エンジニアの私が異世界に転生してしまった件について、ぜひ君の意見を聞かせてくれないだろうか
とんぼとまと
幼馴染と聖なる騎士団
第1話 僕と私の割り切れなさ
その日、僕は桶を持って林の中を走っていた。一心不乱に走っていた。脇腹に激痛を感じながらも、それでも躊躇う暇はなかった。
僕の住む村の近くには小さな川が流れている。いつも父と母と話をしながら、一緒に水を汲みに行った川だ。
僕はその川で桶いっぱいに水を汲んでから、また来た道を戻った。大好きな父と、大好きな母が待つ家へ急いで戻るために。
でも、帰り道は足が満足に動かなかった。こんな小さな身体では、長い距離を休みなく走れもしないのだろう。
途中で何度もつまづいて、桶から水を溢してしまった。それでも、まだ一杯分くらいは残っていた。
病で床にふせっている母の元に、この水を届けなければいけない。その使命感が僕の身体を動かした。
家に着くと、僕は深呼吸をしてから扉を開けた。家の中には父がいた。父は一人立ち尽くし、そして泣いていた。
「父さん……」
僕は呼吸が上手く出来なくなった。わなわなと手が震え、何が起きたのか理解してしまった。寝室の扉は開いていた。その向こうに見えた母の姿、顔には白い布が被されている。
母はか細い声で言ったのだ、お水を飲みたいと。だから僕は川に水を汲みに行った。苦しむ母の姿をずっと見ていた。だから、せめて、そのお願いを叶えてあげたかった。今の僕なら水を汲みに行ける。手も足も満足に動く。
しかし、結局は間に合わなかった。
僕は父と母を見て、桶を床に落とした。もう身体に力が入らない。カランコロンと桶が床を転がり、乾いた床に水が染みていった。
その日、大好きだった母は亡くなったのだ。もう二度と、母の優しい声を聞くことは出来ない。温かい笑顔を見ることも出来ない。そして、母にありがとうも、大好きだとも伝えられない。
僕は無力感に苛まれた。そして私はこの世界に失望した。
翌日になり、母の葬式は静かに執り行われた。淡々と、まるで作業の様に、母は穴に埋められた。更に土を被されて、すぐに見えなくなった。
優しかった母は、土の上に置かれた小さな石になってしまった。
あれから父とも会話をしていない。だが気が付いた時には、父は村から消えていた。僕は父に捨てられた様だった。
周りの皆は僕に気を使ってくれた。何か色々と話をしてくれたが、それでも今は何も頭の中に入ってこない。
父と母と暮らした小さな土作りの家も、僕一人では大き過ぎる。父と母と一緒に寝ていた木のベッドも、僕一人では広すぎだ。
余白の多いベッドの上に寝ていると、もう起き上がる気力もない。母の最後のお願いを叶えられなかった、それがどうしても悲しくて、悔しかった。
何故この村には井戸がないのだろうか。田舎だからか、むしろ田舎なら井戸くらいあってもいいだろう。水道も電気もない。いったい、ここはどこの陸の孤島なんだ。
ポンプでもあれば簡単に水を汲み上げられるのに。そうだ水中ポンプだ、あれは便利な道具だ。
掘削工事をすれば地下水が湧き出てくる、その水を一時的に他所へ排出する、水替え作業には必須だったな。
いや、今更こんなことを思い出しても仕方がないが。まったくもって、私の気持ちは鉛の様に重たく沈んでいた。
すると、家の扉が勢いよく開けられた。
「ねぇ、ナットいるの? いるなら返事してよ!」
向こうから小さな女の子の声がする。ナットがいるとは、それが必要だと言うことか。ボルトの締結部品のことだと思うが。そう言えば、この村では見たことはなかった。
その声は遠慮なく、ずかずかと家に入ってくる。そして、目の前の扉が開け放たれた。
「やっぱり、ここにいた……ナット、私の家に来てって言ったでしょ。一緒に暮らそうって約束したじゃない!」
この子は何を言っているのだろう、私の名前は佐伯雄二だ。それに、私の様な三十歳を過ぎたおじさんが、君の様な小さな子と暮らしたら犯罪だろう。
