2nd Single:グループ結成!

Track 01. マリナと結依

 敗北も挫折も知らないまま、みなとマリナは昨日まで生きてきた。

 トップに立つことは昔から得意だった。小学校でも中学校でも、誰もが自分の美貌と才覚の前にひれ伏し、ピラミッドの山裾やますそに加わることを喜ぶ。周りの子達が自分のバックに経営者の父の影を見ていることには途中から気付いていたが、マリナはそれすらもしたたかに利用してきた。

 高校に上がり、チアリーディング部の女王クイーンの座に就くことも、アメフト部の頂点ジョックと付き合うことも、彼女にとっては予定調和に過ぎなかった。自分が勝者の立場から退くことなど、日本が沈没するよりも有り得ないことだと思っていた。あの生意気な新入生に敗れて膝をつく、その瞬間までは――。


「これが皆の総意です、マリナさん。キャプテンを降りてください」


 今、チアリーディング部の部室スタジオでマリナの前に立ち塞がるのは、つい昨日まで自分を持て囃していたはずの後輩達。部の新二年生が一人も欠けることなく揃い、リーダーの子を中心に、ずらりと並んでマリナに敵意の視線を向けている。

 こんなことになるとは思わなかった。あの新入生――火群ほむら結依ゆいとの対決に敗れ、どんな顔で部室に顔を出せばいいのかという葛藤こそあったが、それでも自分の立場が揺らぐことなどマリナには想像もつかなかったのだ。


「……き、聞こえなかったわね。もう一度言ってくれる?」


 彼女が細い腕を組み、精一杯の威厳を保って言い返したその言葉は、世の人が「虚勢」と呼ぶものだったかもしれない。


「聞こえないワケないでしょ? あの一年生じゃあるまいし」


 二年生のリーダーの目は冷ややかだった。マリナが一瞬たじろいだその時、マリナの後ろに控えていた取り巻きサイドキックスの一人が、二年生の集団に向かって荒々しく声を上げた。


「アンタらね、そんなの許されるって思ってんの!? マリナを追い落とそうだなんて、そんな――」

「なんで許されないんですかぁ? あたし達はチア部の名誉を守ろうとしてるだけですよ」


 学年も、昨日までの階級差も意に介さぬ様子で、後輩は甘ったるく絡みつくような声で言い放った。その後ろの二年生達が、そして新入生達や残りの三年生達までもが、何かけがれたものを見るようなじとっとした視線をこちらに向けてくるのを見て、マリナは自分が何を敵に回しているのかを悟った。

 それは、かつて自分が味方に付けていたはずのもの。「民意」という名の数の暴力――。

 今や、マリナの味方をしてくれる者は、サイドキックスの中でも特に親しかった三人の友人だけ。マリナがちらりと周りを見渡してそのことを認識したとき、二年生のリーダーは彼女に一歩歩み寄り、室内の全員に聴こえる声で言ってきた。


「あんなギークに負けた上、大勢の生徒の前でみっともない姿を晒したアナタは、既に部の恥なんですよ」

「……ッ!」


 マリナは悔しさに顔面がかっと熱くなるのを感じた。この空間に働く力学りきがくの流れが、彼女には丁寧に作図された矢印ベクトルのようにハッキリと見えてしまっていた。

 長年、その力を司る側にいたマリナには、否が応でも理解できてしまうのだ。後輩の言っていることが正論かそうでないかは関係ない。この力場のもとでは、ただ唯一、「民意」がそうと決めた結論だけが絶対の正義たりえるのだと。


「……勝手にすれば!」


 急いできびすを返し、部室を飛び出したのは、誰にも涙を見せたくなかったから。


「待ってよ、マリナ!」


 二年生達の嘲笑の声も、自分を追ってくる友人達の足音も振り払うように、マリナはリノリウムの廊下を走った。ワックスでピカピカの床に自分の涙がぽたりと落ちるのが、なぜか妙に鮮明に感じられた。

 こんなことになるなんて――。

 今日、部室のドアを開けるまで、彼女は信じていた。部の皆はきっと、屈辱を味わった自分を励ましてくれて。勝負の約束に沿ってアイドル部のスタジオを返したところで、所詮、おたくギークはスクールカーストの最下層で、チアが最上層という区分に影響はなくて。部外から少しばかり後ろ指を差されるようなことがあっても、結局、自分の立場がそうそう脅かされることなどないのだと。昨日までと同じ日々がこれからも続くのだと。

