンスは、流石にスクールアイドルの競技とはレベルが違っていた。腕の振りはぴしりと揃い、足は高々と上がり、目まぐるしいポジションの移動にも全く淀みがない。マイクこそ通していないが、生歌の歌唱も練習とは思えない気合が入っていた。何より、全員の身体から立ち上るオーラが、目の輝きが、笑顔の煌めきが違う。
だが、それにもまして驚いたのは、センターに立つ結依のパフォーマンスが、そんなプロの卵達に全く引けを取っていないことだった。
「……すごい」
ステップの踏み込みも、ターンの素早さも。激しく燃え上がるような歌唱も。
他の子達の激しい動きに全く置いていかれることもなく、結依はスタジオを
一曲目が終わり、間髪入れず突入した二曲目も。三曲目も、四曲目も同じだった。
こうなることを全く予想していなかったわけではないが、それでも、華子は身震いするような衝撃を抑えきれなかった。ここに居るのは、研究生とはいえ、仮にもエイトミリオングループのオーディションを通った子達ばかり。しかも、つい忘れがちになるが、結依にはこの空間に溢れる大音響のメロディが聴こえていないのだ。
「へえ……あの子、やるじゃん」
和希の隣に座る白衣の男性が、ふとそんな声を漏らすのが聞こえた。その何気ない一言が、華子にはまるで自分のことのように嬉しかった。
そうだ、指宿瞳には敗れてしまったとはいえ、結依だってかつては全国のお茶の間を沸かせた子役アイドル。その実力はきっと、プロの世界でも通用するはず……!
「……まあ、ここまでは予想の範囲内っていうか」
四曲目が終わり、肩で息をする女の子達を見やりながら、和希が誰にともなく言った。
「本番はこっからだよ」
「え……?」
彼はスタジオの入口の方をちらりと見た。華子が視線を振ると、ちょうど曲が途切れるのを待っていたように、誰かが扉を開け、姿を見せるところだった。
「! お疲れ様です!」
研究生の子達が、一斉に入口に向かって声を張り上げる。
「みんなー、お疲れさま」
どこか、ふわふわと宙に浮くような声で言いながら、スタジオに入ってきたのは、ワンピースに春色のカーディガンを羽織った長身の女の子だった。
「
「ああ。現役の選抜様のお出ましだぜ」
秋葉原エイトミリオンの東馬有以。組閣を経てこの春から始動した新生チーム・オータムで堂々エースを張る若手メンバー。直近では本店シングルのセンターにも抜擢されており、今年の総選挙では「
彼女の登場で、スタジオに張り詰めていた空気が、さらに一段と鋭いものに変わったような気がした。
「マユさん、お疲れさまです」
「お疲れさま。大変だったでしょ?」
「はいー、朝からずっと撮影で、わたしもうクタクタで……。……あれあれ? 新入りさん?」
研究生達の中に目ざとく結依の姿を見つけ、東馬有以は身を乗り出すような素振りを見せた。
「元子役の火群結依ちゃん。ちょっとウチで預かることにしたの」
「へぇー……」
結依が「お邪魔してます」と背筋を伸ばして挨拶すると、東馬有以は機嫌良さそうにふんふんと笑い、自身を指さしながら彼女に近付いていった。
「知ってる知ってる? わたしもユイっていうんだよ」
「ハイ、存じてます、東馬有以さん!」
火群結依です、よろしくお願いします――と、結依は瞳をきらきらさせて東馬有以に応えている。戦士としての顔とは違う、結依のもう一つの表情――アイドル好きの女の子としての一面があらわになっているように華子には思えた。
「わたしとも一曲踊ってみる?」
「! ぜひお願いします!」
食らいつくような勢いで結依は答えた。きっと、有以の方から水を向けられなくても、彼女は自らそれを願い出ていただろうことは想像に難くなかった。
「みんな、いい? 一曲だけスタジオ使うねー」
本店の選抜メンバーに言われ、異を唱える者などいるはずがない。有以は荷物を置くと、着替えもしないまま、足元だけレッスンシューズに履き替えて結依と向かい合った。
華子は食い入るように二人の様子を見ていた。ここからどうなるのか楽しみだった。研究生達に微塵も後れを取らない結依の実力なら、ひょっとすると、選抜の東馬有以さえも圧倒してしまうのではないか――。
「ユイちゃんユイちゃん、何踊りたい?」
「本店の曲なら、なんでも」
「あ、自信満々なんだ? じゃあ行くよ、『
有以がぱちんと指を鳴らすが早いか、音響機器のAIが瞬時に指示を読み取り、楽曲がスタートする。K-POPを思わせるその激しいダンスナンバーは、まさに先日リリースされたばかりの彼女のセンター曲だ。
背徳感を煽るような扇情的なメロディに合わせ、二人は並んで動き出し――
「えっ――?」
目の前で繰り広げられる光景に、華子は目を見張った。
流れるような腕の動きも、腰の振りも。ファッションモデルを連想させる足の刻みも。
同じ振りを同じように踊っているはずなのに――
結依の姿が、全く目に映らない――!
