2-5 文芸の番人

「な、な、な……!」


 あんぐりと口を開けて後ずさるラ・フランス先生と、震えてへたり込んでしまった女の子と、ユカリさんの突然の臨戦態勢に驚いて目を見張る僕。

 三人の三者三様の反応をよそに、ユカリさんは紫の着物の袖をばさりとはためかせ、窓の外の魔物に向かって大筆を一振りした。その瞬間、天をも覆う巨大な影法師の足元がバラバラの墨文字に変わってかき消され、ダルマ落としの如く、魔物の巨体がゆらりと沈み込む。

 おいおいおい、と僕は頭の片隅に残る冷静さを総動員させ、脳内で突っ込みを入れていた。僕の事件の時にもそうだったが――ユカリさんの戦いは、いつだって唐突すぎるのだ。もっとこう、事前にラ・フランス先生に事情を聞いたりとか、街での被害状況を調べたりとか、色々やるべきことがあるんじゃないだろうか……?


「ユカリさん、そんな、いきなり――」

「前にも言った筈ですわ。兵は拙速をたっとぶ――プロフェッショナルの信条でしてよ」


 僕の横で、ラ・フランス先生が「は?」という顔をしていた。そうだ、先生にだけは僕の姿も声も認識できていないのだ。ただでさえ混迷を極める状況の中、ユカリさんが僕に向かって掛けた言葉は、ラ・フランス先生にはますますもって意味不明なはず。


「ラ・フランス先生、お見えになって? この魔物を形作る文字が」


 ぶん、と大筆を振るい、窓の上から迫りくる見越みこ入道にゅうどうの大腕を弾き飛ばしてから、ユカリさんはキッと振り向いて問うた。その瞬間、ユカリさんの美しい顔の向こうに、僕にもハッキリと見えた。ユカリさんの筆の力でバラバラに飛び散った魔物の腕――それを構成していた無数の文字列が。


 ――遡ること数世紀、日本は隣国との戦争に破れ従属国となった。隣国は経済でも武力でもなく文化の力で日本を統治しようと考えた。そこで敷かれたのが国民総韓流体制であった。日本国内では、日本人によるドラマや音楽の制作の一切が禁じられ、韓流ドラマとK-POPだけが唯一許される娯楽となったのである。反発する国民は容赦なく重刑に処せられた。そうして世代が二巡ほどする頃には、もう誰も「韓流」に疑問を持たなくなっていた――。


「そ、そ、そ、それ、あたくしの! あたくしの作品じゃないの!」

「そうですわ、先生。担当編集さんに反対された時点で止めておけばよかったものを。あなたがこの駄文を諦めきれずWEBに垂れ流してしまったために、こんなバケモノが――」


 喋りながら、ユカリさんは背後に向かって再び大筆を一閃。遥か上空から迫りつつあった魔物のもう一本の腕が、ざばっ、と真っ黒な文字の波に還元される。


「――生まれてしまったのですわ!」


 自分が睨まれた訳でもないのに、ユカリさんの眼力の強さに僕は思わず後ずさっていた。ラ・フランス先生がわなわなと震える腕を上げ、ユカリさんを指差す。


「さ、さっきから聞いてれば、プロ作家のあたくしに向かって何たる物言い……! あなたみたいな小娘に、あたくしの重厚なサイエンス・フィクションが分かってなるものですかっ!」

「これがScienceサイエンス Fictionフィクション? SFはSFでも、あなたのはSillyスィリィ Fantasyファンタジィ――『馬鹿げた空想』とでも呼ぶのがお似合いでしてよ!」


 ラ・フランス先生の言葉を真っ向から叩き潰して、ユカリさんが再び窓の外の魔物の姿を振り仰ぐ。彼女が大筆を巧みに振るって虚空に墨文字を描き出すと、巨大な影法師の動きが、ばちばちと爆ぜる文字の結界の中に封じ込められる。


「ラ・フランス先生、あなたは向き合わなければなりませんわ。ご自分の作品のダメさ加減に。でなければ……この魔物はこれからも力を増し、人を襲い続ける。あなたのWEB小説の読者が増えれば増えるほど……それを『つまらない』と思う負の感情が世の中に蓄積され、多くの人が魔物の犠牲になっていくのよ」

「そ、そんなことあるはずありませんわ! あたくしの作品は完璧な近未来SFなのよ! WEB向けのインパクトや、優れた文章表現も兼ね備えた、本格派の――」


 先生がほとんど金切り声にも近い大音声だいおんじょうでわめくのを遮ったのは、床にへたり込んだままの女の子の声だった。


「もうやめて、お母さん!」


 その大声に、ラ・フランス先生はハッとなった顔で娘を見た。女の子は震えの収まった足で立ち上がり、まっすぐ母親と向き合っていた。


「あの小説を評価してるのは、お母さんの熱心なファンと、星のお返し目当ての人ばかりだよ。掲示板の人達はみんな言ってるよ。あんなの小説以前のゴミだって。ラ・フランスの作品は編集さんの力でかろうじて出版に堪えるレベルになってただけで、本人はまともに話も作れない無能なんだって」

「な、な――」

「あたしの友達も見たのよ! あのバケモノを! その子は今も病院のベッドでうなされてるんだよ。お母さんが……あんな駄作を書いちゃったばっかりに……!」


 女の子の言葉の後半は涙交じりになっていた。娘の涙を見て我に返ったのか、ラ・フランス先生は表情を引きつらせたまま、口を開けて黙り込んでしまった。


「ラ・フランス先生。韓流の魅力を小説にあらわしたいのなら……僭越ながら、わたしがお手伝いをいたしますわ」


 ユカリさんが静かにそう言った。ラ・フランス先生は彼女を見て、娘を見て、また彼女を見た。


「あなた……一体何者なの」

「駄作バスター・式部しきぶ紫莉ユカリ。文芸の番人ですわ」


 大筆をヒュンと構え、紫の瞳をきらめかせて、ユカリさんはさらりと名乗りを上げた。

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