2-7 新たな物語
「わかったわ……式部ユカリさん。韓流の魅力を作品に詰め込めるのなら……あたくし、ディストピアにもSFにももうこだわりませんわ」
ラ・フランス先生はまっすぐ顔を上げ、怪物と対峙するユカリさんの背中に向かって言った。傍らで女の子が「お母さん……」と安心したように呟くのを聞いて、僕もまた、先生の目から
「良い勇気ですわ、ラ・フランス先生」
ユカリさんは一つ頷くと、邸宅を見下ろす魔物に向かって大きく筆を振り抜いた。ざあっ、と無数の文字の奔流が怪物に殺到し、その巨大な足元が、先程と同じくダルマ落としのようにぐらりと沈み込んだ。
顔のない影法師の不気味な叫びが、僕達の耳を刺す。僕には何故かわかった。今のユカリさんの一振りで、この
魔物を睨み上げていたユカリさんが、またこちらへ振り返り、ラ・フランス先生に向かって言う。
「まずは主人公の設定から詰めましょうか。先生、彼が『究極の韓流スター』を目指す動機は何だったかしら?」
「それは――二十一世紀の伝説の韓流スター、ユン様の魂に導かれたからよ。主人公は時を越えてユン様の魂を受け継ぎ、ユン様の輝きを宿すスターになるのよ」
途端にギラついた目になるラ・フランス先生を見て、物書きの習性だよな、と僕は思う。いや、プロの先生と僕自身を同じくくりに入れるなんて恐れ多いかもしれないけど、僕だってこんな風にキャラクターのことを聞かれたら、途端にペラペラと饒舌に喋りだしてしまう自信がある。
「まあ、近未来SFを標榜しながら『魂』なんてものの存在を平気で肯定するチグハグさが、あなたの作品のそもそもの欠陥なのだけれど――」
「い、いくらあなたの言うことでも、ユン様の存在は絶対に外せないわよ。ユン様へのリスペクトを外したら、あたくしの作品ではなくなってしまうわ!」
「……わかりましたわ。じゃあ、ユン様は残しましょう。……でも、別にこれ、
なんでもないことのようにユカリさんが問うと、ラ・フランス先生は何秒間かぱちぱちと目を
「そうか……そうだわ! 直接ユン様を出してもいいんじゃない! むしろその方がいいわ! それでいきましょう!」
「どうしてディストピアSFより先にそっちを思いつかないの……」
呆れた声を出しながら、ユカリさんは魔物に向かって再び筆を振るった。墨文字の結界に封じられたままの魔物が、ユカリさんの繰り出す文字を受けて全身から火花を散らせる。
「閃いたわ!」
ラ・フランス先生がいきなり嬉しそうな大声を挙げたので、僕は女の子と同時にびくりと身体を震わせた。
「主人公は、ユン様に憧れて同じ芸能事務所に入った後輩で、戦闘の中でユン様に命を救われるのよ。ユン様は彼を庇って致命傷を負い、死の間際に『お前が究極の韓流スターになれ』と主人公に思いを託すの! どう、ドラマチックじゃない!?」
「……戦闘って何ですの? ユン様達、戦争してるのかしら?」
「そ、そうよ。ホラ、あの国って芸能人でも構わず兵役に取られちゃうでしょ?」
「……まあ、いいですわ。確かに、憧れのユン様から死の間際に使命を託されたという過去があれば、主人公がスターを目指す動機にも一本筋が通りますわね」
ユカリさんは喋りながら大筆を振るい、ラ・フランス先生の述べた設定を墨文字に変えていく。虚空に浮かぶ整然とした文章の波が、大弓に
「主人公の動機はとりあえずマシになったけれど……でも、まだダメね。この主人公には決定的に不足しているものがありますわ」
「不足ですって? どういうことよ。若くてイケメンで歌も演技も上手くて、おまけに女心もわかる、完璧な男性じゃない」
「だからダメなのですわ。彼に足りないもの――それは『弱さ』よ」
ユカリさんの言葉に、ラ・フランス先生が「えっ」と声を漏らした。
「『弱さ』のない主人公では、ドラマを盛り上げることはできませんわ。この作品……せっかく無実の罪でスターの座を追われてしまうスリリングな始まり方なのに、彼が『才能』一つで全ての困難を乗り越えてしまうから、何一つドラマが成立していないのよ。まあ、WEBでは『俺
「……それは、そうだけれど……」
「このままだと、読者がこの主人公に好感を抱くことはありませんわ。伝わりませんわよ、韓流の魅力」
「……じゃあ、どうしたらいいのよ。若さもイケメンも歌も演技も外すわけにはいかないのよ!」
ラ・フランス先生は
「じゃあ、あくまで一例ですけれど、韓流スターとして致命的なハンディキャップを負わせるというのはどうかしら。並大抵の努力ではどうにもならないハンデを背負って、それすらも乗り越えて成長していく主人公……。ただの『俺
「韓流スターとして致命的なハンデって……何よ。人種が違うとか?」
「人種ネタなんてみすみす炎上の種を増やすようなものですわ。もっと、こう、誰もが同情するような――」
そのとき、先生がパンッと手を叩く音で、ユカリさんの台詞は遮られた。
「そうだ、そうよ! 目が見えないことにすればいいんだわ! 主人公はユン様と二人で戦場の爆発に巻き込まれて、命は助かるけど失明してしまうのよ。光を失う瞬間、最後に網膜に焼き付いたのが、自分のかわりに究極の韓流スターになれと思いを託してくるユン様の死に際の笑顔! どう? 完璧じゃない!?」
先生の目はギラギラと輝いていた。韓流ドラマを見て泣いていた時よりも、自作について熱弁を振るっていた時よりも。
「……まあ、いいんじゃないかしら。容姿や才能に恵まれていた主人公が一転、失明によって全てを失い、それでもユン様との約束を果たすために必死で韓流スターを目指す……。それなりに読める話になりそうな気がしますわ」
「そうでしょ、そうでしょ! それに、もう一つ思いついたわ! ユン様の遺志を継ぐ主人公と同じように――チャン様、ビョン様、ウォン様、伝説級のスター達から後継者に指名されたイケメン達が、ライバルとして
ユカリさんが仕上げの如く大筆を一閃すると、周囲に渦巻いていた墨文字の渦が、
ぱあっと周囲が紫色の光に包まれ、僕はあまりの眩しさに目を閉じる。次に目を開けた時には、どういう原理かわからないが、魔物に打ち壊された筈の大窓も元通りになっていた。
書斎のデスクの上には、入力を待っているような、ラ・フランス先生のデスクトップパソコン。
「さあ、ラ・フランス先生。今こそ紡ぐのですわ。あなたが伝えたい韓流の魅力を」
ユカリさんの言葉を聞いている時間も惜しいとばかりに、ラ・フランス先生は直ちにデスクに駆け寄り、どかっとチェアに腰を下ろしたかと思うと、凄まじい速さでパソコンのキーを打ち始めた。
ユカリさんはふっと笑って「変身」を解き、元の私服姿に戻る。そして、僕と女の子に歩み寄ると、一言、「もう大丈夫ですわ」と告げた。
書斎に響くのは、魂を叩きつけるような勢いでカタカタと鳴らされる、ラ・フランス先生のキーボードの音。猫背の姿勢でチェアに沈み込み、一心不乱に画面に文字を紡ぎ出す、ケバケバしい中年女性の姿を見て――
僕はちょっと、格好いいかも、なんて思ってしまった。
……ああ、そうか、これが創作意欲に
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