2-4 狂気の作家

「母は……韓流にハマってから、ちょっとおかしくなっちゃったんです」


 ユカリさんと僕を二階の書斎に連れてゆく最中さなか、女の子は声をひそめて言った。その声はまだ少し震えていたが、ユカリさんが「魔物」の存在に言及したことで、彼女は却って安心してくれたようにも見えた。


「また随分と今さらですわね。韓流ブームなんて一昔前でしょうに」

「そうですよね……。皆さん、そう言われます」


 くすり、と自嘲気味に女の子は笑った。笑えるだけの心の余裕が戻ってきたということらしい。


「韓流への愛に取り憑かれた母は、どうしても韓流ネタの小説を出したいって言って。でも、そのたびに担当編集さんに猛反対されて……。それで行き着いたのが、WEB小説だったんです」

「まあ……商業作家が更なる活躍の場を求めてWEBに手を出すのはよくあることですわ。問題は――」


 女の子と僕達は書斎の扉の前まで来た。室内からは、大音量で再生されていると思しき韓国語のドラマの台詞が、重厚な扉を貫いて廊下にまで溢れ出してきていた。


「――ラ・フランス先生の文才は、残念ながら、担当編集さんのサポートあってのものだったということですわね」


 ユカリさんの台詞に、女の子は一つ小さな溜息をついて、それからコンコンと書斎の扉をノックした。ドラマの音量でノックが聞こえないのか、中から反応はなかったが、彼女は構わず扉を開けた。


「お母さん。出版社の方がいらしたわよ」

「もう。今いいところなのに」


 そう言ってデスクのソファから振り返ったのは――なんというか、毒々しいほど明るい色に染めた、ふわふわした長髪に、女性の化粧のことなんて何も知らない僕でもウワッと引いてしまうくらいの厚化粧。「若作り」という言葉のおぞましさを凝縮したような見た目の、なぜか両目に涙をたっぷりと溜めた女性だった。


「せっかく今、オルチャン様が愛の言葉を……」


 と、紫色のハンカチで涙を拭いながら言ったところで、女性は初めて娘の傍らに立つユカリさんの存在に気付いたようで、「あら」と作り笑いでソファから立った。


「あらあら、ごめんなさいね、お待たせしちゃって。ラ・フランスですわ」

「はじめまして。雲隠くもがくれ出版より参りました、式部しきぶ紫莉ユカリと申します」


 ユカリさんは上品な所作で頭を下げた。ラ・フランス先生は「お若い方ねえ」とか何とか言いながら歩み寄ってくる。ものすごい香水の匂いだった。僕のいるところにはチラリとも視線を向けてこないのを見ると、どうやら娘と違って彼女には僕の姿は見えていないようだ。


「ごめんなさいね、すぐ応接間に――」

「いいえ。こちらで結構ですわ、先生」


 ユカリさんが言葉を遮って言うと、ラ・フランス先生は、えっ、と怪訝そうな目になった。

 それはそうだろう。先程の上品なお辞儀から打って変わって、ユカリさんの目は、あらゆる過程をすっ飛ばしていきなりの臨戦態勢に入っていたのだから。


「実はわたし――出版社の者というのは嘘ではありませんけど、先生のところには本日、取材で伺ったのではありませんの」


 ユカリさんは平然とラ・フランス先生の横を通り抜け、スタスタと書斎に足を踏み入れていた。「ちょっと」と先生や女の子が止める間もなく、彼女はデスクに近寄り、卓上のデスクトップパソコンの画面にちらりと一瞥いちべつをくれた。


「あなた、どういうつもりで――」

「ラ・フランス先生。わたしは退治しに来たのですわ。あなたの――『国民総韓流時代』が生み出してしまった魔物を」


 ピシリと言い放つユカリさんの言葉が、大画面のテレビから溢れる韓流ドラマの台詞をかき消さんばかりの勢いで僕達の耳に届く。


「な、な、あなた今、なんて――」

「駄作と申し上げたのですわ、ラ・フランス先生」

「なんてことを! なんてことを言うのっ!」


 僕はハラハラしながら二人の様子を見ていた。女の子も同じだった。ラ・フランス先生は今や、こめかみに血管を浮き立たせ、わなわなと身体を震わせてユカリさんを睨みつけていた。ユカリさんは素知らぬ顔でその怒気を受け流し、しゃっ、と窓のカーテンを開け放った。


「ご覧なさい、ラ・フランス先生! あなたにもお見えでしょう!」


 窓の外に映っていたもの、それは――

 虚空に浮かぶ、顔のない法師の姿。

 僕はぱちぱちと目をしばたいた。それがこの世のものでないことは容易く察せられた。窓の外に見える法師の姿は、見る見る内に、周囲の家々の上に影を落とすほどに大きくなっていく。天をも覆い尽くす巨体となって、目鼻のないその顔が、ぎょろり、と僕達を見下ろす――。


「ひっ!」

「あ、あ……!」


 ラ・フランス先生も、女の子も、揃って目を見張り、顔を恐怖に引きつらせていた。僕だって怖い。なんだ、あれは――!


見越みこ入道にゅうどう。雰囲気ばかり大仰に飾り立てて、細部のリアリティをとことん欠いた、あなたのゴミのような作品が生み出してしまった魔物ですわ」


 ユカリさんの目がぎらりとラ・フランス先生を見据えている。そこで、女の子が、恐怖に震える声で呟いた。


「あ、あれ……皆が倒れた時にも見た、バケモノ……!」


 ぴくり、とラ・フランス先生の肩が動いた。

 女の子の言葉を引き継ぐように、ユカリさんが言う。


「そう。この魔物は既に、この街で何人もの犠牲者を出してしまっているのですわ。だから、一刻も早くそのみなもとを絶たなければならない――わたしはそのために来たのですわ、ラ・フランス先生」


 ユカリさんはいつのまにか紫色の扇を手にしていた。そんな、そんな、と壊れたレコードのように繰り返し呻くラ・フランス先生の前で、彼女はバサリとその扇を広げてみせる。

 その途端、ユカリさんの闘気と呼応したかのように、窓の外の巨大な法師の影が、ぶん、と腕を振り、がしゃんと書斎の窓を叩き割ってきた。

 ユカリさんは素早く魔物に向き直り、扇を一振りして、凛と通る声で叫ぶ。


「オン・アラハシャノウ・ソワカ!」


 そして――ユカリさんは、。紫の着物に身を包み、身の丈ほどもある巨大な大筆を携えた、戦いの姿に。

 刹那、紫の閃光が書斎を染め、魔物の振り上げた腕を弾き返す鉄壁のカーテンと化す。


「――推敲の時間ですわ」


 声も出せない一同に向かって、ユカリさんの背中がそう告げた。

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