Track 04. 灼熱のユイ

 事が起こったのは入学式の翌日の昼休み、華子はなこが午前中の授業の教科書を仕舞おうとロッカーを開けたときだった。

 教室前の廊下狭しと立ち並ぶロッカー。進級に伴って新たに割り当てられたばかりの場所。彼女の指紋を読み取って無機質な扉が開いた直後、どん、と華子の背中に乱暴にぶつかってくる者がいた。

 ひゃっ、と小さな声を出して華子がよろめいた瞬間、「あーっ」とわざとらしい女子の声。教科書を取り落とさないように必死にバランスを取った華子の視界に、その一秒後の出来事はスローモーションのように鮮明に刻み付けられた。髪を派手な色に染めた女子生徒が、手にしていた紙カップの中の飲料を華子のロッカーの中に向かってぶちまけたのだ。


「あ……っ!」


 華子がその女子を押しのけてロッカーを覗き込んだ時には、既に遅く。

 アイドル部の練習スタジオをチアリーディング部に接収されて以降、やむなく個人用ロッカーに保管することにしていた、なけなしのステージ衣装。デザインから縫製まで、拙いながらにこだわりを持って自ら手がけたその衣装を、コーラか何かの液体が狙い澄ましたようにびしょ濡れにしている。

 あまりに突然の出来事に、冷たい魔物の手で心を鷲掴みにされたような衝撃を覚えて華子が振り向くと――


「ごめんねぇー、華子ちゃん。ついうっかりつまずいちゃって」


 同じ三年生の制服を着た三人の女子が、ニヤニヤと品の悪い笑いを浮かべながら彼女の前に立っていた。

 彼女らの顔と名前に華子は覚えがあった。直接話したことは無いに等しいが、マリナの取り巻きサイドキックスとしてスクールカーストの上層に位置している三人組だ。


「ホントにごめんね。衣装はあたし達が洗ってあげるから――」

「あ、ちょっと!」


 華子が止めようとするより早く、三人組の一人がロッカーの中から衣装を引っ張り出す。返して、と華子の脳が声帯に命じたはずの言葉は全く声にならなかった。それからのことは、華子が瞬時に思い描いた最悪の展開の通りだった。


「あっ、手が滑っちゃった」


 廊下に投げ出されたコーラびたしの衣装を、女子の一人の上履きが容赦なく踏みつける。残りの二人は「ごめんねー」と笑いながら見ているばかり。周囲の生徒が彼女らを避けるようにして遠巻きに通り過ぎていくのも、もう華子にはわかりきったことだった。

 マリナ本人はこの場に姿を現さない。現すはずがない。学園中の羨望を一手に集める絶対女王は、いついかなる時でも自らの手を汚さない存在でなければならないからだ。女王クイーン自身に代わって叛逆はんぎゃく者に罰を下すのが、目の前の彼女ら、サイドキックスの面々の仕事というわけだ――。


「過失だからね、許してね、華子ちゃん」

「ちゃんと洗濯して返してあげるって」


 ぐしゃぐしゃになった衣装をそのまま持ち去ろうとする三人。そこでやっと華子の声帯が思い通りに震えた。


「持ってかないで!」


 思いのほか大きな声が出てしまって、華子は思わず口元を押さえる。カースト上位者達の冷ややかな目が、嘲笑の色を保ったまま彼女を見返してくる。


「それ、大事な衣装だから……」


 涙声になりながら華子が続けた言葉は、「はぁ?」と思い切り彼女を見下す声に遮られた。


「笑える。ゴミトラッシュが何か言ってるわ」

「ブスがダサい衣装で踊って誰が喜ぶってのよ」

「そんなに返してほしいなら返してあげるって!」


 ぶん、と衣装を持つ手が振りかぶられたかと思うと、華子の顔面にそれが投げつけられる。教科書を持ったままの手では受け止めきれず、衣装は華子の足元にばさりと虚しく落ちた。

 溢れる涙を片手の袖で拭って、華子が衣装を拾い上げようとしたとき――


「きゃはは。アイドル部、終了ー」


 背中を向けて立ち去ろうとする三人組の、笑いを含んだその台詞を、彼女の耳は聞き逃さなかった。一人目、だって……?


「ま、待って、まさかユイちゃんにも――」


 その可能性が稲妻のように華子の脳裏で弾け、彼女は取りすがるように声を上げていた。それだけは許してはならないと思った。あの、か弱い結依ゆいが――耳の聴こえない結依が、イジメの標的にされるようなことがあっては……!

