その3 隠喩(メタファー)


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 「私にとっては玲奈ちゃんが太陽」――。珠理奈が涙ながらに読み上げる手紙に、玲奈もまた涙した。汗と涙の2588日を共に駆け抜けて、月は、太陽の太陽になった。


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 前回取り上げた「直喩ちょくゆ」と対をなす修辞しゅうじ技法ぎほうにして、西洋の伝統ではレトリックの王道とされた比喩表現、それが「隠喩いんゆ」(metaphorメタファー)です。直喩を明喩めいゆと呼ぶ場合、隠喩は暗喩あんゆと呼ばれることになります。


 先述の通り、直喩と隠喩の形式上の違いは、「ように」「まるで」などの、比喩であることを明示する表現が入っているかどうかでした。

 これらの比喩は、形容したい物事と、形容に用いる別の物事との「類似性」に基づいています。この「類似性」には、人の頬の赤さとリンゴの赤さ、上司の恐ろしさと地獄の鬼の恐ろしさのように、特段の説明の必要なく私達の意識に既に根付いているものもあれば、「AKB卒業後の前田敦子」と「豆電球」のように、その文の筆者がその文のためだけに新たに作り出すものもあります。こうした「類似性」をいかに発見し、また創造できるかが、物書きの腕の見せどころかもしれません。


 さて、「はじめに」で少し触れたように、アリストテレス以来の西洋の伝統的レトリック論においては、対象物を直接比喩で言い換える隠喩こそが洗練された技法とされ、「ように」「まるで」などを介して比喩を明示する直喩は稚拙で不細工な表現であるとされてきました。

 しかし、今日こんにちの我が国の言語学徒がレトリック入門の手引きとして与えられる、故・佐藤信夫教授の名著『レトリック感覚』は、この二千年来の「偏見」をばっさりと切って捨てます。すなわち、直喩には直喩の、隠喩には隠喩の必要とされる場面があり、両者の間に優劣の差は存在しないのだというのです。

 佐藤教授は、川端康成の『雪国』から、女性の唇の美しさをひるたとえている箇所を引き、これは直喩(「小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪の伸び縮みがなめらかで」……)でなければ書き表せない表現であると説明しています。確かに、「小さくつぼんだ美しい蛭は伸び縮みがなめらかで」と隠喩で書いたのでは、わけがわからないことになってしまいます。

 直喩と隠喩は、相互に書き換え可能な場合もありますが、むしろ、どちらか一方でなければ筆者の意図する表現が実現できない場合の方が多いのかもしれません。


 2015年8月。我らがSKE48の太陽・松井珠理奈は、7年余りを共に過ごした盟友・松井玲奈の卒業コンサートで、以下のように語りました。


「玲奈ちゃんと私は対照的だから、よく玲奈ちゃんが月で私が太陽みたいな存在ってたとえられることが多いけど、私にとってはずっと玲奈ちゃんが太陽のような存在でした」


 今回の冒頭の文はこの言葉を下敷きにしたものです。つまり、

「月は、太陽の太陽になった。」

 という一節は、「月(と呼ばれてきた玲奈)が、太陽(と呼ばれる珠理奈)にとっての太陽(のような存在)になった」ということを述べているわけです。

 珠理奈が読み上げた送辞は、優れた直喩による表現(太陽存在……太陽の存在……)でしたが、それに題材を取った「太陽の太陽になった」という一節は、隠喩でなければ実現しえない表現であるといえます。


「月は、太陽の太陽になった。」

 これをもし、無理やり直喩に言い換えるなら、

「月の如きアイドルは、太陽の如きアイドルにとっての太陽の如き存在になった。」

 とでもなるのでしょうか。これでは12時になる前にガラスの靴を取り上げられそうです。

 古来、レトリックの論者達は、このような無意味な書き換えの例「だけ」を取り上げて、直喩は隠喩に比べて不細工であると二千年にわたって述べ続けていたわけです。


 なお、「月は、太陽の太陽になった」というように、同系統の隠喩をいくつも連ねてたとえ話を繋げていく技法には、「諷喩ふうゆ」(allegoryアレゴリー)という独立した名前も与えられています。これについては、別の機会に詳しく取り上げます。



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 以下、実践編です。



【実践例1】


「ヒーローには悪人を挑発するクールな言葉の数々も必要だ。戦いの場で格好良く決めてみろ、君の活躍は次第に人々の知るところとなり、ついには可愛い婦警さんから惚れられたりするかもしれないぞ」

「遠慮しとくよ。婦警なんてゴリラばっかりだ」

 (『変身ヒーローの掟』 第1話「変身シーンの掟」)


 現実には、美人で素敵な女性警察官だって大勢いるに違いないのですが、この男性警察官は同僚の女性達を「ゴリラばっかり」と言ってはばかりません。敢えて彼の心中しんちゅうを洞察するなら、女性警察官は普通の女性よりも身体を鍛えており、また、男社会の中で生きているために男勝りやガサツな性格をしている者が多い、というようなことが言いたいのでしょう。

 しかし、体格が立派だろうと性格がキツかろうと、少なくとも警察官採用試験に通っている以上、彼女らは人間であってゴリラではありません(宇宙には犬が署長を務める警察もあるようですが)。それにも関わらず、「ゴリラみたいなヤツばっかりだ」ではなく「ゴリラばっかりだ」と表現するところに、レトリックのみょうがあるのです。



【実践例2】


 高校生の自分が心配するようなことではないと思いながらも、千佳ちかは、いつ兄が野獣であることが世間様にバレてしまわないかとハラハラして仕方ないのだった。

 (『美女と野獣の仮面武闘スーツアクト』 第3話「野獣の妹」)


