第五話 聖女、魔女と話す。
のちにフレアの第一印象を聞かれて、三上ユウヤはこう答えた。
「マジ天使ってやつ初めて見たからさー。おれら、めっちゃ頑張って声かけたんだけど」
それからユウヤは急に沈んだ表情になって口をつぐんだ。ことばが思い浮かばないようだった。すると隣にいた金田マコトが興奮気味にしゃべりだした。
「それがよー。最初は微笑んでたのに、急に顔が能面みたいになったんだよ。なんつっか、その……人間だと思ってしゃべってたら、いつのまにか人形になってた、みたいな。おれらみたいなのが話しかけちゃいけないかったんだよ」
マコトは身震いした。
入学式のあいさつで一躍、学年一、いや、学園一の話題の生徒となったフレア。都市伝説じみたフレアの風評は、そんなフレアの人気にかえって拍車をかけた。だが、そんなことはフレアにはどうでもいいことだった。
フレアはそのとき、廊下を走り去るセカイの後ろ姿を振り返ることもできず、硬直したユウヤとマコトを置いて、ふらふらと歩き出していた。
とにかく静かなところに、とフレアは彷徨った。セカイを追いかけて首根っこを捕まえたかったが、聖女としてのプライドがそれを許さない。
教室の並ぶ廊下は帰宅か部活かの生徒で溢れていた。何人かがフレアに声をかけようとしたが、その表情を見るとみな硬直した。
しばらくすると、フレアはそうと気づかないうちに渡り廊下を渡り、教室のある校舎から離れたところにある事務棟まで来ていた。
お昼前で事務員たちはまだ執務中だった。辺りに生徒はいなかった。
ところが、フレアの目の前にあった「高等部庶務課」と書かれたフダのかかった扉が開いた。
中から出てきたのは、早めの昼休みに入った事務員、ではなかった。
黒縁メガネにブラックスーツ。成長したフレアよりもさらに高い身長。そして無地のスーツの上からもわかる圧倒的重量級の胸部。
ユキノだ。ユキノはフレアなどそこにいないかのように通り過ぎようとした。
「なんで、あなたがこんなところに」
フレアは思わずつぶやいた。真っ白だったフレアの顔が一瞬で血の色を取り戻していた。
ユキノはフレアのつぶやきを聞き咎めた。
「教師だって年休は必要だ。手続きをとっていただけだが」
振り返ったユキノとフレアの目が合った。
ユキノさえタクシーから降りてこなければ、今ごろ地元でセカイと平和に暮らしていたはず、そう思うと、フレアは今にもユキノにつかみかからんとする自分に気付いた。
フレアが必死で自分を抑えていると、ユキノは言葉を続けた。
「ここは事務棟だ。ふだん生徒が立ち入る場所じゃない。入寮手続きを忘れていたんじゃないだろうな、白音フレア」
名前を呼ばれフレアは目を見開いた。
「どうしてわたしの名前を?」
「ふしぎなことを言うヤツだな。わたしは一年の理科担当で、おまえは一年のトップだ。知らんわけがない。朝はお立ち台であいさつもしてただろうが」
ユキノは腰に手を当て、呆れたような表情を浮かべた。
その表情を見て、フレアは急に俗世、いや現実に引き戻された。相手は教師だ。いち生徒として、礼を失するわけにはいかなかった。フレアは一応それでも学校では優等生だ。
「申し訳ありません。広い校舎なので、いろいろ見て回っておきたくて。失礼します」
フレアは当たり障りのないことを言って、その場を去ろうとした。だが、そうはいかなかった。
ユキノは考え込むような表情をすると、手のひらを軽く合わせた。
「では、わたしが校内を案内してやろう。これも何かの縁だ」
天使の営業スマイルを貼り付けつつ、フレアは観念した。優等生のフレアには、教師の申し出を拒否するという選択肢はなかった。
「ぜひともお願いします」
二人は、事務棟から教室棟に移動し、音楽室や美術室のあるフロアを見て回った。
入学オリエンテーションが終わってすでに時間が経過していたため、廊下ではあまり人に会わなかったが、出くわした人はみな一様に、学園で一、二を争う美女と美少女が一緒に歩いている姿に感動した。
「……で、ここが理科実験室」
そこは一クラス全員が実験器材を優に扱うことのできるスペースをもった大きな部屋だった。
ユキノは器材の説明もしないで、つかつかと実験室を横切ると奥の扉を開けた。
「で、ここが理科実験準備室。わたしの私室のようなものだ。狭いが楽にしてくれ」
理科準備室はそれでも十畳くらいの広さはあり、デスクと椅子を完備していた。
ユキノはまるで高級オフィスにあるようなエルゴノミックデザインの椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。それからフレアに向かいにある椅子を勧めた。来客用と思われる椅子は、ふつうの事務椅子だった。
フレアは不自然に思われないよう天使の微笑を貼り付けつつ座った。フレアが座ると、ユキノは椅子に大きくもたれかかった。
