3-10 二匹の魔物
上空から迫る巨大な鳥の魔物に向かい、彼女が右の大筆で墨文字を描き出すと、風を巻いて飛ぶ文字の渦が魔物の両翼をがんじがらめに縛り付けた。
僕は傍らに立つユカリさんに思わず目をやっていた。ユカリさんは胸の前に紫の扇子を構えたまま、少納言とバケモノとの戦いを、凄まじく真剣な目で見据えていた。
「な、な……!」
二人の作者は揃って腰を抜かし、目の前の
「これは
少納言の解説に合わせるようにして、鳥のバケモノ――
「こ、こんなの……現実であるはずが……!」
茶髪ギャルの毒舌でボロクソに言われた律氏だが、それに怒るより何より、眼前の光景への襲撃の方がまだ
片湯手氏の方はというと、流石に自分のバケモノを見た後なので少しは余裕があるらしく、「俺のヤツよりもっと酷いな」なんて律氏に
「さぁ、バラしてこーか。まずはクソつまらんキャラクター設定から」
少納言は不敵に笑って怪鳥の巨体を見上げると、左手の大筆をしゅばっと振るった。その瞬間、魔物を覆う禍々しい
――
僕の目にもその文章が見て取れた。目で見て読めるというより、意識に直接流れ込んでくるような文字だった。
「何や、このしょーもない設定。アンタ、これのどこが面白いん?」
これまでとは違った鋭い声で、少納言は律氏に向かって言った。律氏はようやく驚愕を怒りが上回ったらしく、顔を真っ赤にして言い返す。
「げ、現実的な街弁のプロフィールというのは、こういうものなんですよ! 少なくとも、この男の『ブラックレオン』とかいうふざけた作品より、ずっとちゃんとした弁護士像を――」
震える腕でライバルを指差しながら大声を上げる彼に、びしり、と少納言は右手の筆を突きつけた。
「現実的やから何なん? 何の個性もなくてつまらんわ、この主人公。個性って点だけ
「そ、そんなことは――」
「次、行こか」
少納言が魔物に向かって右手の筆を振ると、虚空に浮かんでいた墨文字の列がばしりと線を引かれて消えた。ユカリさんのような「推敲」ではない、これは「抹消」――!
僕はハラハラした気持ちで再びユカリさんの顔を見た。ユカリさんは赤い唇を堅く結び、右手の扇子を折れんばかりの勢いで握り締めていた。
その時、空中の魔物がおどろおどろしい鳴き声を甲高く上げ、ばさばさと巨大な翼で空気を叩いて抵抗を示した。少納言が、チッと舌打ちして、右手の大筆を素早く振るう。追加で撃ち出された墨文字の波が、
「少納言!」
ユカリさんがそこで初めて口を開いた。
「あなたが仕留め損なうようなら、直ちにわたしが割って入りますわよ!」
だが、少納言がその程度でユカリさんに機会を譲るような人間ではないことは、もう僕にだってわかっていた。
「
そして、茶髪ギャルの
「アンタの作品の一番クソなとこ、それはストーリーもヘッタクレもない話の展開や」
再びずらずらと虚空に並ぶ文字列は、『街弁・昼田マコト』の各エピソードの章題というか、扱っている事件の概要の羅列らしかった。損害賠償請求、離婚訴訟、残業代請求、
「マジメに訊くけどな、これ、どこが小説なん? 百歩譲ってケーススタディ集やん」
「な、何を言うんですか。私の作品をよく読んでないな!? この作品は、弁護士にとってありふれた事件の裏にも、それに関わる人間一人一人の人生があって、ドラマがあって、という――」
「アパートの
ぶん、と右腕を大きく振りかぶって、少納言は右手の大筆で虚空の文字列に大きく線を引く。さながら墨塗り教科書のように――宙に並んだエピソードの数々は、そのまま弾けて空に消えた。
魔物が苦しみ、天を仰いで巨体を震わせる。
やはり……やはり、ユカリさんのやり方とは全く違う。僕は気がついたら叫びを上げていた。
「何なんですか、これは!」
「へ?」
僕の叫びに、少納言とユカリさんが揃って僕の顔を見てくる。
「こんな……こんなの、どこが推敲なんですか。ダメ出しするだけで、どうしたら良くなるのか何も――」
「あははっ、
少納言は挑発的な高笑いを上げ、ユカリさんと僕に大筆を向けてくる。
「才能のないヤツが少しばかり鍛えたら書けるようになるやなんて、甘い甘い。まともな作品より先に次のバケモンを生み出してしまうのがオチや。せやから、
彼女のぎらりと引き絞られた瞳には、ただの個人のこだわりや意地ではない、一人のプロフェッショナルとしての矜持が込められているように見えた。
そうだ……彼女だって、ユカリさんとやり方が違うとはいえ、魔物から人々を守るために戦う駄作バスターなのだ。だが……だからと言って、これは、あまりに……。
「少納言! やはりあなたは間違っていますわ!」
ユカリさんが
だが、少納言はそんなユカリさんの声をぴしゃりと遮る。
「ウルサイわ。さっきやって、ユカリちゃんが割って入って来んかったら、
「そんなこと……!」
ユカリさんは尚も声を怒りに震わせている。だが、そこで被さるように声を上げたのは、ようやく立ち上がった二人の作者達だった。
「断筆なんかするかよ! コイツならともかく、なんで俺が筆を折らなきゃならないんだ!」
「コイツが無能なのは同感ですが、私はまともな物書きですよ!」
互いに互いを指差し、親の仇のごとき恨みの籠もった視線を向け合う二人。僕達が見ている前で、二人は今にも掴み合いの喧嘩を始めんばかりの距離に詰め寄り、醜く互いを
「大体、コイツは学生の頃から文才の欠片もなかったんだ。知識をひけらかしてばかりで――」
「コイツの方こそ、ろくに調べもしないでいい加減なことを書いてばかりで、物書きの風上にも置けない男――」
「コイツが受賞なんてありえねえからな! 相互で星を稼いでるだけの、こんな奴が――」
「貴様の方こそ、まともな読み専など一人も付いていないくせに!」
作者達が
ばちっ、と火花が爆ぜ、空間が歪んだように見えた。
「ッ! あれは――」
少納言が慌てた顔で二振りの筆を構えるのと同時に、ユカリさんも作者達の背後を振り仰いでいた。闇の渦から何かが姿を見せるのと、それに呼応するように
「! 伏せなさい!」
ユカリさんが僕を庇うように前に出る。僕が反射的に身をかがめた瞬間、つい少し前に覚えのある悪寒の風が、僕の背中を撫ぜた。
見上げた先で天を覆うもの、それは、片湯手氏の魔物である一反木綿。
「オン・サンマヤ・サトバン・ソワカ!」
少納言の詠唱とともに、彼女の背後から無数の
「いけない――」
僕の耳を刺すユカリさんの声が、すぐに醜悪な魔物の咆哮に塗り潰される。
どす黒い
「二匹のバケモンが……一つに……!」
少納言の焦る声が、ぽつりと響いた。
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