Track 03. スクールカースト

『――以上、軽音楽部のパフォーマンスでした! 続いては、チアリーディング部――』


 司会の生徒によるハイテンションな呼び出しに続いて、女子達の黄色い歓声が講堂の外までも響き渡る。漏れ聞こえてくる音楽の賑やかさに背を向けたまま、華子はなこは制服の肩の上に舞い落ちる桜の花弁はなびらを軽く片手で払った。

 立ち止まったままの彼女とすれ違う形で、新入生の女子数名が「チア始まっちゃう」と慌ただしそうに講堂に駆け込んでいく。彼女達と肩がぶつかりそうになる瞬間、華子は勇気を出して「あの」と口を開きかけたが、その声は声にならないまま喉元で消えてしまった。

 通学鞄スクールバッグの中に隠したビラの束は、一時間前から一枚も減らないまま。

 講堂の前の道には、男女の新入生が楽しそうに行き交い、運動部の生徒達が熱心に勧誘の声を張り上げているが、新入生も在校生も誰一人として華子のことなど視界に捉えていないかのようだった。


 やっぱり無理だったんだ、と華子は心の中で深く溜息をき、力なく足を踏み出そうとして――その一歩を躊躇した。校門の外に出るには、この賑やかな勧誘ロードの中を突っ切らなければならない。今の彼女にはそれすら辛かった。自分がこの場所に存在することさえ許されていないかのような、途方もない疎外感と無力感。

 やっぱり自分には無理だったのだ。アイドル部に部員を集めるなんて――。

 そんなことは二年前からわかりきっていた。わかっているから、講堂での勧誘パフォーマンスも辞退していたのだ。それなのに、いざ今日になったらどうしても諦めきれなくて、勧誘のビラを百枚も印刷してしまった。これを受け取ってくれる新入生の中に、ひょっとしたら自分と一緒にアイドルをやりたいと言ってくれる子がいるかもしれないから……。

 そうやって自分の力を過信した挙句がこのざまだ。自分は所詮、見知らぬ新入生に声をかけてビラを渡す勇気すら持てない、スクールカースト最下層のおたくギークなのだ。

 この自分がなけなしの勇気を振り絞れたのは、高校生になってからたった一回だけ。


 ――あの、あなたもアイドル好きなんだったら、一緒に入る?


 四ヶ月前、街で出会った中学生の少女を秋葉原エイトミリオンの公演に誘った、あの瞬間だけ。

 どうして自分にそんなことができたのか、華子には今でもわからない。あの日の出来事は夢だったのではないかとさえ思う。二度と起こり得ない、起こし得ない奇跡――。

 ユイちゃんと名乗ったあの少女だって、とっくに自分のことなど忘れているだろう。今頃はどこか知らない高校に入学しており、二度と自分と会うことなどないのだろう。自分は一人きりだ。今までも、これからも、ずっと一人なのだ。

 華子が肩を落とし、せめて皆の邪魔にならないように、なるべく存在感を消して勧誘ロードに足を踏み入れようとしたとき――


「華子さんっ。華子さんですよね」


 突如、聞き覚えのある少女の声が、華子の鼓膜を震わせた。


「……え?」

「よかったぁ。講堂のプログラムにアイドル部の名前がなかったから、わたし、学校間違えちゃったかと思いましたよ」


 勧誘ロードの雑踏を抜けて華子の前に歩み出てきた小柄な人影が、記憶の中の少女の姿と重なる。

 その信じられない光景の真偽を頭が判断するより早く、華子は少女の名を無意識に呟いていた。


「ユイちゃん……?」

「はい! やっとまた会えましたね」


 まっさらな新品の制服に身を包み、艶やかな黒髪を春風にひるがえして、少女は満面の笑みで華子に応える。

 そんな――。華子は驚きに目を見張った。まさか本当に、この学校に……!?


「ホントに……ホントに来てくれたんだ」

「えぇー、そんな言い方ないですよ。来ないかもって思ってたんですか?」


 真紅のフレームの眼鏡グラス越しに、丸々とした瞳で華子を上目遣いに見上げ、少女はぷくっと頬を膨らませてみせる。それから、すっと身を引き、ぴしっと整ったお辞儀を一つ。

 再び顔を上げた彼女は、にこりと笑って告げた。


「改めて、火群ほむら結依ゆいです。よろしくお願いします、キャプテン」

「キャプテン……って」


 本当にアイドル部に入ってくれるつもりなのか、なんて、今さら聞き返すまでもなかった。目の前の結依の瞳はどこまでも本気の炎に燃えていた。いつの間にか彼女の小さな両手が自分の右手を包み込んでいることに気付いたとき、その柔らかな手のひらから伝わる温かさが、これが夢でも幻でもないことを華子の胸に叩き込んできた。


「……ありがと、ユイちゃん」


 嗚咽が漏れそうになるのを必死に抑えて、華子は結依の手に自分の左手を添えた。結依はまるで握手会に慣れたプロのアイドルのように、本日何度めかの笑顔をふふっと投げかけてくる。


 だが。

 だが、しかし――。

 この状況を喜びきれない理由が、華子にはあった。

 もちろん、結依との再会は嬉しいに決まっている。上級生としてなけなしの意地を張っていなければ、今にも涙腺が決壊してしまいそうなくらいに。無理もない、一年生の頃からずっと一人きりだったアイドル部が、今初めて二人目の部員を迎えたのだ。

 だが――。

 華子は迷っていた。本当に、の部に、胸を張って後輩を迎え入れることなどできるのだろうか?


「……どうしたんですか、華子さん?」


 どちらからともなく自然に手を離したあと、結依はきょとんとした目で華子の顔を覗き込んできた。レンズ越しのその目は、今まで華子がこの学校で言葉を交わしたどんな生徒や先生よりも、彼女のことを知ろうとしてくれているように見えた。

 今言わなくても、すぐにわかってしまうことか――。

 華子は意を決し、自分の迷いの理由を結依に告げることにした。


「ユイちゃん。実は……アイドル部は今、学校の中で活動できないの」


 結依がレンズ越しに何かを見て、えっ、と声を出す。そこで初めて華子は思い出した。結依の聴覚が機能していないことを。あまりに会話が自然なので忘れかけていたが、この少女はこちらの言葉を聴いているのではなく、補聴眼鏡グラスの力で理解しているのだ。

 その結依が問い返してきた。部員が一人だけだったからですか、と。


「でも、それなら、今日からは二人じゃないですか。大丈夫ですよ」

「ううん、違うの、ユイちゃん」


 そのとき、華子の背後で、講堂の中から割れんばかりの拍手と歓声が聴こえてきた。どうやら、チアリーディング部のパフォーマンスが終わったらしい。

 例年多数の入部希望者が殺到する、女子の部活の花形。スクールカーストの最上層に君臨する存在。男子の頂点ジョックがアメフト部なら、女子の頂点クイーンは間違いなくこのチアリーディング部だった。

 そして、チアリーダーという名の特権階級者は、自分のような弱者ギークに対して何だってできるのだ。学校から割り当てられた正規の活動場所を奪うことだって。


「アイドル部の練習スタジオは、チアに取られちゃって……」

「取られた……?」


 わいわいと騒ぎながら講堂から出てくる新入生達の群れを横目に、華子は結依に語った。

 結依と出会った冬休みの後、年が明けて学校に行ってみると、アイドル部の練習スタジオをチアリーディング部の部員達が占拠していたこと。「ウチはメンバー多いからさ、スタジオ一つじゃ手狭なのよ」と平然と言い放った、同学年のみなとマリナの姿。何ら悪びれる様子もなく、練習場所の接収を当然の権利と捉えているような、あの口振り……。

 十二月を境に当時の三年生達が引退し、マリナがチアリーディング部の新キャプテンに就任したことは、華子も知っていた。一年生の頃から多くの取り巻きサイドキックスを従え、同学年の全生徒を睥睨へいげいする立場にあったマリナが、上級生の引退に伴って遂に女王クイーンの座に就いたのだということも。そして、自分のようなギークには、彼女のグループに意見を言う権利など与えられていないのだということも……。


「ちょっと待ってください。そんなの、おかしいですよ」


 結依が落ち着いた声で言った。いや、その小さな肩がわなわなと震えていることに華子は気付いていた。小柄な少女の静かな口調の裏には、あの日、秋葉原で華子の元友人に食って掛かった時と同じ、熱い怒りの炎が渦巻いていた。

 華子は、そんな後輩を宥めるように小さく首を振った。情けない自分に代わって結依が怒ってくれるのは嬉しい。だが、怒ったところでどうにもならないのだ。


「おかしいんだけどね……。でも、仕方ないの。この学校じゃ、マリナさんに逆らったら生きてけないのよ」

「マリナさんに逆らったら、殺されちゃうんですか?」

「そ、そんなわけないじゃない。生きてけないっていうのは、クラスに居づらくなるとか、立場が悪くなるとか、そういう――」


 言いながら、華子は自分の境遇に虚しさを覚えていた。自分は、べつに、マリナをはじめとするスクールカースト上位者に逆らったことなどない。それにもかかわらず、この立場だ。別段彼女らに歯向かわなくたって、ギークには元々、楽しく学校生活を送る権利なんて与えられていないのだ。


「殺されないならいいじゃないですか。本当に死んじゃわない限り、人間、なんだってできるものですよ」

「……ユイちゃん?」


 妙に気迫の籠もった結依の言葉に、華子がぱちりと目をしばたいていると、結依はふわりと長髪を風に揺らして歩き出してしまった。講堂へ向かって――いや、多くの新入生や在校生に囲まれて講堂から出てきた、ある集団に向かって。