 大事な衣装をも置いて華子が女子達を追いかけようとした、その刹那。


「卑怯者!」


 廊下を吹き抜ける、一陣の熱風。


「――!?」


 あるいは、それは錯覚だったろうか――

 巨大な溶鉱炉の扉を開け放ったかのような凄まじい熱気が、華子の背中を焦がし、三人組の足裏を鑞接ろうせつの如くその場に引きとどめたのは。


「許さない……!」


 少女の声が空気を震わせる。今の今まで卑劣に自分をあざ笑っていた三人組が、その声の主を振り返った瞬間、ぞくりと戦慄の表情を浮かべるのを華子は確かに見た。

 華子がつられて振り向いた先には、噴き上がる激怒の炎熱を身に纏って、つかつかと早足に歩み寄ってくる小柄な影。真紅のフレームの奥に光るつぶらな瞳が、悪を射竦いすくめる紅蓮の猛火に燃えている。


「……ユイちゃん」


 この子がか弱いなんて、どうして思ったのだろう。華子は知らぬ間に一歩後ずさっていた。目の前に立つ少女の迫力は、まるで、ごうと鳴る炎の竜巻のようで――。

 三人組が何か言葉を発するよりも先に、結依は気勢激しく口を開いていた。


「マリナさんに伝えたら? お望みならわたしが対バンしてあげるって」


 結依の勢いに三人組が押し黙ったのは、ものの数秒。

 皮肉にも、マリナの名前が出たことで、取り巻きサイドキックス達は少しばかり気を大きくしたようだった。


「……マリナと対バン? あなたが?」

「あ、あはは、無理しちゃダメよ。一年の子に聞いたけど、あなた、耳、聴こえてないんでしょ?」


 華子はその一言にハッとなった。彼女自身も身をもって知るように、女子の情報ネットワークの威力は凄まじいものがある。結依は恐らく、クラスでの自己紹介か何かで自分の聴覚の話をしたのだろうが、その話は早くもマリナのグループまで伝わっていたということか。

 だが、結依は毛ほどにも動じない様子で、「対決するんですか、しないんですか」と三人に詰め寄っている。


「ほ、ほら、障害チャレンジドの子をイジメたら世間様に怒られちゃうし?」

「心配要らないです。叩きのめすのはこっちですから」


 結依の言葉は不思議な響きを纏っていた。凛と張り詰めた雰囲気オーラの中に、下界の争いを遥か高みから見下ろす余裕をも交えたような。


「それとも、ハンデが足りないなら目も閉じて歌いましょうか?」


 多勢に無勢を意にも介さず、微笑すら浮かべて言い放つ結依。三人には最早、彼女の挑発に反撃する言葉も思いつかないようだった。


「……ど、どうなっても知らないわよ!」


 捨て台詞を置いて足早に去ってゆく三人の背中を見送り、ふうっと可愛く息をいたかと思うと、結依はふいに華子に向き直ってきた。

 結依の纏う雰囲気が明らかに変わったのがわかる。小柄な後輩は、数秒前までとは打って変わって、泣きそうな顔になって華子を見上げていた。


「華子さん、ごめんなさい。わたし……思いつかなかったんです。あの人達が、わたしじゃなく華子さんを狙ってくるなんて」

「そ、そんな。ユイちゃんが謝ることなんて――」


 華子の前でふるふると首を振り、結依は言った。


「責任はちゃんと取ります。……わたしがマリナさんに勝てなかったら、遠慮なくアイドル部から追い出してくださいね」

「そんなこと――」


 すっときびすを返して歩きだす後輩の背中に、華子はもう何も言えなかった。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 そして、放課後――。

 学園の中庭パティオは黒山の人だかりと化していた。男女の生徒達が喧騒をなして取り囲むのは、パティオ中央の常設ステージ。学祭などのイベントの際には、軽音楽部やチアリーディング部のパフォーマンスの舞台となる場所だ。

 その壇上に今、中心センターを挟む形で、みなとマリナと火群ほむら結依が睨み合っている。

 マリナは余裕綽々しゃくしゃくといった様子で、勝気な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。白地に鮮やかなブルーが目立つチアのユニフォーム。両手にはチアリーダーの証たる玉房ポンポン。対する結依はピンクのカーディガンを羽織った制服姿のまま、眼鏡グラスのレンズ越しに静謐せいひつな立ち姿でマリナを見上げている。

