4-8 闇

 蜷局とぐろを巻き、しゅうしゅうと不気味な唸り声を上げる巨大な蛇の魔物に、ユカリさんの振り出す墨文字が波状攻撃の如く殺到する。魔物の後ろで闇が渦巻き、凄まじいまでの火花が爆ぜて、文字のいましめが魔物の動きを封じ込める――。


濡女ぬれおんな……体裁も何もなく、己の知名度で信者ファンを引き付けるだけのあなたの創作活動が、こんな魔物を呼び出してしまったのですわ」


 大筆を構えたユカリさんが天使あまつかリリーに振り向き、鋭い視線でぎらりと彼女を睨み付けた。


「既に多くの被害者が出ていますわ。わたしはこの魔物をはらう為にあなたのところに来たのよ」

「な、何よ……何よ、それ……!」


 リリーは壁を背にへたり込んで震えていたが、そのつぶらな目は、ユカリさんとマネージャー、そして己の作品が生み出した醜悪な化け物の姿をしっかりと見回していた。


「こんなの……不公平だよ」

「不公平……?」


 アイドルの震える唇から漏れた言葉に、ユカリさんがぴくりと眉を動かす。彼女のオウム返しがトリガーになったのか、リリーの口からはせきを切ったように悲痛な絶叫が溢れ出す。


「おかしいよ、こんなの! 裏で男と付き合ってる子なんて、いくらでもいるのに! なんで……なんで、わたしばっかり!」


 彼女の叫びに呼応するように、ばちりとユカリさんの文字を弾き飛ばして、蛇の魔物が再び暴れ始める。ユカリさんが咄嗟に文字をつづって反撃に転じる寸前、大蛇の頭部に付いた女の顔が、その目を血の色に光らせ、しゃあっと大きく口を開けた。


「ッ……!」


 黒々とした瘴気しょうきの闇が魔物の背後から一気に噴き出し、結界内の全域を覆い尽くす。マネージャーの男性の引きつった悲鳴と、ユカリさんが新たな真言しんごんを唱えながら大筆を振る音、そして魔物の醜悪な咆哮が幾重にも響き渡る中――