 それなのに。支配していたはずの後輩に手を噛まれるなんて、女王クイーンの自分が、こんな、こんな――。


 混乱と屈辱で思考をぐちゃぐちゃにされた彼女は、廊下の曲がり角の向こうから歩いてくる小柄な人影に気付けなかった。気付いたときには、彼女は派手に相手とぶつかり、硬い床に尻餅を付いていた。痛みよりも先に「ゴメン」と声が出て、それからやっと、涙に濡れた彼女の視界は、同じように廊下に転倒した相手の姿を捉えた。


「あなた――」

「あ、マリナさんっ」


 見紛うはずもない。目の前でどこか照れくさそうに赤い眼鏡グラスの位置を直し、彼女の名を呼んできたその相手こそ、マリナを負かした張本人、火群結依だったのだ。

 そこへ友人達が追いついてきて、口々に「大丈夫?」と声を掛けてくる。この三人が後輩の仕組んだ下克上に乗らず自分の味方をしてくれていることに、マリナは今更ながら目頭が熱くなりかけたが、それより何より今はこのにくたらしい新入生の前で涙を隠すことが先決だった。

 だが、結依は眼鏡グラスのレンズ越しにじっとマリナを見たかと思うと、きょとんとした顔で問うてきたのだ。


「マリナさん、どうしたんですか。泣いてます?」

「な、泣いてるわけないでしょ! バカにしないでよ」


 ほとんど無意識の内に言い返しながら、マリナは内心、自分は何を言っているのかと思った。こんなの、泣いていたことを逆に白状しているようなものじゃないか。


「そうですか……。廊下は走っちゃダメですよ。マユさんじゃないんだから」

「はぁ?」


 結依は何でもないように立ち上がってスカートの皺を直したかと思うと、マリナにぺこりと会釈して平然と横を通り過ぎた。随分と機嫌良さそうに、「渡り廊下をダッシュして……」とか何とか、彼女の知らない歌を口ずさみながら。

 その様子が無性に苛立たしくて、マリナはつい結依を目で追ってしまう。チアのスタジオの手前には、つい昨日まで彼女らが占拠していたアイドル部のスタジオがあった。結依はそのドアの前で立ち止まると、マリナの視線に気付いたのか、ポケットから取り出したカードキーを見せて、にこっと笑いかけてきた。


「これ、さっきチアの二年生の方達が返してくれたんです。ちゃんと約束守ってもらえてよかったです。さすが、マリナさんが率いるチアリーディング部ですね」


 結依の言葉が厭味いやみだとは不思議と感じなかった。対決の場で向き合った時とはまるで別人のように、その瞳は悪意を知らない無邪気さに溢れ、その笑みはどこまでも柔らかく自然なものに見えてしまったから。

 ……どうして。どうして、自分がこんな目に遭っているのに、コイツは――!


「ちょっとアンタ、マリナが今どんな目に遭ってるか知ってて言ってるわけ!?」

「調子に乗るんじゃないわよ、ギークのくせに」


 友人達が結依に向かって荒らげる声さえも、マリナの心に追い打ちをかけるには十分で。

 それでも、この生意気な新入生に俯いた姿を見せるのは耐えられず、彼女はありったけの戦意を振り絞って結依を睨みつけた。だが、結依は微笑の細波さざなみを含んだ視線でマリナをふわりと受け流すと、傍の三人に向かって、笑みを崩さないまま言ってのけた。


「先輩方は、今度ちゃんと華子はなこさんに謝ってくださいね。アイドルが衣装をけがされるのは、人生を汚されるにも等しい屈辱ですから」


 ぞくりと心臓を射抜くような言葉だけを残し、新入生はそのままアイドル部のスタジオに消えていく。


「……あの子、なんかコワイって」


 友人の言葉を耳に捉えながら、マリナは冷たい床に震える拳を叩きつけていた。「敵わない」――胸中を侵掠しんりゃくするその一言を、必死に自分の中から追い出すように。


「……このままじゃ、終われない……!」



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 ――そう、このままで。このままで終わることなどできないのだ。突然やって来て自分をこんな目に遭わせた生意気な新入生に、そしてギークの分際で調子に乗っているアイドル部という存在そのものに、目にもの見せてやるまでは。