 華子は目立たないように木陰に立ち、他の生徒達の肩越しに壇上の二人を見つめていた。野次馬ギャラリーの間に飛び交うのは、女王クイーンの圧勝を信じ、愚かな新入生の無謀を咎める下世話な声ばかり。四面楚歌の戦場に立つ結依の心中しんちゅうを思うと、華子は自分自身が千尋せんじんの谷の崖っぷちに立たされているかのような心細さを覚えずにはいられなかった。


「ユイちゃん……だっけ」


 ポンポンを持つ両手を腰に当てたまま、マリナが口を開いた。


「もう一回だけ聞いてあげるわよ。アイドル部なんてダサイ部活に入るのはやめて、チアに来る気はない? アメフトのカッコイイ男の子達とだって釣り合う身分になれるし、将来の進路にも有利になるわよ」


 どんなに蠱惑こわく的な勧誘をしたところで、結依が今さら翻意して「宜しくお願いします、先輩」なんて言うはずがないのはマリナにもわかっているだろう。これは前哨戦マウンティングの一環なのだ。不良が睨みメンチを切りあうのと同じ、野蛮な戦意高揚の儀式――。


「あいにく、わたしの進路はずっと前から決まってるんです」

「あぁ、そう。残念ね」


 マリナが仰々しい仕草でパチンと指を鳴らした瞬間、周囲にけたたましい音楽が鳴り響き始めた。ステージに備え付けられた仮想バーチャル全域サラウンド音響システム。ステージにそれほど近くない位置に立つ華子にもその迫力が伝わってくる。聴覚を震わすだけではない、地鳴りのような振動をも伴って全身を揺らしてくる爆音の洪水。

 それはチアリーディングでよく耳にする音楽ナンバーだった。周囲の生徒達がオオッと声を上げ、マリナの名を呼ぶ歓声がその場を埋め尽くす。

 ただ一人、その爆音と歓声を聴いていない者――火群結依は、ステージで悠然とマリナに向き合ったまま、真紅の眼鏡グラスをそっと外して、制服ブレザーの裏に仕舞い込んでいた。その燃える瞳が、「いつでもどうぞ」と語っている。

 ふふんと笑って、マリナが王者の気位きぐらいを象徴する一瞥いちべつを一同にれたかと思うと――

 音楽に合わせ、マリナの身体は宙に舞った。しなやかに躍動する細い肉体が、爆音の支配するステージの上でスピーディに跳び跳ね、くるくると回って見る者の目に残影を残す。放り上げた二つのポンポンが空に軌道を描いた次の瞬間、彼女が壇上で披露した鮮やかな後方バク転が大歓声の花を咲かせた。

 万物のことわりに従って地面に引かれるポンポンを、見もせずにキャッチし、マリナは更にステップを踏み込む。

 男女問わず溢れ返る歓声の渦の中、華子は汗の滲む拳を強く握っていた。悔しいが――湊マリナは、決して、口先の処世術だけで女王の座に就いているわけではない。彼女のチアの実力は本物だった。流れる音楽と完全に調和シンクロした女王クイーンの動きが、息もつかせぬ勢いで万人の目を釘付けにする。

 曲の一番ファースト・バースの区切りに合わせて、ぴしりと見得を切り、マリナは結依をまっすぐ指差す。


「どう? ユイちゃん。スクールアイドルなんてお遊戯じゃ、こんな真似は――」


 が、マリナの言葉はそこで止まった。曲が二番セカンド・バースに入るタイミングを知っていたように――結依の身体が、鋭くステージを蹴って宙に舞ったのだ。


「なっ!?」


 目を見張るマリナの前で、結依の小柄な身体が音楽に合わせて跳び跳ね、鮮やかな残影を残す。華子は一瞬、自分が幻覚を見ているのかと思った。結依がステージ上に描く残像は、たった今、マリナが観衆を沸かせてみせた動きと全く同じ――。

 結依の次の動きムーブ後方バク転でこそなかったが、スカートの裾をふわりと浮かせ、その場で何度も回転してぴしりと見得を切った彼女の所作は、とても一朝一夕の鍛錬で身に付く領域のものではなかった。

