8 嫌悪と過呼吸
冬野はそれから暫くは泣き止まなかったけど、やがて落ち着いたのか少し嗚咽しながら隼人から離れる。
そしてそこからすぐには言葉は出なかったが、それでも黙り込んだままでいる訳にもいかなくて。
先程から目を合わせてくれない冬野に、意を決して話しかけた。
「冬野……一体何があったんだ」
中々返答は返ってこない。
冬野は隼人以上に気持ちの整理が付いていないようだった。
それでも気長に待つことにする。催促はしなかった。しては行けないと思った。
その先は冬野雪という女の子に手を引かれて初めて進む事ができる領域だと思うから。
そしてしばらく待った末。重苦しく無音の空間の中、ようやく冬野が動いた。
「……桜野君の忘れ物、渡しに行こうと思った。そしたら桜野君が血塗れで転がってきた。それも生きているのか死んでいるのか分からない位酷い怪我で……正直、何が起きたか分かんなかったけど、だけど桜野君が死にそうだって事は分かったからさ。とにかくやった誰かから桜野君を隠さなきゃって思って、部屋の中に桜野君を入れたんだ」
そして隠す為という理由だけでは無かった筈だ。救急車を呼ぶのではなくそれ以外の治療法を冬野が施そうとしたのなら、それは絶対に人目に触れてはいけない事の筈だから。
「……それから、桜野君を治療しようと、したんだ。ほら、分かるよね? 私……吸血鬼、だからさ。私の血を使えば桜野君を治療できるって。そう思って」
知っている。過去にそれで命を救われたから知らない筈がない。覚えていない筈がない。
「でも……治んなかった」
だけど冬野はそれでも治らなかったと言った。
男にやられた怪我は辛うじてでも生きているのが不思議な、そんな次元の違う大怪我で……吸血鬼の血液で治癒できる限界値を超えてしまっていたのだろうと察する事ができた。
では、何故桜野隼人は生きているのだろうか?
(まさか……ッ)
吸血鬼の血液による治療が成功しなかった今、他の何かが行われた事は間違いなくて。
それが救急車を呼ぶというオーソドックスかつ、あの容体では生存できる確率が著しく低い様な手段ではない事は、血塗れの冬野の部屋で目が覚めている時点で明らかであった。
では、一体此処で何が行われたのだろうか。
その答えは……もう既に最初の問いかけで出てしまっている。
「治んなかったから……私……ッ」
そこから先を余程言いたくないのか、再び冬野は黙り込む。
黙り込むけど、それでも言おうという意思は。
言わなければならないという意思は確かに強くあるようで。僅かな間だけ空いた後に、掻き消えそうな小さな声で冬野は言った。
「桜野君の……血を……ッ」
その一言で、深く滅血師という職に携わり続けた元滅血師なら可能性に辿りつく。
吸血能力。
もしも冬野の吸血能力が人を救う事ができる能力なのだとすれば。
基本的に吸血能力が人間に利益を齎す事はないから薄い可能性の話だけれど、だけど状況的に、そういうあり得ない事でも起きない限りは桜野隼人が生きているという事があり得ない状況なのだ。
「……冬野?」
そこで異常に気付いた。言葉の続きが出てこず……そして冬野の呼吸が妙に荒かった。
そしてそれは自分が何度も経験して、故に過呼吸を起こしている事はすぐに気付いた。
「冬野!」
慌てて近くにあったビニール袋を冬野の口元に持っていく。そしてなんとか必死に呼吸を整える冬野の姿を見て。何かフラッシュバックしてきたであろう冬野の姿を見て思う。
最悪だと。
人間の血を吸わせる。
それだけはあってはならない事だったと、そう思う。
だってそうだ。秘密を共有した、桜野隼人だから知っている。
父親を除けば、きっと一番近い所にいれたと自負しているから、その位は知っている。
人間から血を吸う。
冬野雪という吸血鬼の女の子は、そんな行為に生理的な嫌悪感を抱いていた筈だ。
人間の血を吸う事を我慢していたのではなく、嫌悪していた筈だ。
もっと正確に言えば。人間の血を吸う様な頭のおかしい存在の事を、嫌悪していたんだ。
少なくとも今、その事でまともに呼吸ができなくなる位には。
そしてそんな存在に冬野雪を堕としてしまった。
桜野隼人がそうさせてしまったのだ。
「……ごめん」
例えどんな事があっても。
冬野雪という女の子にそんな事だけは絶対にさせてはならなかったから。
それをさせてしまったのは、どうしようもなく自分だから。
「……ごめん、冬野。ごめん……」
だからもう、そんな言葉しか出てこなかった。
そしてそんな中で、ようやくまともに呼吸が出来る様になった冬野は涙声で言う。
「……でよ。桜野君……なにも悪くないんだから……謝らないでよぉ……ッ」
こんな時でさえ、冬野雪という女の子の言葉には優しさが詰まっていた。
今はきっと、自分のやった事を受け止めきれていなくて、精神的に不安定な筈なのに。
自分の事で精一杯な筈なのに。それでも冬野は隼人の事を気遣う様にそう言ったのだ。
そんな冬野を見て、知りたい情報は後回しで聞きたい事ができた。
「冬野……俺にできる事……何かないかな?」
なんでもいい。なんでもいいから。冬野の為にできる事は何か無いのだろうか。
そして長い間を空けてから、冬野はどこか縋る様な表情を浮かべて言う。
「……今日だけでいいから。一緒にいてよ」
「……ああ」
そんな事でいいのなら。それが冬野の為になるのなら。断る理由なんて物はなかった。
自分に何ができるのかは分からないけれど。
今まで何一つ成しえなかった自分にそれができるのならば、せめてその位は。
その位はしてやりたいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます