1-9 旅立ち

「……凄い」


 眼前で繰り広げられるユカリさんの「戦い」を見て、僕がこぼした感想はただ一言だった。

 仮にも作家志望のくせに、我ながらなんて貧弱な語彙ごいかと呆れてしまうが――だって、ユカリさんの御業みわざを表現するには、百千の比喩を並べるよりもその一言の方が正確なのだから仕方がない。


「ご覧なさい。あなたの小説に足りなかったもの――これが『一貫性』ですわ」


 ユカリさんが大筆で一文を紡ぐたび、動きを封じられた怪物の周囲で霊気がばちばちと火花を散らす。首だけの怪物が顔を歪めて苦しみの声を上げる中、僕はユカリさんが繰り出す文字の洪水に目を釘付けにされていた。


 現に彼女の「推敲」を目の当たりにしている今なら、自分の作品に足りなかったものが僕にもはっきりとわかる。

 書籍化作品と比べて、僕の作品には何も「特別なもの」がない――それは昨夜からわかっていたが、取りも直さず、それは、僕の書いた物語には一貫性がないということでもある。作品を貫く特別なテーマが不在なのだから、一貫したストーリーなど描き出せるはずもない。


 そこにユカリさんが打ち込んだ支柱が、主人公の「優しさ」だった。

 彼女が即席で僕から引き出した、作品全体を貫く一つのテーマ。主人公のキャラクター性、行動原理、周囲の人々から認められ慕われる理由――それらすべてに一本の芯を通す、一貫したコンセプト。

 キャラクターもストーリーも軸がブレブレだった僕の作品が、ユカリさんの美しい筆致のもと、見る見るうちに書き換えられ、作り変えられていく――。


「――これでひとまず、完成ですわ」


 ユカリさんが紫の着物の裾をひらりと翻し、僕に向かって身体全体で振り向いたとき、その背後で魔物が醜悪な断末魔を上げて爆発四散した。

 僕の駄作から生まれた妖怪ようかい変化へんげが、彼女の大筆の力で浄化され、無に還ったのだ。


「……ユカリさん」


 僕は呆然と立ち尽くし、彼女の凛々しい顔をぼうっと見ていることしかできなかった。

 しゅん、と教室内に風が吹き抜けて、ユカリさんの装束が紫の着物姿から元のレディススーツ姿に戻る。彼女が抱えていた大筆も今や消え失せ、そのたおやかな手には紫の扇子が握られているのみ。

 同時に、僕を守ってくれていた結界も解けて、僕はなぜか息苦しさから解放されたような気分になる。結界が空気の流動を妨げていたなんてことはないはずだが、不思議と僕は、ものが落ちたような、理屈不明の開放感を味わっていた。

 よりによって、この僕が「憑き物が落ちたよう」なんて、なんとも皮肉な感じではあるが――。


「あなたの作品はひとまずレベルのものになりましたわ、『Killerキラー-Kケイ』先生。ここから先はあなたの好きなようになさい。続きを書き続けるもよし、新たな創作に励むもよし、これにりて成仏じょうぶつするもよし――」

「僕は書き続けますよ」


 ユカリさんの言葉に被さるくらいの勢いで、僕はきっぱりと言い切っていた。僕自身が考えてそう述べたというより、何か大きな力が僕にそう言わせたような気もした。

 美しすぎて目を合わせるのも恥ずかしいと思っていたユカリさんの顔を、なぜだか今はまっすぐ見ることができた。

 僕は思っていたのだ。もっと小説を書きたいと。自分自身の手で、今度こそ、人から面白いと思ってもらえるような作品を書きたいと。

 僕の身の上で、書き上げた作品を世に出すことができるかは、わからないけれど――

 それでも、僕は書き続けたい。前より少しでも良い作品を。僕がこの世に居られる限り。


「いい目になりましたわね。次回作を楽しみにしていますわ」


 夕陽の差し込む教室に、ユカリさんの美しい声が響く。


「また、あなたの作品が魔物を生んでしまったら――わたしはいつでも駆け付けますわ。その日が決して訪れませんことを」


 そう言ってユカリさんはきびすを返し、教室の扉へ向かう。いつの間にか、彼女が扉の内側に貼り付けていた御札おふだも霧のように消え失せ、教室は普段通りの姿を取り戻していた。