 観衆はしいんと静まり返り、壇上の結依に注目している。この少女は一体何者なのかと。

 音楽はまだ鳴り続けている。だが――。


「もっと早くしますか?」

「く……!」


 華子には今見たばかりの光景があらゆる意味で信じられなかった。なぜ。なぜ結依は踊れるのだ。この爆音が全く聴こえていないはずなのに、なぜ――。


「なんで踊れるのか、って顔してますね、マリナさん」


 結依がそう言うのがはっきり聴こえた。図らずも、マリナも自分と同じ疑問の色を顔に浮かべていたらしい。いや、それは、この場にいる誰もがそうであるに違いなかった。


「曲が鳴り始めたときは、まだ補聴グラスをかけてましたから。曲名はグラスが教えてくれたんです。知ってる曲で助かりました」

「そんな。それを外してからは何もわからないはずでしょ!? なんで、なんで付いてこれるのよ!」

「なんでって言われても……。マリナさんは、途中でテンポを変えるようなイジワルはしないと思いましたから」


 唇の動きを読んででもいるのか、結依は淀みなく答えていた。その言葉の意味を理解するのには少し時間がかかった。この少女はこう言っているのだ。曲が始まるタイミングさえ認識できれば、あとは脳内で曲の流れを追い続けることくらい容易いと――。

 馬鹿な。そんなことができるものなのか。弱冠十五歳のこの少女に?


「……いいわ、ユイちゃん。レベルの違いってものを見せてあげる。本気でね」


 女王は流石に女王だった。落ち着きを取り戻したらしきマリナの瞳が、今までよりもギラついた色に変わった。再びパチンと指を鳴らし、瞬時に切り替わった曲名をマリナが高らかに告げる。それは、全世界にその名を知られたアメリカのポップスターの代表曲。チアリーディングにもガールズアイドルにもマッチする、高揚感に溢れた一曲!


「ワン、トゥ、スリー、フォー!」


 その曲の代名詞たる冒頭のカウントアップをマリナが歌い上げ、怒涛のパフォーマンスが始まる。先程の曲よりも遥かに激しいダンスの衝撃が、ステージを揺らし、観衆を揺らし、澄み渡る空までも揺らす。同時に結依も動き始めていた。壇上を激しく舞い踊りながら、彼女の可憐な声が、日本語訳された明るい歌詞を紡ぎ出す。

 マリナの名を叫ぶ観衆の声は、少しずつその数を減らしているように思えた。

 マリナのチアの仕上がりは確かに素晴らしかった。高校の部活のレベルなら、彼女に追随できる者はそうそう居ないだろう。だが、結依の弾けるような歌声とダンスは、そんな領域を遥かに超えていた。彼女の目が告げている。「」と――!

 気付けば周囲の空気は、マリナの優位を疑い、この見知らぬ少女の凄さにおののくものへと変わっていた。

 メロディは一切聴こえていないはずなのに、音程にもテンポにも寸分の狂いもない歌唱。歌詞の魅力を最大限に活かし、聴く者の感情を揺さぶる圧倒的な表現力。小柄な身体から繰り出されるエネルギッシュなダンス。スカートの危うさをも武器に変え、見る者全てを魅了する怒涛のアクション。そして、天をく炎の如く、観衆の心に火を点ける満面のアイドルスマイル。

 どうしてそこまで笑顔になれるのか。彼女は決して、満員の劇場でファンの歓声を浴びているわけではないのだ。彼女の前にあったのは、マリナの勝利を祈り、彼女を地に這わせようとする圧倒的な民意の壁。それなのに、どうして。どうして、あんなに純粋な笑顔を振りまけるのか――?


「何なの、あの子。ひょっとしてプロなの?」


 周囲の誰かが震える声で発したその言葉を、華子の耳は聴いた。


「なあ……まさか、『ユイちゃん』って」

「俺も思ってたんだよ。あの『ユイちゃん』か……?」


 男子生徒が言い合う声で、華子の脳裏にも電撃が閃いた。まさか――いや、まさかじゃない。どうして今の今まで気付かずにいられたのか。ユイという名前。あどけなさを残したあの顔立ち。艶やかな黒髪に、燃えるような瞳。

 いや、気付かなかった自分を誰も責めることはできまい。誰が思いつくものか。偶然出会って後輩になった一人の少女と、かつて見たテレビの中のスターを重ね合わせてみようだなんて。

 だが。ひとたびその姿が重なってしまうと、華子にはもう、その気付きを否定できなかった。

 今から五年ばかり前。お茶の間から絶大な支持を受け、公営放送の幼児向けチャンネルの看板娘を務めた一人の少女。全国数百万人の子供の目を釘付けにし、「大きなお友達」の間にも旋風を巻き起こしたスーパー子役アイドル。当時はフルネームは表に出ていなかったが、そのかわり、彼女の歌い踊る姿を人は紅蓮の炎にたとえてこう呼んだ。そう、その二つ名を「灼熱のユイ」――!