未成年略取で逮捕されてしまう。いや、待て……。
私は自分の身体を見た、小さな手が見える。とても大人の手には思えない。何だこれは。
父と母と僕は確かにこの村で暮らしていた。先月で八歳にもなった、皆んなでお祝いもしたんだ。
それなら、この私はいったい誰だ。頭が割れそうに痛い、吐き気がする。
僕は、私は、いったい誰なんだ。まるで目眩の様に視界がグルグルと回り、そうして私は意識を失ってしまった。
気がつくと、私は温かい部屋で寝かされていた。ここは私の家ではない様だが、どうやら見覚えがある。僕の幼馴染の部屋だ。
質素な作りだが、花や小さな小物が飾られて、女の子らしい部屋に思えた。壁には、くすんだ小さい鏡が掛けられている。
少し身体を起こして鏡を覗くと、見覚えのない顔があった。茶色い髪の、特徴のない小さな子供の顔だ。
まだ頭痛がする、喉もカラカラに乾ききっている。思えば母が亡くなってから、何も口にしていなかった。
「ねぇ、お母さん。ナット大丈夫かな?」
「大丈夫よ。オリビアがたくさん愛してあげて。そうしたら、彼の悲しみもいつか癒えるから」
扉の外で声がした。オリビア、それが彼女の名前だったか。ずっと一緒に育ってきたのに、この部屋にも何度も遊びに来たはずだが。何だか今は、知らない他人の家にいる気分だ。
扉が少し高い音を立てて開いた、どうやら立て付けが悪いらしい。この村も決して裕福とは言えない、私達の生活も楽ではなかったか。それでも、僕は幸せだったのに。
「あっ、ナット……大丈夫? 急に倒れたから心配したんだよ。ご飯ちゃんと食べてなかったよね。ごめんね、気が付いてあげられなくて」
オリビアは部屋に入って来ると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。彼女と目線が合う、とても利発そうな女の子が目の前に見える。肩口で切り揃えた綺麗な金色の髪、まるで外国の人に思えた。
実際、ここは日本ではないのだろう。
「すみません、ご心配をおかけしましたね」
「えっ……本当に大丈夫? なんか変だよ、いつものナットじゃないよ……」
オリビアはそう言うと、唇を震わせて、涙を流してしまった。そして、私の元に近づいて、震える手で私を抱きしめた。
「オリビアさん、大丈夫です。私は至って冷静ですよ」
「ぐすん、ぜんぜん大丈夫じゃないよぅ。うぅ、私がナットの家族になるから。だから、安心して」
「それは、色々と問題があります」
流石に彼女とは歳の差がありすぎる、私の実年齢は八歳ではあるが。僕と私の心は上手く割り切れない。
確かに僕は彼女が好きだった、姉弟の様に一緒に村で育ち、いつしか淡い恋心も抱いていた。村長の一人息子には頻繁に嫌がらせを受けたが、僕は確かに挫けなかった。
だが今の私は、もう以前の僕でもない。
そもそも、母を失った悲しみに決着がついていない。父の失踪にもだ。だが、私でなければ、僕は耐えられなかっただろう。そう思うと、何だか泣けてきた。
「オリビア、あなたが泣いてどうするの」
「ナット君、落ち着くまでここに居たらいいさ。まぁ、本当にうちの子になってもいい良いぞ。俺達も大歓迎だ」
扉の向こうから男女が顔をのぞかせて、そんな話をしている。二人はオリビアの両親だった。
昔から家族ぐるみの付き合いをしていたが、そこまで親身になってくれるとは。これは感謝の念に尽きない。
少し揺らいでしまう、彼等となら家族になってもいいだろか。何も今すぐ結論を出す必要もない。
まだ私達は若いのだ、これから何が起こるとも知れないが。彼女が大人になるまで、時間は十分にある。
僕と私の心が落ち着いたら。その時にあらためて、彼女のことを考えることにしよう。
私はその時、そんな悠長なことを考えてしまった。
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