 からりと扉を開けて、振り向きもせず出ていくユカリさんの背中に――僕は思わず声を掛けてしまう。


「ユカリさん!」


 ユカリさんは親切に足を止めてくれた。教室を一歩出たところで彼女は立ち止まり、「なあに?」と僕に柔らかい視線を向けてくる。

 表情はまったく怖くないのに、その瞳は僕の全てを見透かしてくるかのようで、僕はごくりと息を呑んだ。


「……あの」


 僕はなかなか言葉を切り出せなかったが、しかし、言わなければ始まらない。


 僕がユカリさんを呼び止めてしまった理由なんて、一つに決まっている。

 このまま彼女と別れるのが寂しかったから? 出来ることなら友達になりたいと思ったから? ――そんな陳腐な理由じゃない。

 僕は、もっとユカリさんの教えを請いたいと思ったのだ。

 あの駄作をいとも容易く「推敲」し、まともな小説に生まれ変わらせてくれた彼女の手腕に、僕は一瞬で心を撃ち抜かれてしまった。もっと多くのことを、もっと深いことを、今後も彼女から教わってみたい――。

 甘えだと切って捨てられるかもしれないが、僕は、ユカリさんの指導の元で小説を書き続けたいと思ってしまったのだ。


「僕も連れて行ってくれませんか」

「え?」


 僕の思い切って発した一言に、ユカリさんが目を丸くする。それは、僕が初めて目にした、彼女のの反応なのかもしれなかった。


「……ユカリさん、これからも事件を追って色んな現場に行くんでしょ。邪魔はしませんから――時間があるときに小説を教えてほしいんです。お願いします」


 僕は深く頭を下げた。その頭上から、ユカリさんの戸惑ったような声が聴こえる。


「そんなこと言ったって、あなた、学校は――」


 そこでユカリさんはハッとしたように言葉を止めた。僕が顔を上げると、彼女は、あっ、と何かに気付いたような顔をして口元を片手で覆っていた。


「大丈夫ですよ。僕、地縛霊じゃなくて、


「……そうでしたわね。わたしとしたことが……一瞬、頭から消えかけていましたわ。あなたの瞳があまりに活き活きとしていたから。……そう、まるで、


 ユカリさんは得心したようにニコリと笑い、一秒後、僕にとって何よりも嬉しい答えを返してくれた。


「いいですわ、付いていらっしゃい。あなたの魂が未だ成仏できずにいると言うのなら――わたしが、あなたの未練を成就じょうじゅさせる手助けをしてあげますわ」


 僕は、ぱあっと自分の顔に熱い血流が流れ込むのを感じた。にはあまり体験することのなかった、嬉しさという感情。

 現実にその血が流れていた肉体はもう何年も前に火葬場の煙になってしまったが、僕の魂は今でも、この世に生まれ落ちた時に与えられたその感情を覚えていたらしい。


「よろしくお願いします、師匠」

「師匠はおやめなさい。ユカリさんで結構ですわ」


 僕のおどけた呼び方をぴしゃりと切り捨て、ユカリさんは颯爽と廊下を歩きだす。僕は、彼女が閉めた後の教室の扉をすり抜け、その背中を追う。

 途中、行き会った女子達とユカリさんは楽しげに談笑を交わしていた。僕は口をつぐんでその会話が終わるのを待つ。

 生徒にも先生にも「」が居ないこの学校では、自分の存在を誰にも認知してもらえないのは慣れっこだったが、これからの僕にはユカリさんという話し相手がいる。

 いつか、この世を離れる時まで――僕は彼女のもとで小説を書き続けようと誓った。その指導がどれほど厳しく、心をえぐるものだったとしても。

 彼女の教えがあればいつかは必ず名作を生み出せると、はっきり信じられたから。


 そう、これは、僕の新たな旅立ちの物語だ。

 いつか自力で「ゴミ」を卒業する日まで。ユカリさんの厳しいダメ出しを食らいながら、これからも僕は物語を紡ぎ続ける。


 いつか、どこかで、僕の書いた小説を見かけたら――

 その時は、気軽に星を投げてやってほしい。


(第1話 完)

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