2-8 終わらぬ戦い

 一心不乱にパソコンのキーを叩き続けるラ・フランス先生の邪魔をしないよう、ユカリさんは女の子と僕を連れてそっと書斎を出た。


「一件落着ですわ」


 ぱたん、と静かに書斎のドアを閉じてから、文芸の番人は言う。


「これで、あなたのお友達も苦しみから解放されますわよ」


 ワンピース姿の女の子は、一瞬ホッとした顔を見せたかと思うと、へなへなと壁を背にへたり込んでしまった。

 その青白い顔に沢山の汗が滲んでいるのを見て、僕は思わず「大丈夫?」と声を掛けてしまう。いや、僕なんかに心配されたって、逆に不気味なだけなのはわかっているのだけど……。


「大丈夫……とは言えませんわね。とにかく下で休みましょう」


 ユカリさんに手を借りて、か細い声で「すみません」と言いながら女の子は立ち上がった。勝手知ったる何とやらとばかりに、女の子を支えて階段を下りてゆくユカリさんを、僕は無言で追いかける。

 ユカリさんは女の子をリビングのソファに寝かせると、キッチンを適当に漁ってグラスに飲み物を注ぎ、彼女の前に持ってきた。


「あの……あたし、もう大丈夫ですから、どうかお構いなく――」

「そういうわけにはいきませんわ。急に戦いに巻き込んでしまって、申し訳ないことをしたもの」


 女の子の向かいのソファに腰を下ろし、ユカリさんは続ける。


「だけど、途中のあなたの一喝がなければ、ラ・フランス先生はきっと止まってくれませんでしたわ。あなたの言葉が街を魔物から救ったのよ」


 女の子は身体を起こしてグラスの飲み物に口をつけながら、ぱちり、と目をしばたかせた。

 物は言いようだな、と、立ったまま聞いていた僕は呆れ半分で感心してしまう。

 確かに、この女の子が涙ながらに母親を制止しなければ、今回の戦いはこれほどすんなり終わらなかったのかもしれない。ユカリさんは彼女との僅かな会話の中で瞬時に作戦を立てていたのだろうか。彼女を魔物との戦いに立ち会わせることが、ラ・フランス先生に自省を促すことに繋がると――。


「……あの、式部さん」


 ことり、とローテーブルの上にグラスを置くと、女の子はユカリさんの顔を見上げた。目鼻立ちの可愛らしいその顔には、まだ、大きな不安の色がありありと浮かんでいるように見えた。


「本当にこれで大丈夫なんでしょうか。だって、お母さんが書いた小説が、またつまらなかったら……」

「当面その心配はありませんわ。今回、ラ・フランス先生の作品があんな駄作になってしまったのは、書けもしない本格SFなんかに固執したのが原因ですもの。先程の様子を見れば、先生が己を取り戻したことは明白ですわ。それに――」


 口元に不敵な笑みを交えて、怜悧れいりな横顔の美女は言う。


「もし、先生が再び魔物を生み出してしまうことがあれば、何度だってわたしが駆け付けますわ」

「……そう……ですよね……」


 しかし。

 決め台詞と言っても差し支えないユカリさんの言葉を聞いてもなお、女の子の顔に安堵の色が差すことはなかった。

 ソファに座ったまま、ワンピースの裾をきゅっと握る彼女の拳が、ふるふると震えている。


「……じゃあ……きっと、これは、誰か他の人の……」

「え?」


 女の子が漏らした言葉に、ユカリさんは、聞き逃せないとばかりに鋭く視線を食いつかせる。


「どういうことかしら?」

「……あたし……上手く言えないけど……感じちゃうんです。の存在を。……ひょっとしたら、式部さんよりも強く」


 彼女は自分自身の肩を抱いて、得体の知れない何かに怯えた声で、ユカリさんにすがるような目を向けていた。


「わかるんです。お母さんのバケモノは、確かに退治されたかもしれないけど……でも、まだ、何かいる。この街には、良くないものが、何か……!」


 まさか僕のことじゃないだろうな、なんて冗談めいた考えを差し挟む余裕もない。女の子の鬼気迫る表情を見れば……!

 そこで、タイミングを見計らったかのように、ユカリさんのスマホが鳴動を始めた。手にとって画面を見た瞬間、ユカリさんの目が再びの色に変わった。


「はい。……ええ。わたしも丁度、聴いていたところですわ。この街の脅威は去っていないと」


 手短に通話を終え、ユカリさんはソファから立ち上がった。僕は、何が何だか分からず、彼女と女の子を交互に見ることしかできない。

 女の子は不安そうにユカリさんに向かって手を伸ばしかけた、が。


「大丈夫。あなたの感じている妖気の元を断つまで、わたしはこの街を離れたりしませんわ。……心細いときは、いつでも連絡してくれてよくってよ」

「……ありがとう、ございます……」


 女の子の顔が、やっと少しだけ安堵の色にほころんだ。

 出版社名義の名刺の裏にスマホの番号を書き付けながら、ユカリさんはふと彼女に問う。


「あなた、お名前は?」

「ア……いえ、リンゴって呼んでください」


 女の子の言葉に、ん?と僕は首をかしげる。その違和感の正体は、彼女自身がすぐに解明してくれた。


「本名はアップルなんです。でも、その、恥ずかしいから、学校の皆にはリンゴで通してて……」


 ああ、なるほど、と……僕は彼女の俯く顔を見て、色々と納得してしまう。あの先生のセンスがちょっとアレなのは、ペンネームだけではなかったらしい。

 まあ、僕だって、「Killerキラー-Kケイ」なんて名乗っていながら、どの面下げて……という話ではあるのだけど。


 だが、ユカリさんは流石に眉ひとつ動かさず、女の子に微かな笑みを向けて言った。


「いい名前ですわ。自分だけの名前があるというのは良いことですわね」

「え……?」

「わたしの家は、母も祖母もその上もずっと『ゆかり』でしたわ。……まあ、そういうことよ」


 じゃあ、と小さく手を振って、ユカリさんはリビングを出てゆこうとする。女の子が慌てて立ち上がり、僕達を玄関まで見送ってくれた。

 いよいよ別れを告げる間際、女の子――アップルもといリンゴちゃんは、少し迷ったようなそぶりを見せてから、この僕にもペコリと会釈を向けてきた。




 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



「……わたしとしたことが、勘違いをしていましたわ」


 住宅街を早足で歩くさなか、ユカリさんは僕に向かって、見たことのない悔しそうな顔をして言ってきた。


「この街を覆う巨大な妖気は、ラ・フランス先生の駄作一つが発しているものだと。……仕方なくってよ。あの作品のポンコツぶりと、ラ・フランス先生の知名度なら、ただ一作でこれだけの妖気を発しても不自然ではないわ。だけど……違った。この街に巣食う魔物は……この街で生み出された駄作は、あれ一つではなかったのよ」


 喋りながら、ユカリさんは凄まじい勢いでタブレットの画面をっている。敵の根源を突き止めようとするように。

 ぴりりと張り詰めた彼女の空気に、僕は何も声を発することができなかった。

 そんな僕にも、先程のユカリさんへの電話が何だったのかくらいは分かる。あれはきっと彼女の仲間からの着信だったのだ。この街での新たな魔物の被害を――即ち、更なる駄作の存在を告げるしらせ。

 この街での戦いは、まだ終わっていない……!


(第3話へ続く)

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