「目にもの見せてやるのはいいんだけど……」

「覗き見とか格好良くないよ、マリナ」

「うるさいわね。あのユイって子の弱点を暴いて、一泡吹かせてやらなきゃ気が済まないのよ」


 化粧室で見た目を整え直したあと、マリナは三人の友人とともに部室棟の裏手に回り、アイドル部のスタジオの偵察を試みていた。三人はマリナのことを呆れたような目で見てくるが、取り巻きのほとんどが彼女のもとを去ってしまった今、最も親しかった三人がこうして傍に残ってくれたことは彼女にとって最後の希望にも等しい喜びでもあった。

 マリナ達が窓から覗き込むスタジオの中では、結依と華子が長テーブルを挟んで座り、裁縫仕事に興じているようだった。もっとも、主に手を動かしているのは華子で、結依は布を持って広げるなどの手伝いをしているだけだ。

 華子の手元で縫い上げられていくそれは、ひらひらのレースが付いたアイドルのステージ衣装のように見えた。もっさりしたヘアスタイルに地味なメイクの華子が、結依の前で一人前に楽しそうな笑顔を見せているのが、マリナには意味もなく腹立たしかった。

 マリナの横で、友人の一人が何だか気まずそうな顔になって、「アレはやりすぎちゃったかな……」などと呟いている。マリナが命じたわけではなかったが、この三人が華子のロッカーの衣装をボロボロにし、結依の怒りを買ったことは当然マリナも把握していた。

 彼女にだって一応、その所業を申し訳ないと思う倫理観くらいはある。プライドが邪魔をして謝れないだけだ。ギークに頭を下げるなんて、カースト上位者のすることではない。


「ユイちゃんの決めてる進路って、やっぱりプロのアイドルになることなの?」


 窓越しに華子の声が聴こえてくる。マリナは衣装の件の罪悪感を一旦頭の隅に追いやり、その会話を聴き取ることに集中しようとした。自分の進路はずっと前から決まっている――と結依が言い切ったときの、あの飄々とした自信に満ちた目が、彼女も気になっていたのだ。

 結依は、両手で衣装の布を保持したまま、こくんと華子に向かって頷いていた。


「なれるよ、ユイちゃんなら。あんなに凄いパフォーマンスができるんだもん」

「華子さん。プロになるだけじゃダメです。……わたし、ある人と約束したんです。エイトミリオンのトップに立つって」

「え……?」


 さらっと間違いを訂正するような結依の言葉に、華子の針を動かす手が止まった。


「エイトミリオンの……トップ……!?」


 華子が丸い目を見開いている。それがどれほど途方もない発言なのかは、アイドルになど興味のないマリナにもよくわかった。

 何しろ、現在の日本で秋葉原エイトミリオンにまつわる話題をシャットアウトして過ごすことは不可能に近い。国内各地の支部のどこかが毎週何かしらの新曲を世に送り出しているし、総勢一千人を下らない現役メンバーが総出で覇権を競う総選挙は、今や、クール・ジャパンを代表する全世界の関心事となっているからだ。


「……あの子、バカじゃないの。エイトミリオンになんか行けるわけないじゃん」


 友人が呟いた一言は、マリナの感想とぴったり重なるものだった。

 マリナが浅い知識で知る限りでは、地方支部のオーディションに合格して研究生となった者の中でも、正規生に昇格して本店の歌唱メンバーに選ばれるのはごく一握りの天才だけだという。まして、総選挙の上位ともなれば、計り知れない才能と努力と運を兼ね備えた怪物達の独擅場どくせんじょうであろうことは容易に想像がつく。

 それを、言うに事欠いて、あの結依がトップを目指すだと……? ただでさえ重いハンディキャップを背負った彼女が、どうやって……?


