グノシェンヌ

海月ゆき

グノシェンヌ第一番

 ミシェル・オベールはふと足を止めると天井を振り仰いだ。高い天井にはフレスコが描かれている。回廊から淡く差し込む陽の光もあいまって、幻想的な雰囲気を醸し出していた。その絵の美しさに目を奪われてミシェルはしばし見惚れる。

 そんな彼女の脳裏に昨夜の事が思い浮かび、柔和な顔に陰を落とした。


 ――どうして私が。

 ――……好きでもない方との結婚だなんて。




 この時世、政略結婚が盛んに行われる中世時代。

 オベール家も例外なく、一人娘のミシェルにも縁談の話が寄せられていた。昨夜父にその一部を紹介され、大人げないとは分かっていても理不尽さに八つ当たりをしてしまった。『そんなものに縛られたくはない』と主張する娘に父親も頭を悩ませている。

 ミシェルはため息をついた。


 大聖堂から出ると丁度馬車が目の前に停まった。降りてきたのは使用人のシルヴィーだ。


「やはりこんな所にいらしてたんですね。旦那様が心配してましたよ」

「平気よ。ここはお屋敷までそう遠くないもの」


 そういう問題じゃありませんよ、とシルヴィーはこぼしながらミシェルを馬車に乗るように促す。


「最近随分と物騒になりましたし……ほら、今世間を騒がせている輩もおりますでしょう? 確か――」

「吸血鬼伯爵よ」

「そう、それです! 狙われるのは女性ばかり、しかも全身の血を抜かれるという何とも怖ろしい……」


(吸血鬼伯爵……ヴァンパイア、ね)



 シルヴィーの話は耳に入らず、車窓に映った風景が緩やかに流れるのをぼんやりと目で追う。ミシェルは三日前、その一連の事件の犯人と会っていたのだ。翌日のゴシップ記事に載っていたので、遭遇したのは事件直後だったのだろう。





 その夜は青白い満月が顔を出していた。

 ミシェルは盛大な社交会に招かれていた。しかしミシェルにとってはそれは退屈でしかなく、途中で抜け出して家のものからの馬車を待っている所だった。周りに立ち並ぶ貴族たちの壮麗な家々に灯る暖かい光を眺めていると、秋を運ぶ冷たい風がにわかに吹いた。――瞬間、全てが闇に包まれた。その闇の中でミシェルは三日月を見る。


(違うわ、今夜は満月のはずよ)


 再び現れた満月の下、ミシェルは息を詰めた。

 白い肌を漆黒で身を包んだ者が広いテラスの先に居たのだ。手にしている白銀の大鎌が宵闇に冴え冴えと輝きを放っている。しかし不思議と怖くはなかった。


「――もし。どなたでしょう?」


 思い切って声を掛けてみるが、振り向いたその者の容姿にミシェルは驚いた。白い肌に血のような赤い瞳、高い鼻梁。

 なんて綺麗な方。それがミシェルの抱いた第一印象だった。


「吸血鬼伯爵と言えばお分かりですか、マドモアゼル?」

「あなたがあの事件の?」

「勿論ですとも。……私が怖くないのかね?」

「だって、人のかたちをしているもの」


 すると伯爵はくつくつと笑った。


「貴女は興味深い。……さて、もう行かなくては。マドモアゼル、ごきげんよう」


 バサリ、と伯爵は黒い外套を翻す。今にも闇に溶け込みそうだ。


「待って……!」


(――行ってしまう)


 そう思ったとき、ミシェルは無意識のうちに声を上げていた。伯爵は驚いた顔をしたがふっと表情を戻してミシェルへと歩み寄る。跪くとミシェルの手を取って接吻け、薔薇の刻印が刻まれている指輪を優雅な仕草で嵌めた。

 驚いたミシェルの耳元で密やかな音色を奏でる。


「いつか貴女を戴きに参る。指輪はその証として貴女に贈ろう」

「――……っ!」


 目が合うと伯爵は不敵に微笑んだ。伯爵の整った顔を間近で見て、ミシェルの心が跳ねる。その間にも伯爵は地を蹴って軽やかに舞い上がった。月の光に反射して大鎌が煌めいた。外套や髪を夜風に靡かせ、遠ざかり消えゆく。その後には月光に霞む闇が残るばかりだ。

 先程の出来事が嘘のように幻想的な静けさがそこにあった。


 しかしミシェルの左薬指に嵌っている指輪が、夢でなかったことを主張している。





(好きでもない方と結婚するよりは、いっそのこと伯爵に……)


 そこまで考えてミシェルはかぶりを振った。伯爵の事を間に受けているわけではない。しかし仄かに期待してしまうのだ。この退屈な毎日から抜け出せるかもしれないと。

 屋敷に着くとミシェルは休むために自分の部屋へと戻った。暫くしてノックが耳に届き、ドアが開かれる。


「お嬢さま、手紙が届いていますよ」


 別の使用人から手紙の束が渡された。ミシェルはげんなりしたがその中で一通だけ、差出人の書かれていない手紙が混ざっていることに気付く。


「ありがとう」


 会釈をしてドアの向こうへと消えてゆく使用人に声を掛ける。鏡台の椅子に腰掛けて、ミシェルは手紙を見つめた。


「誰かしら……。縁談についてのことなら、必ず差出人が書いてあるはずなのに」


 興味を覚えて封を開けてみると薔薇の香りが微かに漂い、鼻腔をくすぐった。中には一枚のカードが入っているだけだった。


“今宵、貴女の想いを狩りに参ります”


 流麗な字で綴られていた文面の最後には指輪と同じ、薔薇の刻印が捺されていた。


(あの方だわ)


 ミシェルは確信するともう一度手紙を読み返した。逸る心を抑えようと窓を開け放つ。午後の乾いた暖かな空気が流れ込んでくる。窓の縁に肘をついて空を眺めるうちに、心地良さにいつしか瞼が下りた。



「…………さま。……お嬢さま、こんな所で寝ていると風邪を引きますよ。早く起きて下さいな」


 心地良い微睡みから引き戻される。ミシェルは目を開けると、頭をゆっくりと持ち上げた。


「シルヴィー?」

「何ですかお嬢さま、寝ぼけないで下さいまし。……あら」


 シルヴィーは腰に手を当ててミシェルの顔を覗こうとし、ふと窓際に置かれた手紙が視界に入ったらしく、声を上げた。


「また殿方からの縁談の手紙ですか?」

「え、ええ。そうよ」


 ミシェルは曖昧に微笑って手紙を手に取る。それを見たシルヴィーは窓を閉めながら朗らかな笑い声を立てた。


「珍しいですね、お嬢さまが手紙を読まれるなんて。それはそうと、今夜は舞踏会が開かれるのでしょう? 早く支度をして下さいな」

「分かったわ」


 どことなく落ち着かない態度のミシェルにシルヴィーは頭を捻ったが、ミシェルの用意を取りに行く為に一旦部屋を出た。ドアが閉まるとミシェルは胸を撫で下ろした。この事は誰にも知られたくなかったのだ。


(絶対に大騒ぎするに決まってるわ。特にお父様は)


 手元の手紙に視線を落とし――鏡台の裏へと隠した。





 舞踏会場に着くと、既に大勢の人がいた。お喋りに興じている者もいればお酒や食事を楽しむ者もいた。それを眺めていると肩を叩かれた。振り向くと、友人のオルガが立っていた。


「やっぱりミシェルだったのね」

「オルガ! 相変わらず元気そうで何よりだわ」

「お互い様よ」


 二人は笑い合う。そのまましばらくお喋りに華を咲かせていると音楽の曲調が変わった。その時一人の男に声を掛けられた。視線はミシェルのみ注がれている。


「よろしければ私と一曲いかがですか?」


 ダンスを申し込んだ相手は確か、手紙で縁談を持ちかけた中の一人だ。


「ほら、楽しんでらっしゃいよ!」

「ちょ、ちょっと……!」


 オルガに背中を押されてしまった。これは唯の社交辞令だ、とミシェルは自分に言い聞かせて差し出された手を取る。優雅な音楽に合わせて男がエスコートするままにミシェルは滑るように足を踏み出した。


