Track 02. 入学願書

 その夜、火群ほむら結依ゆいは一人きりの夕食と入浴を終えると、リビングルームのドライング・チェアに腰を落とし、はやる気持ちで卓上のパソコンの電源を入れた。チェアのAIが温風をスタートさせ、しっとりと濡れた風呂上がりの髪を心地よい温かさが包み込み始めるのと時を同じくして、Mindows2038の鮮やかなホーム画面が結依の眼前に現れる。

 結依の身体がいつもより火照っているのは、熱い風呂から出たばかりだからというだけではないだろう。彼女はいつにない心の高揚を覚えていた。マウスを操ってインターネットのブラウザを立ち上げながら、ピンクのパジャマに包まれた胸元をつい片手で押さえてしまう。そうしなければ、このドキドキ感が、ワクワク感が、身体中を破裂させるほどに大きくなってしまいそうだった。


 ――わたし、千葉ちば華子はなこっていうの。高校二年。あなたは?


 八時間ばかり前、結依が初めて出会ったその人は、心の底からアイドルを愛しているようだった。ひとたび一緒にアイドルの現場を見れば、その相手がどれほどアイドルに入れ込んでいるのかは容易にわかる。秋葉原エイトミリオンの昼公演のペアチケットを初対面の自分に快く分け与えてくれた彼女は、多くの男性ファンのようにノリノリで掛け声ミックスを打ったりメンバーの名前を叫んだりはしていなかったが、キラキラした瞳で舞台を見つめる彼女の姿は、まさしくアイドルに心を射抜かれた人間のそれであった。

 だから、結依は嬉しかったのだ。図らずも秋葉原エイトミリオンの公演が観られたことより何より、華子という人に出会えたことが。


 ――うん、わたし、アイドル部の部長をやってるの。あ、ちがうちがう、わたしがエライとかじゃなくて、部員がわたししか居ないからなんだけどね。


 ――双柱ふたばしら学園っていうんだけど……。アイドル部の実績は全然ないから、知らないかな?


 ――ユイちゃん、スクールアイドルに興味とか……ある?


 公演の興奮を引きずったまま入ったカフェで、華子がマグカップで口元を隠しながらそのように切り出してきたとき、結依は春からの自分の居場所を知った。幸いにも、芸能界を離れた後は学業にも真剣に取り組んできた甲斐あって、結依は先月行われた共通入学試験キャピタル・ハイで好成績を収め、東京都内の高校ならほぼどこにでも進学できる資格を手にしていた。

 今、結依が目にするパソコンの画面には、華子が教えてくれた学校のウェブサイトが浮かび上がるように表示されている。私立ゆえに潤沢な広報予算があるのだろうか、最新型の画面効果が用いられた綺麗なサイトだった。


「双柱学園高校……」


 声に出して独り言を発してしまうのは、の名残り。

 結依はドライング・チェアの温風を顔の横に感じながら、画面に表示された私立双柱学園高校のページを繰っていった。もちろん、部活動の実績を調べるためだ。彼女の知りたい情報はすぐにわかった。その内容も概ね予想通りだった。

 双柱学園高校アイドル部の大会実績は、ここ十年以上、ずっと地区予選敗退レベル。特に、二年前からは夏の大会の個人部門にしかエントリーされていない。「部員がわたししか居ないからなんだけどね」と述べたときの、恥ずかしさと寂しさが混ざったような華子の顔が、ふと結依の脳裏に思い出された。


「……春からは、二人ですよ」


 結依はわざとその独り言を口に出して言った。自分自身の聴覚みみにすら届かないその声を、あの人に……華子に届けたかったのだ。

 結依はパソコンの画面をブラウザから切り替え、あとは明日の提出を待つばかりだった入学願書の作成画面を表示させた。そこに記載された学校名を削除し、かわりに華子の通う学校の名を打ち込む。

 私立双柱学園高校。改めて見てみると、それはとても素敵な名前に見えた。四月からは、双柱学園高校アイドル部の火群結依。うん、悪くない。

 ちょうどチェアの温風が止まり、さらさらに乾いた髪を指先に滑らせて結依が一人で頷いたとき、彼女の補聴眼鏡グラスは、父親の帰宅を示すアイコンを視界の隅に表示させた。続いて、「ただいま」と父が玄関から発した声が、音声認識システムの自動書記を介してグラスのVRレイヤーに表示される。父の声紋の専用カラーである穏やかな緑色の文字列は、結依にとって三年前から変わらない癒しの色だ。