「でも、普通のオーディションじゃ、書類審査をなかなか通らせてもらえないんですよね」


 奇しくもマリナの疑問に答えるかのように、結依は自分の耳を指差しながらそう言った。華子が暗い表情に転じるよりも早く、「だからね」と彼女は矢継ぎ早に言葉を続ける。


「まずはスクールアイドルでトップになることに決めたんです。大会で……アイドライズで優勝したら、エイトミリオングループのドラフト会議に呼んでもらえますから」


 結依は淀みない口調ですらすらと言ってのけたが、向かいの華子は裁縫の手を止めたまま、ぽかんとした顔で固まっているように見えた。まるで彼女の方が耳が聴こえていないかのようだった。


「華子さん?」

「……ユイちゃん、アイドライズで優勝……って。本気なの……?」

「わたしは最初からずっと本気ですよ。華子さんも一緒に頑張ってくれなきゃっ」


 あくまでポジティブな微笑みを絶やさない結依と、ひたすら戸惑っている様子の華子。マリナが傍から見ていても、二人の熱量は明らかに噛み合っていないように感じた。そして……ギークの華子なんかに同感したくはないが、誰が聞いたって明らかに、華子の反応の方が自然であるに違いないとマリナは思った。

 アイドライズとやらがどんな規模の大会かは知らないが、普通に考えて、ダサい子の代表みたいな三年生と、耳の聴こえない一年生のたった二人で、どこまで戦えるというのだ。予選通過もままならないのではないか。

 案の定、華子はやっぱり暗い顔になって、結依に申し訳なさそうな視線を向けていた。


「ユイちゃんの気持ちはわかったけど、ウチの部じゃそんなの無理だよ……。たった二人じゃ団体戦のエントリーだってできないし……」

「そうなんですよね……。ところで、外の皆さん、コソコソしてないで入ってきたらどうですか?」


 結依が突然窓の方へ振り向いてきたので、マリナはびくりと身体を震わせてしまった。バクバクと鳴る心臓を思わず片手で押さえていると、結依はすっと椅子から立ち上がって窓の方へ近付いてくる。逃げ出すのもみっともなくて、マリナが友人達と一緒にその場に留まっていると、結依の細い手がからりと音を立てて窓を開け放った。

 

「……な、何よ」

「何よ、はこっちのセリフなんですけどね……。元気そうですね、皆さん」

「元気なわけ……ないでしょ」


 マリナは、無意識に言いかけたその言葉を結局最後まで言い切ってしまった。この新入生と向き合うと、どうにも調子が狂う。この自分が元気そうだと? こんなに心をズタズタにされて、元気などであるはずがないのに。

 結依は相変わらず微笑を湛えて立っているだけだったが、マリナの友人達はこの小柄な少女の様子に気圧けおされて、文句の一つも言えないようだった。


「……あなた、なんでそんなに楽観的でいられるのよ。チア部は、トップがあたしから二年の子に変わっただけで、ギークを見下すのをやめたわけじゃないのよ。あなたも華子ちゃんも、これからずっと、この学校で快適な居場所なんてないのよ!?」


 堰を切ったようにマリナがぶつけた言葉にも、結依は「それがどうしたの?」とでも言わんばかりに首を小さく傾げただけ。その態度がますますマリナの心に火を点けた。なんなのだ、この子は。どうしてこんなに、何事にも動じずに居られるのだ――。


「あなた、一体何なのよ。悩みとか無いわけ!?」

「ありますよ、悩みなら。春の大会がすぐにあるんですけど、このままじゃメンバーが足りないんです。夏の大会なら個人戦もありますけど、やっぱりスクールアイドルっていったら団体戦じゃないですか」


 じゃないですか、と言われても、マリナにはそんなの知ったことではない。この子は何の話をしているのだ、と彼女が呆れかけたところで、結依はふいに窓縁に両肘を乗せて、わざとらしく溜息をついてきた。


「あーあ、誰か入ってくれないかなあ。チアリーディング部をクビになった人とか……」


 流し目に微笑を乗せて結依が言ってきたその一言で、マリナはやっと彼女の意図を悟った。同時に、斜め上すぎるその話に、全身が、本能が、猛烈に反発した。


「バカじゃないの!? 入るワケないでしょ! 大体、あなたね、バカの一つ覚えみたいにアイドル、アイドルって……本気でトップアイドルになれるなんて思ってるの!?」

「さあ? わからないですけど、なれるって思わなきゃ何者にもなれませんよ。マリナさんは何になれるんですか?」

「……!」


 どこまでも悪意を知らないような結依の言葉に、何も言い返す言葉が思いつかず、マリナは思わずその場から逃げ出していた。友人達が名を呼びながら彼女を追ってくる。マリナにはもう、自分が冷静に何かを考えられる気がしなかった。

 マリナさんは何になれるんですか――。その問いだけが、走る彼女の頭の中で何度も何度も渦巻いていた。

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