(ルックスはまあまあ、ダンスもお上手ね。でも私の好みではないわ)


 ミシェルが心の中で呟いていると、男は声を潜めて、しかしにこやかに話し始めた。


「まさかあなたとダンスを踊れるなんて、感激ですよ」

「あの……あなたは?」


 ミシェルが尋ねると、男は軽く苦笑した。


「これは失礼しました。先日あなたに手紙をお送りした、マリユスと申します」



 ダンスを踊り終えると、マリユスはミシェルをエスコートしたままテラスへと移動した。外は綺麗な月が輝きを放っている。手にしたグラスの片方をミシェルに渡すと、マリユスは真摯にミシェルを見つめた。


「改めてお伝えしましょう。先程私の手を取って下さったように、これからの道をお互い支え合う者として……私の手を取っては下さいませんか」


 マリユスの申し出にミシェルは瞳を伏せた。答えなんてとうに決まっている。一呼吸置いて、否の返事を返す為に口を開いた。


「ごめんなさい。あなたの期待には添えれませんの」

「……そうですか」


 ミシェルはてっきりマリユスが落胆するかと思っていた。しかしマリユスは笑顔を浮かべた。


「あなたを困らせてしまってすみません。このことはなかった事にして下さい。でもあなたと踊れてとても嬉しかったですよ。では失礼」


 テラスを離れて去ってゆくマリユスを見送ると、ミシェルはテラスの縁に身を預けて月を眺めた。あんなにも本当の気持ちを言えたのは初めてだ。また、相手が自分の言う事をきちんと受け止めてくれたのも初めてだった。

 ミシェルは月に微笑いかけると、晴れ晴れとした面持ちで会場に入った。


 ――突然、会場内の照明が全て落ちた。不自然なほど濃い闇。不安がその場に満ちてざわめきに変わる。その混乱の中、密やかな声が耳に届く。


「――――――」


 振り向いたその先に、吸血鬼伯爵が立っていた。


「ご機嫌麗しゅう、マドモアゼル?」


 シルクハットを取り会釈をする。ミシェルは微笑んだ。


「ミシェルとお呼び下さい、吸血鬼伯爵さま」

「では私のことはエルネストと」


 伯爵は顔だけ上げて、頷いたミシェルに不敵な笑みを向けた。


「お約束通り、貴女の想いを狩りに参りました」


 瞳を伏せるミシェルの頭上に、三日月に煌めいた大鎌が振り上げられる。






 オベール家の娘が失踪してから一ヶ月が経つ。巷を騒がせていた吸血鬼伯爵も忽然と姿を消した。失踪したオベール家の娘は吸血鬼伯爵の最後の犠牲者だろうと囁かれているが、今までの事件とは違って遺体は発見されておらず、真相は定かではない。



 シルヴィーが掃除用具を持って、ミシェルの部屋に踏み出した。一ヶ月前と変わらぬ部屋を見渡す。ミシェルがいつ帰ってきても良いようにと綺麗に掃除をしておくのだ。


「……お嬢さま」


 目頭をそっと押さえると、窓を開けて清掃を開始した。鏡台を動かした時、手紙がひらりと落ちた。拾い上げると見覚えのある手紙だった。


「確かお嬢さまが読まれた縁談の手紙よね。鏡台に隠すなんて……よほど大切なものだったのかしら?」


 封を開け、綴られた文を目で追うシルヴィーの顔からさっと血の気が引いた。


「やっぱりお嬢さまはあの吸血鬼伯爵に――……」




 だが――親が決めた相手と結婚して安全だが退屈な日々を送る事より、自分で決めた自由で困難な道を選んだミシェルに、誰が責める事が出来ようか。


 その後、ミシェル・オベールがどうなったのかは誰も知る由もない。

 ……ただ一人を除いては。

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グノシェンヌ 海月ゆき @yuki_kureha36

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