「えっ、ちょっと、ユイちゃん!」

「間違ったことは正しましょう。スタジオの使用は学校が認めてくれてるんでしょ?」


 華子に振り向いて、何でもないように言ってみせる結依の表情は、まるで恐れや気後れといった概念を知らないかのようだった。

 待って、と華子が声を掛ける間もなく、集団の取り巻きの一部が、近付く結依の姿に気付いて怪訝な顔を見せる。人垣の中のチアリーダー達へ、たちまちその気付きが波及する。

 その中心。金髪と見紛うほど明るく染めたボブヘアーに、ユニフォームのメインカラーと同じ鮮やかな青色のカチューシャを差して――

 勝者の自信に満ちた顔つきで部員達を従えた、女王クイーンみなとマリナが足を止めた。


「あなたがマリナさんですか?」


 人垣越しに、結依のまっすぐな言葉の矢が女王に向かって飛ぶ。華子が止めに入ろうと一歩踏み出したところで、マリナが静かに首を動かしてこちらを見た。瞬間、その鋭い視線が、華子の足をその場に釘付けにする。

 マリナが結依に目をやるが早いか、周囲の生徒達がたちまち後ろに引いて道を開けた。僅か数歩の距離で、学園をべる絶対女王と、小柄な新入生が向かい合う――。


「チアリーディング部キャプテンの湊マリナよ。あなたは? 入部志望って雰囲気じゃなさそうね」

「アイドル部のスタジオを返してください。いくらチアが人気の部活でも、他の部の練習場所を奪う権利まではないはずです」


 結依が堂々述べると、一瞬マリナの表情が硬直した。だが……それは結依の言葉に怯んだわけでも、臆したわけでもなさそうだった。華子がハラハラしながら事態を見守っていると、数秒の沈黙を破るように、マリナは「あははっ」と高笑いを上げたのだ。


「あなた、華子ちゃんのお仲間なの? あはは、残念ね、入学初日でカーストのポジションが決まっちゃって」


 周りの者達もマリナに合わせてクスクスと笑っている。だから言ったのに――。華子は悔しさに唇を噛んだ。いや、黙って見ている場合ではない。せめて、結依の立場が絶望的に悪くなってしまう前に、なんとか止めなければ。


「マリナさん、違うの、この子――」

「アイドルを!」


 その時、結依が突如張り上げた声に、二人の間に割って入ろうとしていた華子はびくっとその場で動きを止めてしまった。


「アイドルを馬鹿にする人は、わたしが許さない」


 結依の言葉には激しい怒りが宿っていた。近付くことなどとてもできない。華子には、その小さな背中の後ろに、燃え上がる炎のオーラまでもが見えるかのようだった。

 だが、当のマリナは全く動じる様子もなく、「可哀想に」と余裕を湛えた表情で結依を見下ろして呟くばかり。


「あなた、本気でアイドル部に入るつもりなの? やめときなって。スクールアイドルなんてギークのお遊戯じゃない」


 マリナの言葉を援護射撃する取り巻き達の嘲笑。結依の強い視線を正面から受け止めたまま、女王はさらに続けた。


「高校生にもなってアイドルの真似事なんかして、それが将来何の役に立つっていうの。進学や就職の面接で言うつもりなの? ワタシは高校での三年間、オタクの歌を口パクすることに打ち込みました、って。それより、どうせ入るならチアに来なさいよ。あたしがイチから教えてあげるから」


 周囲の面々から、おおっ、と声が上がった。さしずめ、生意気な一年生をも笑って許してやる女王の懐の深さに感服した、といったところなのだろうか。

 だが、結依がそんな懐柔に応じる子ではないことは、華子にももうわかっている。


「あなたに教わるくらいなら、チアなんて一生覚えません」

「なっ――!」


 マリナの余裕に満ちていた顔がそのとき初めて怒りの色に染まった。生徒達に緊張が立ち込める中、女王はこめかみに血管を浮き立たせながら言う。


「図に乗るんじゃないわよ、ギーク風情が。アイドル部なんていつでも潰せるんだからね」

「わたしの心がそんなに簡単に折れそうに見えますか?」


 取り巻き達すらマリナの剣幕に押されて息を呑む中、あくまで結依は一歩も引かなかった。そのまま数秒睨み合った後、マリナは軽く舌打ちし、「行くわよ」と隊列を率いてその場を後にしてしまった。

 マリナに追従する者達の一部は、最後までチラチラとこちらを振り返っていた。敵意や哀れみを込めた視線で。


「ちょっと、ちょっと、ユイちゃん!」


 ざわめきが去り、関係のない生徒達も彼女らを避けるように離れていった後、華子は結依の両肩を掴んだ。とても放っておくことなどできなかった。マリナの恐ろしさを自分はよく知っている。このままでは結依の身がただでは済まないということも。


「どういうつもりよ、マリナさんにあんなにケンカ売っちゃって! 怖くないの!? マリナさんを怒らせちゃったら、この先、どんなことされるか――」

「不正な行いを仕掛けてきたのはあっちでしょう。わたし、全然怖くないですよ。ただの高校生に何ができるっていうんですか」

「そんな――」


 あなたもただの高校生じゃないの、とは何故か言えなかった。結依の小さな身体に、一瞬、何か――本当の修羅場をくぐってきた者のような凄みを感じてしまったから。


「華子さん、そんなに心配しないでください。地獄ならとっくに見てきましたから」


 毅然とそう言ってのける結依の姿は、確かに、自分なんかの助けは必要としていないように思えたが――

 翌日、華子は結依とともに思い知ることになる。自分達の途方もないを。マリナのグループの本当の恐ろしさを――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る