 この千佳ちゃんの兄は、作品を通じてずっと「野獣」という隠喩で形容され続けるのですが、もちろん本当の獣ではなく人間です。ただ、顔が非常に怖いということで、タイトルでもサブタイトルでも地の文でも台詞でもひたすら「野獣」と呼ばれ続けます。

 ところで、「野獣」という語彙ごいから普通の人(黒塗りの高級車に追突したりしない人)が真っ先に連想するのは、童話ないしディズニー映画の「美女と野獣」でしょう。この寓意ぐういを理解する人は皆、「野獣」の正体は「王子」であるという認識を共有しています。作者が千佳ちゃんの兄を「ケダモノ」や「怪物」ではなく「野獣」と表現するのは、「見た目は怖いが中身は好人物である」という印象や期待を読者の意識下に刷り込みたいという狙いもあるのです。

 このように、ある題材(この場合は「美女と野獣」の物語)の力を借りて、それを知っている読者にのみ何らかの意味を伝えるのは、「暗示引用」(allusionアリュージョン)という技法です。



【実践例3】


 彼の意図をクリスはようやく理解した。中央政府以上の権力を持つとも言われる巨大組織を牛耳っているだけあって、やはりこの男はただの肥えた豚ではない。

 (『48million ~国民総アイドル社会~』 第14話「エースオブエース」)


 世の中では飛ばない豚はただの豚だそうですが、このエピソードの語り手であるクリスも、目の前にいる「この男」のことを基本的にはただの豚と思っているようです。その彼が時折見せる抜け目のなさを目の当たりにしたとき、改めてクリスは彼を「ただの肥えた豚ではない」と思う。

 考えてみれば妙な話で、そもそも、聡明であろうと愚鈍であろうと、この男は人間であって豚ではないのです。豚ではないと分かっているものを「豚ではない」と言っているわけで、論理的には何も意味のあることは述べていません。それにも関わらず、「やはりこの男はただの肥えた豚ではない」という一節からは、この男の普段の振る舞い方や、秘めたる本性、そしてクリスが意識の表層では彼を軽視していながらも内心ではしっかり彼に一目いちもく置いていること、などの情報が立ち上がってくるのではないでしょうか。

 この例は、「ただの馬鹿ではない」と述べて「利口だ」という意味を表すような、緩叙法かんじょほうlitotesライトティーズ)という技法と、隠喩の合わせ技であるといえます。



【実践例4】


「そんなに好きだったなら、お母さんがアイドルになったらよかったのに」

 かえでが言うと、母は少しだけ淋しげな表情になった。

 どんな強力な七光があろうと、アイドルなど、なりたいと望んでなれるものではない。楓の母は楓の祖母になることはできなかった。その叶わなかった夢を母が自分に託そうとしていたことに、楓はずっと前から気付いていた。

 (『48million外伝 〜永遠のアイドル〜』)


 この話の主人公のかえでさんというのは、21世紀に生きた「伝説のアイドル・レナ」という人の孫娘です。楓さんのお母さんも、若い頃は自分の母親(レナ)に憧れてアイドルを目指したのだけれど、その夢は果たせなかった。それを「楓の母は楓の祖母になることはできなかった」という一文で表現しているわけです。

 仮にお母さんがアイドルになる夢を叶えていたとしても、もちろん、「楓の祖母」(レナ)そのものに成り代わってしまうわけではないでしょう。あくまで「楓の祖母存在」になれなかったという話をしているのですが、これを敢えて直喩ではなく隠喩で表現することで、お母さんの希望と挫折と執念の人生がまぶたの裏に浮かぶような気がしませんか。



【実践例5】


 ユキコって源氏名は、ディズニーの白雪姫が好きだっていうから付けてやったんだが、あの苦労ぶりはむしろ魔女と出会う前のシンデレラだな。

 (『オレがいた店の風俗嬢の話をしよう。』 「ユキコの場合」)


 この話の語り手は、ユキコという風俗嬢の境遇を、誰もが知る「シンデレラ」の物語にたとえて説明しています。それも「魔女と出会う前のシンデレラ」という限定付きです。継母ままははと義理の姉達にいじめられて云々、という筋書きを読者も当然知っているはずだと期待し、その共通認識に基づく隠喩を組み立てているわけです。


 なお、「シンデレラ・ストーリー」という言葉があるように、一般に「シンデレラ」が比喩に用いられる場合、「魔女と出会った後」も含めての彼女の人生が想起されることが多いようです。例えば以下のように。


 希望は絆だ。わたしが古のシンデレラから光を貰ったように、わたしの残光も誰かに引き継がれ、再び輝く。

 (『48million 〜アイドル防災都市戦記〜』 第16話「伝説のアイドル」)


 ここで「古のシンデレラ」と呼ばれているのは、おなじみ、楓さんのお祖母ちゃんのレナさんなのですが、この話の語り手は彼女の栄光の歴史を伝え聞いているわけです。しかも、彼女が最初から恵まれた存在ではなく、「シンデレラ・ストーリー」で夢を叶えた苦労人であったことまで承知している。その上で、自らの憧れの存在として、肯定的な文脈で「シンデレラ」を使っているのですね。



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 以下、演習編です。お時間のある方はコメント欄にてどうぞ。



【演習1】

 二名(またはそれ以上)の人物の関係について、隠喩を用いて説明する文を作ってみましょう。


【演習2】

 「ただの●●ではない」という形で、緩叙法を用いた隠喩表現の文を作ってみましょう。


(※当初掲載していた【演習2】は難易度が高いと思われたため、問題を差し替えました。)

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