 画面から目を離し、結依は父に首を向ける。


「お帰りなさい。ごはん、RFレンジに入れてるよ」

「おお、サンキュ。今日の愛娘の献立は、っと」


 父の発する言葉は、結依にはVRレイヤーに浮かび上がる文字列として見えているだけ。それにも関わらず、父の機嫌よく弾む声や、ネクタイを解くシュルッという音までも、結依にはまるで本当に聴こえているかのように感じられた。

 今日はオムライスか、と父の台詞がレイヤーに映る。結依は料理に特別自信があるわけではなかったが、夕食を作るたび父が喜んでくれるのは嬉しかった。


「願書の受付、明日からだよな」


 父はそう言いながら食卓に就き、テレビをつけた。結依がいるときでも父が気にせずテレビを観るのは、彼女の聴覚のことを特別扱いしていない証であるのを結依は知っていた。


「学校、本当に都立第一でいいのか? お前の夢のことを考えたら、春暁しゅんぎょう学園だって――」

「ううん。わたし、志望校変えたの。双柱学園ってとこにする」

「へ?」


 父が意外そうな声を出したのは、グラスを介さなくてもわかる。父はスプーンを動かす手を止め、食卓から立って、結依の後ろに来てパソコンの画面を覗き込んできた。


「アイドルに強いとこなのか?」

「ううん、むしろ全然かな。……アイドル部はあるけど、先輩、一人だけだって」

「えぇ? なんでまた、そんな。高校ではスクールアイドルで天下を取るんじゃなかったのか」


 困惑の色が浮かんだ父の顔。そういう反応になるであろうことは結依も予測済みだった。だからこそ、結依は目一杯の明るい顔を作って、父に答えた。


「強豪校のアイドル部なんて入っても、わたしなんか活躍させてもらえないってわかってるもん。……それに、わたし、あの人と一緒に歌いたいって思っちゃったの」

「あの人って、その学校の先輩か?」


 うん、と結依が頷くと、父は「そっか」と納得したように笑みを返してくれた。


「結依がいいと思うなら、その学校で頑張ってみな」

「うん。ありがと、お父さん」


 テレビのバラエティ番組を観ながら食事を再開する父の姿を横目に、結依は入学願書の最終チェックを進めていく。

 いよいよ春から始まるのだ。三年間の沈黙を破り、夢のルートへの復帰を目指す彼女の戦いが。


 ――あなた、ひょっとして、耳が――?


 今日の公演の終了後、ホットな感想を口々に語り合う中で、華子がふと気付いたように問いかけてきたその言葉。

 目の前で音楽が鳴っていても、結依にはそのメロディを直接聴くことはもう叶わない。彼女の補聴グラスは、初めて捉える音楽でも楽譜に変えてレイヤーに表示してくれる機能を有していたが、アイドル達の熱の籠もった歌唱を心に感じることはもうできないのだ。

 だから、結依が述べる公演の感想は、秋葉原エイトミリオンの瑞々しいスター達の眩しい笑顔や、弾むようなダンス、楽しそうなMC、可愛らしい衣装など、音楽面以外のことに限られていた。華子はそれで勘付いたのだろう。隠す必要もないので、結依は正直に「聴こえません」と答えた。

 それでも。

 それでも、華子は。

 結依の耳が聴こえないのを知った上で、それでも言ってくれたのだ。「スクールアイドルに興味はある?」と。

 ラインのIDを交換しようとは、特にどちらからも切り出さなかった。春になれば会えるとわかっているから。


 ――ユイちゃんはもう、うちのプロダクションの子じゃないんだから。


 を境に、手のひらを返すように態度を変えた子役時代のマネージャー。契約が切れれば赤の他人なのだとはっきり告げるような、あの冷たい眼差し。


 ――もう付き合いきれないわよ! そんなに言うなら結依はあなたが育ててよね!


 最後は物凄い剣幕で怒鳴り立てて、父と自分のもとを去っていった母。失望と呆れと疲れに淀んだ、実の母親のあの目。


 ――キミは見た目も経歴も申し分ないんだけど……我々が何を言いたいかはわかるよね?


 五感の一つが自由にならないというだけの理由で、自分を門前払いしたオーディションの審査員達。表向き申し訳無さそうな顔をしながら、内心では「この子は馬鹿か」と蔑むような、あの視線……。


 上等だ。そんなもの全部覆してやる。どんな運命に邪魔をされたって、わたしは絶対、トップアイドルになってやるんだ。

 強い決意を込めて、結依は願書の送信ボタンをクリックした。

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