 僕のもとにも押し寄せてきた瘴気しょうきの大波が、ぶわっと僕の意識を包み込んだ。


「――!」




 ◆◆◆



 ――わたし、選ばれるなら東京のグループがよかったな。■■君と離れ離れになっちゃうのはやだ――


 ――そんなこと言うなよ、リリー。やっと夢が叶ったんだろ。住めば都って言うしさ――


 ――遠距離になっちゃうのは辛いよ。ただでさえ、これからは隠し通さなきゃいけないのに――




 ◆◆◆



「なんだ……これ……!?」


 闇の中から呼びかけてくるのは、天使あまつかリリーのものらしき記憶。

 蛇の化け物の咆哮と混じって、一人の少女の悲痛な心の叫びが、容赦なく僕の脳内になだれ込んでくる。




 ◆◆◆



 ――東京にカレシ置いてきた? あははっ、ええやん。バレへんようにだけは気をつけや――


 ――えっ……。あの、先輩。止めないんですか……?――


 ――止めへん止めへん。男くらい皆おるで。あの子も、あの子も。アイドルだって人間なんやし、息抜きが無いとやってられへんやん――




 ◆◆◆



 ――ごめんね、今週も電話だけになっちゃって。本当は会いに行きたいんだけど――


 ――いいよ、いいよ。そりゃ寂しいのは寂しいけどさ、リリーが夢に向かって頑張ってるなら、俺はそれだけで――



 ◆◆◆



 ――こんにちはっ。いつもありがとうございます!――


 ――オレ、最近、リリーちゃんの握手会に来るのが唯一の楽しみやねん――


 ――こんにちはっ。いつもありがとうございます!――


 ――新センターおめでとう! 僕、ドラフトの時から君のこと応援してたから、嬉しいよ――


 ――こんにちはっ。いつもありがとうございます!――


 ――他所のグループの子がスキャンダルやらかしとったけど、リリーちゃんはそういうのがないから安心やわ――




 ◆◆◆



 ――天使あまつか、お前の件を文芸スプリングが嗅ぎ付けたそうや。このままやと総選挙の直後には記事が出てしまう――


 ――そんな……!――


 ――連中、バッチリ写真まで押さえとるうとるで。男作るなとは言わんけど、しょうもないドジ踏むなや――


 ――わたし、どうしたらいいんですか……?――


 ――康元やすもとセンセに聞いてみるけどな。最悪、卒業も覚悟せんとあかんで――




 ◆◆◆



 ――■■君、ゴメン……。わたし、もうダメかも……――


 ――大丈夫だって。リリーがアイドルじゃなくなっても、俺はずっと側にいるから――




 ◆◆◆



 ――天使あまつか、康元センセから凄いアイデアもろうて来たで! スプリングを出し抜くウルトラCや!――


 ――スプリングを……出し抜く?――


 ――連中、総選挙の直後に記事を出すうとるやろ。あっちがその気なら、こっちは、総選挙の壇上で先回りして交際宣言したるんや!――


 ――で、でも……付き合ってるのを認めちゃったら、ファンの人達からバッシングが……――


 ――せやから、いっそ、その男と結婚するってうたれ。結婚なら誰も茶化せへん。そりゃ批判は来るやろうが、結局は『めでたい話』ってとこに落ち着かざるを得ん。スプリングにすっぱ抜かれてマヌケヅラ晒すより遥かにマシや――


 ――そ、そんなこと急に言われたって……彼が同意してくれるかどうか――


 ――同意? そんなモン要らへん要らへん。一般人やろ、相手。そのあと別れたら別れたでそれまでや――




 ◆◆◆



 ――わたし、天使リリーは、結婚します――




 ◆◆◆



 ――なんであんなこと言ったんだよ。バカじゃねえのか、お前!――


 ――えっ……そんな、■■君……!?――


 ――こんなに日本中で騒ぎになっちまって、そんなお前の人生まで背負えるかよ!――


 ――そんな、だって、わたし……!――


 ――お前はもっと賢い子だと思ってたよ――




 ◆◆◆



 ――運営に言われてやったのはわかるけどさあ。もうちょっとウチらのことも考えてほしいよね――


 ――アンタのせいで難波なんばの評判、ダダ下がりやん。どないしてくれるん――


 ――ホンマやで。こんなことならドラフトの抽選、難波ウチが引き当てん方がよかったわ――




 ◆◆◆



 ――こんにちは。いつも……ありがとうございます――


 ――リリーちゃん、元気出してや。オレはずっとリリーちゃんのこと応援しとるから――


 ――こんにちは。……あの、わたしのこと、嫌いにならないんですか……?――


 ――まあ、ショックはショックだけどさ。でもいいんだよ、リリーちゃんがハッピーならそれで――




 ◆◆◆



「なんだ……なんだよ、これ……!」


 魔物の瘴気しょうき霊体からだを呑まれ、僕は胸の動悸を押さえてその場にうずくまる。

 今の僅かな間に僕の脳裏を侵掠しんりゃくしたもの。それは単なる天使リリーの記憶の羅列ではなかった。彼女が背負わされた過酷な現実。彼女の心から溢れ出す感情の雪崩なだれ、そのものだった。


 恋愛禁止ルールを守らなかった彼女が悪いのだと、責めるのは簡単かもしれない。

 だけど……いくらなんでも、これは……。


 僕は闇の中で天使リリーに目を向けた。彼女は壁に背を預けてへたり込んだまま、その両目から大粒の涙をこぼしていた。

 僕にはどうしたらいいのか分からない。全ては自業自得だと彼女の罪を断じればいいのか。彼女は芸能界の闇の被害者に過ぎないのだと同情すればいいのか。


式部しきぶさん!」


 僕が胸を押さえていると、闇の中からマネージャーの男性の声が響いた。


「あなたも見はったでしょう、今のを!」

「ええ。見ましたわ」


 ユカリさんの答える声と、ヒュンと大筆を振る音。


「だったらお願いですわ、式部さん。リリーを救ってやって下さい。あなたなら、それが出来るんでしょう!」


 男性の真剣な叫びに重なるように――

 僕には、瘴気しょうきの渦に包まれて姿の見えないユカリさんが、こくりと頷くのが、何故かハッキリと見えたような気がした。

 そして――闇の中に、ユカリさんの凛々しい声が響く。


あまね諸仏しょぶつ帰命きみょうたてまつる。オン・ドギャ・シナ・ダン・ソワカ!」


 ヒュンヒュンと絶え間なく鳴る風切り音とともに、魔物を中心に発せられる闇のきりが次第に晴れ――

 視界の戻った結界の中に見えるのは、無数の文字の矢に射抜かれて動きを封じられた蛇の魔物と、大筆を構え颯爽と立つユカリさんの姿。


「天使リリー。今こそはらいましょう、あなたの心の闇を」


 涙に濡れた目をハッと見開くアイドルに向けて、ユカリさんは墨の滴る大筆を構えた。


「――推敲の時間ですわ」

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