「つまらん学校だが、三年間は我慢してくれ」
そして、ユキノはフレアの顔を見た。それから少し天井を見て、フレアに目を戻した。
「ふむ。貝瀬のことはすまなかった」
貝瀬。セカイの名字だ。フレアは動揺した。ユキノはと言えば、フレアを見ていた。いや、観察しているようだった。
ユキノはいったい何を謝罪しているのか、フレアには見当がつかなかった。セカイの謝罪は望んでいたがユキノの謝罪は想定外だった。
「貝瀬セカイくんのことですか? 確かに出身地は同じですが、それが何か」
フレアの動揺は、あるいは声に出ていたかもしれなかった。
「いや、その、なんだ」
ユキノはフレアから目を逸らし、脚を組み替えた。
「まさか、きみが貝瀬を追ってくるとは思わなかったんだ。聖女が一人の男のために聖地を離れるなんてな。わたしはきみを追い詰めるつもりはなかった。すまない」
そう言うとユキノは姿勢を正し、頭を下げた。フレアは困惑した。確かに聖地を離れたが、それは迷えるセカイを救うという聖女としての功徳のためで、追い詰められているつもりはなかった。
「わたしが白音教の関係者だとご存知のようで少し驚きましたが、わたしの進学はわたしの宗教と何の関係も問題もありません。ご心配は無用です。それに、わたしは学校では宗教をもちださないことにしていますので、お気遣いも無用です。それより、先生がさっきから何をおっしゃっておられるのか、わかりません。わたしが地元を離れたのは受験のためです。難関大学を目指してますので。セカイくんは関係ありません」
ユキノは少し驚いた顔をして、また脚を組み替えた。
「そうか。ならいいんだ。わたしはてっきり、きみが幼馴染への想いに気がついたのかと思ってな」
それからユキノはフレアの目を今度は見ながらはっきりと言った。
「では、きみには遠慮しないことにしよう」
フレアは自分の顔が熱くなるのを感じた。このままでは、何か、とてもよくないことになりそうだと感じていた。
「『遠慮』ってどうゆうことですか」
フレアは今度こそ感情を隠し切ることができなかった。ユキノはそれに敏感に反応した。
「もう一度聞くが、貝瀬はきみの彼氏、恋人、好きな男ではないんだな」
「ありません」
フレアはなんとか微笑むことに成功した。天使の営業スマイルは神楽舞の次くらいには得意だった。
ユキノはまた脚を組み替えた。
「前にも聞いたな。しつこくてすまない。だから、というわけでもないんだが……まあ、いい。ともかく、貝瀬をこの学校に推薦したのはわたしだ。きみのことは貝瀬から聞いた」
ユキノがセカイを久然学園に推薦したことは、フレアの想定内ではあった。だが、その前提は想定外。ユキノとセカイとのあいだに何らかのつながりがあるはずだったが、それをフレアは計算に入れていなかった。いったいユキノはセカイと何をどこまで話したのか。ユキノはセカイからフレアとはどんな関係だと伝えられたのか。フレアは、しかし、そうした疑問をユキノにぶつけるわけにはいかなかった。セカイとフレアは何の関係もないはずだったからだ。
そんなフレアの心の内など、ユキノは知ってか知らずか容赦なく続けた。
「で、『遠慮』というのだはな。話せば長くなるんだが、わたしは見ての通り、あまりコミュニケーションが得意なほうではない」
フレアは、朝の入学式の時を思い返した。周りの教員が新入生を笑顔で迎えているのに、一人ユキノは無関心な様子で今から思えば浮いているようだった。
「それがどうしたわけだか、よくつきまとわれるんだ。教師が相手ならわたしがセクハラだと訴えれば済むので問題ない。だが、生徒が相手だとややこしくてな。よくあるのが、わたしが男子と少し言葉を交わしただけで、その彼女だとかいう生徒がわたしにクレームをつけるケースだ。彼氏がわたしのせいでおかしくなった、なんてな。だから、わたしは誰かの『彼氏』にはとくに気をつけて関わらないことにしているんだ」
ユキノの魅力に囚われてセカイもおかしくなった、ということなのだろうか。だから、セカイはフレアを無視したのだろうか。フレアには、そんなに単純なことのようには思えなかった。
「セカイくんが先生につきまとっているのならはっきりと拒否すればいいだけです。わたしに遠慮は要りません」
セカイがユキノにつきまとっているだけなら、それはセカイの問題だ。セカイの問題だけならフレアは聖女としての赦しで解決するつもりだった。教師に憧れるなど、セカイには心得違いも甚だしい、セカイが憧れるべきは常に聖女なのだ、と説くつもりだった。
「そこなんだがな」
ユキノは初めて感情らしいものをフレアに見せたかもしれなかった。ユキノの表情には、当惑が浮かんでいた。
「逆だ。わたしが貝瀬に話を聞いてもらっている」
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