「Don't you touch me, Tamer, 私だけ――」
「Don't you touch me, Tamer, 相手にしてくれない――」
確かに結依はその振りを踊れてはいる。踊れてはいるが――
「Don't you touch me, Tamer, 私だって――」
隣に立つ有以と比べれば、迫力の差は一目瞭然だった。
「Don't you touch me, Tamer, 調教されたいの――」
今や、結依の表情は東馬有以に追いつこうと必死だった。一つ振りを決めるたびに、一つ歌詞を紡ぐたびに、彼女の呼吸が乱れていくのがわかる。
つい先程まで、研究生達に混じって余裕でレッスンをこなしていたのに――
東馬有以と並んだ瞬間、たった一曲でその勢いは殺されてしまっていた。まるでメッキを剥がされてしまったかのように――。
「そんな……ユイちゃん……」
華子にはこの光景をどう捉えていいのかわからなかった。
曲が終わった瞬間、結依は肩を上下させながら東馬有以に懇願していた。
「もう一度……もう一度お願いします!」
「いいよ。でも同じ曲じゃ飽きちゃう。行けるよね、『君と
有以の音声入力で新たな曲が流れ始める。だが、何曲踊っても――
「ユイさんっ、もう一曲!」
「それじゃあ――『情熱の
何曲歌っても――
「もう一曲、お願いしますっ!」
「いいよ、『ロマンス黄色信号』!」
何度繰り返しても、結依のパフォーマンスは到底、東馬有以に追いつきそうになかった。
有以の華奢な身体が躍動するたび、漆黒の
鋭く床を蹴るステップは
同じ振り付けを踊っていても、全身から伝わる
何より印象的なのは、必死の形相でプロに食らいつこうとする結依に対し、当の有以は終始、涼しい笑顔で歌い踊っていることだった。暇潰しのカラオケか何かにでも興じているかのように――。
駄目だ。小手先の技術の問題じゃない。腕そのものが違う。まるで付いていけない。敵わない……!
「桐山君はわかってたの? ユイちゃんとプロのアイドルの間に、こんなにも差があるなんて……」
華子が小声で言うと、和希はフンと鼻を鳴らした。
「プロって言ってもピンキリだからさ。アイツは……東馬有以は、特別なんだよ」
彼の声は、畏怖でも焦燥でもない、淡々とした諦めに満ちているように聞こえた。
「今、全国の支店の正規メンバーは約一千人。総選挙で
和希の言葉に華子はごくりと息を呑んだ。眼前では、その怪物の勢いに圧倒され、結依が力なく床に膝を付くところだった。
曲が終わり、ふうっと東馬有以が息を吐く。あれほど激しく歌い踊りながら、その額には汗一つ光っていなかった。
「ありがと。息抜きできて楽しかったよ」
「そんな……お願いします、もっと一緒に!」
汗まみれの目の端から熱い炎を
「なんで? わたしに勝てなくても大丈夫だよ。ユイちゃんは十分凄いよ」
床に両手を付いて、はあはあと苦しそうに息をする結依に、有以がそっと手を差し伸べる。
「サマー・アイドライズだっけ? 部活の大会でなら、そこそこ無双できちゃうと思うよ。頑張ってね」
「そこそこ……」
結依の身体は震えていた。彼女は差し出された手を取らず、自力で立ち上がって、
「そこそこじゃダメなんです。プロになるだけでも足りない。わたしも、ユイさんと同じ、エイトミリオンのトップを目指してるんです!」
「……エイトミリオンの、トップ?」
その言葉に、有以の眉がぴくりと動いたように見えた。