「勝てるわけない……」


 マリナに同調して結依を笑っていたはずの女子達が、見る間に諦めの空気に包まれていくのがわかる。曲が終わり、晴れやかな笑顔を浮かべた結依がびしりと立ち姿を決めたとき、マリナが遂にステージに膝をつくのを華子は見た。あの自信満々の女王が、敗れたのだ。ギークのお遊戯と見下していたはずの新入生に……!


「マリナさん」


 額に玉の汗を浮かべたマリナに、結依はそっと歩み寄って片手を差し出す。そして、にこりと笑って言った。


「アイドル部のスタジオ、返してもらえますよね?」

「ッ……! こんな……!」


 次の瞬間、誰もが息を呑む出来事が起こった。立ち上がったマリナが結依の手を払いのけ、そのまま彼女に掴みかかったのだ。


「有り得ない! 聴こえてないなんてウソに決まってるわ! こんなの――」

「やめろっ!」


 声を上げながらステージに跳び乗ったのは、背の高い男子生徒だった。彼はマリナの肩を掴んで結依から引き剥がし、「見苦しいぞ、マリナ!」と彼女に怒声を放つ。マリナは彼の姿を認めるやいなや、だって、と叫んで彼を振り払おうとした。

 他の生徒達はその様子を見守ることしかできなかった。彼が昨年冬からアメフト部の主将の座に就いているスターであることは誰もが知っていた。ジョックとクイーン、男女各々のカーストの頂点に君臨するこの二人が、全生徒公認の「いい仲」であったことも。


「インチキよ! この子、耳が聴こえないなんて言って、ほんとは聴こえてるんだわ! じゃなきゃ、このあたしが――」

「いや。この子の言葉は間違いなく本当だ。これは、本当は言っちゃいけないことだが……」


 人気者ジョックは遠慮がちな表情で結依の方を見た。結依は、眼鏡グラスを掛けていないから二人のやりとりを聴いていないはずなのに、彼の顔を見ただけで全てを悟ったように、こくんと頷いた。


「……この子が聴覚を失ったとき、診断したのはウチの親父なんだ。よく覚えてるよ。ウチの病院に『あのユイちゃん』が来たって」

「そんな……だって……」


 マリナの声はもはや完全に涙交じりだった。ものの三十分ほど前まで、誰が想像できただろう。ヒエラルキーの頂点から全校を睥睨へいげいする湊マリナが、こんな姿を晒すなんて――。


「お前とはこれまでだな、マリナ」


 彼が発した一言に、マリナのみならず周囲の全員が目を見張った。華子もその例外ではなかった。


「今はっきりわかった。醜いよ、お前。そんなお前のチアじゃ、もう応援にならない」

「……ま、待って! 待ってよ!」


 堂々とステージを降りてゆくジョックに、涙ながらに取りすがろうとするクイーン。誰も何も口を挟むことはできない。華子は流石にマリナが可哀想にさえ思えてきたが、それより何より、今は結依が見せた恐るべき力の片鱗のことが彼女の心の大半を占めていた。

 彼女が臆することなくマリナに挑めた理由も、今なら清々しいほどよくわかる。十歳にして芸能界の荒波に揉まれ、幾百万の視線を一手に浴びてきた彼女にとって、たかだか一つの学校を支配する女子生徒など最初から敵ではなかったのだ。この可憐な少女は、自分のような普通の高校生が知らない本物の地獄を幾多も越えてきた、歴戦の戦士だったのだ。

 だが、聴覚を失った彼女が、あれほどまでに自由に歌って踊れるようになるまでには、一体どれだけの苦難と努力の日々があったのか……。

 いつしか自分の頬を熱いものが伝っていたことに華子は気付いた。結依が弱冠十五歳の若さで背負ってきたものの多さを、その重さを思うと、涙が止まらなかった。

 やがてその結依は、壇上から華子の姿を認めると、どこか気恥ずかしそうに、控えめな笑みを向けてきた――。



(1st Single:天使の帰還 完)

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