「総選挙で一位をとりたいってこと?」
静かなその問い返しに結依が頷くと、有以は「ふぅん……」と声に出してから、彼女の目を覗き込んで言った。
「五億円。……って何だかわかる? 今のわたしと
しいんと静まり返ったスタジオに、有以の声だけが凛と響く。
「マユさんのもとで五年間走り続けて、やっと選抜に定着できるところまで来た。それでもまだ、
凍てつくような笑みをにこりと一つ浮かべて、有以は言う。
「教えてよ、ユイちゃん」
その目には、遊びではない青い炎の色が宿っていた。
「それだけの差を毎年思い知らされながら、それでも目指すわたしの『一位』と……劇場に立ったこともないあなたが、憧れで口にする『一位』の……一体何が同じだっていうのかな?」
ぞくり、とスタジオ全体が凍りついたようだった。華子も和希も、白衣の男性も、そしてもちろん研究生の女の子達も、誰一人言葉を発することはできなかった。
そんな中で、ただ一人、結依だけが、臆せず口を開いた。
「ミレイちゃんも戦ってた。高い壁から逃げずに」
「誰? それ」
有以は自分の口元に指を当ててから、「あ」と閃いたような顔をした。
「思い出した。せっかく選抜入りしたのに、何も結果残せないで消えちゃった子だ。……あれ、確か亡くなったんだよね? あの子」
びくり、と結依の肩が震える。
「まあ、亡くなった人のことを悪く言うのはイヤだけど……病気のことがなくても、きっとあの子、選抜には戻ってこれなかったと思うよ。わたしも一度だけ一緒に歌ったことあるけど――何の覇気も感じなかったもん」
有以のあまりの口ぶりに、華子は心臓を鷲掴みにされたようなショックを覚えていた。なぜ、この人は、こんなことを――。
「きっとあの子、選抜に入れただけで満足しちゃったんだよね。本気で上を目指す気なんてなかったんだよ。エイトミリオンに入ったのも、どうせ、子役上がりのキャリアで下駄を履かせてもらえるからってだけで――」
「違う!」
瞬間、燃えるような絶叫とともに、結依は相手の胸倉に掴みかかっていた。激しく有以の身体を揺さぶり、灼熱の少女が吼える。
「ミレイちゃんの悪口だけは許せない! 取り消せッ!」
「わたしの言葉を否定したかったら……力ずくで倒してみなよ」
結依の腕をすいっと捻り上げて、容易く戒めから逃れると、有以はひらりと身を
「――『
彼女の声に続き、たちまち音響機器から新たなメロディが溢れ出す。これは――
「
和希が呟くのと同時に、結依の目の色が、かっと燃え盛る炎の赤に変わった。
「君がどこに居ようとも――」
「この心に届く声――」
息つく間もなく二人の歌唱が始まる。レッスンの域を超えた私闘の炎を噴き上げて。
「聞こえたならまっすぐ駆け付ける――」
「風が呼ぶその場所へ――」
華子の目には確かに見えた。結依の小さな背中から立ち上る怒りの業火が。
激しく腕を振り上げ、素早いターンの影を引き、スタジオ全周に炎を振りまいて結依は歌い踊る。誰が相手でも決して譲りたくないであろうその曲を。全力を超えた全身全霊を込めて。
「……ユイちゃん」
今の彼女がどんな表情をしているのか、考えるのも恐ろしかった。あの可憐な少女がひとたび怒りのスイッチを入れられればどうなるか、華子はよく知っている。大切な人を侮辱された怒り――反論できない故人の名誉を踏みにじられた怒り。全ての感情が灼熱の渦に姿を変え、東馬有以を飲み込もうとしている!
が――。
「どれだけ時を経ようとも――君の風を忘れない――」
サビに入った瞬間、東馬有以は微塵も動じる様子なくステップを踏み、美しい歌声を張り上げていた。鋭く地を蹴る
「ッ……!」
「そんなんじゃダメ、ダメ。ユイちゃんのダンスは不器用で強引で……ただ醜いだけ」
張り裂けそうな胸を押さえて、華子は二人の戦いを見守る。次の歌唱に入る直前、結依の唇が小さく、ミレイちゃん、と動いたように見えた。
一瞬閉じた瞳を見開き、結依は、有以と同時に
「目の色が変わった」
「えっ?」
和希の言葉に華子はどきりとした。彼のレベルでなければわからない何か。結依のパフォーマンスが――その身に宿るオーラが、普段の結依でない何かに変わった……?
灼熱の炎に代わって噴き上がる吹雪。大河の流れをも凍てつかせる冷気の風が、結依の全身から立ち上り、雪崩と化して襲いかかる!
しかし、その瞬間――
「何それ?」
今度は東馬有以こそが烈火の炎熱を纏って、結依の吹雪を溶かし尽くした。
余裕の調子でステップを踏みながら、有以が歌唱を放棄して首をかしげる。
「どうしてわからないのかな? ミレイちゃん本人でも物足りないって言ってるのに、素人のコピーなんかお呼びじゃないんだって」
「くっ……ああぁっ!」
灼熱を超えた紅蓮の猛火に身を焼かれ、結依は必死に
「誰か……止めてあげようよ……」
研究生の女の子達の怯えた声が、華子の鼓膜を震わせた。
「あの子、あたし達よりずっと本気なのはわかる。わかるけど……」
「アマチュアの大会でも勝てないのに、ユイさんに敵うわけないじゃない……!」
曲が終わったとき、結依の小さな身体はどさりとスタジオの床に倒れ込んだ。
「ユイちゃん!」
壮絶な空気に気圧され、華子は結依に駆け寄ってあげることさえできなかった。
「まだ……!」
結依は気を失ってはいなかった。その手が力なく空を掴み、その目はまっすぐ有以を睨みつけている。
有以は彼女を見下ろし、再び口元に指を当てて、うーん、と考えるそぶりを見せてから言った。
「まあ、そんなに入りたいなら入ったらいいんじゃない? エイトミリオン」
「っ……!」
「ハンディキャップのことさえどうにかできれば、オーディションはギリギリ通れるでしょ。子役のキャリアと見た目の可愛さで。それで、公演と握手会を自分なりに楽しんで、最終順位五百位くらいでやりきった感出して卒業したらいいよ。満足でしょ?」
「ちがう……わたし……トップになるの! ミレイちゃんの代わりに!」
魂の底から絞り出すような結依の言葉を、 有以はくすりと笑って切って捨てた。
「無理無理。
ひらひらと手を振ってきびすを返した有以に、結依が最後の炎を振り絞って追い
「逃げるな……まだ……話は終わってない!」
「わたしとお話したかったら、いつでも握手会に遊びに来て。歓迎するよ、お客様」
東馬有以はもう振り返らなかった。入口の近くで羽生マユと二言三言何かを話してから、彼女は皆に会釈して、雲の上を行くような軽い足取りでスタジオを出て行った。
入れ替わるように、羽生マユがそっと結依のもとに近付き、そっとしゃがみこんでその手を取った。
「これが今のあなたの立ち位置。力のない者には、夢を語ることも、故人の無念を晴らすこともできない」
華子達の想像も及ばない世界で戦い抜いてきた伝説のアイドルは、静かに、一言ずつ噛み締めるようにそう告げた。
「どうする? ユイちゃん。あなたはどうなりたいの?」
結依の目には血のような涙が溢れていた。羽生マユに身体を抱き寄せられ、嗚咽を上げて泣きながら、少女は震える唇ではっきりと意志を紡いだ。
「マユさん……。わたし、強くなりたい……! 誰にも負けないくらい強く……!」
そんな結依の頭を優しく撫でて、マユは言う。
「一番大事なのは、自分の戦う場所を間違わないこと。まずは日本一のスクールアイドルになりなさい。全てはそこからだよ」
涙と汗にまみれた顔を上げ、結依がこくりと頷く。強く、重く、熱い決意を宿した目で。
華子もまた、溢れる涙を拭ってマユの言葉を聞いていた。ふふっと結依に笑いかける往年のスターの瞳には、少女を優しく包み込む希望の光が宿っているように見えた。
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