9 報われた話
それから暫くはこの一件に触れる事の無い。
触れない様に過ごす時間が流れ始めた。
冬野の様子を見る限り冬野が話した先の事は安易に触れてはいけない。
安易でなくても触れてはならない様な事にも思えたから。
少なくとも冬野にとってはそうだろうと思ったから。
だからもう触れない事にした。
今自分も冬野も生きている。
それでいいのではないかと。
もう何も分からなくてもいいのではないかと。
そんな事を考えた。
そう考える事にした。
考えて。
二人で何もない時間を。
会話すら碌にない何も起こらない時間を過ごしていた。
そんな時間を過ごしながら考えた。
せめてこれ以上。
これ以上冬野が苦しまない様にするにはどうすればいいのかと。
父親が死んで。
過呼吸を起こす程に嫌悪しかない行為をさせて。
そしていつ滅血師に殺されてもおかしくない状態になってしまって。
何も悪い事なんてしていないのに。
良心の塊の様な存在なのに。
それでも坂を転がり落ちる様にどうしようもなく転落していって。
そんな冬野がこれ以上苦しまない様にするにはどうすればいいのか?
それは分からなかったがそれでも……せめて最低限。どうにかしておかなければならない事が何か位は分かっていたつもりだった。
冬野が纏うドス黒い雰囲気。滅血師の見鬼の力に反応する吸血鬼である証。
せめてこれだけはどうにかしなければならなかった。命という最後の砦だけは守る為に。
もっともそんな方法は世界中を探しても見付からなかったのだけれど。
(せめてあの呪術が完成してればな)
そう考えて思いだしたのは自身が折れる直前。
世界を変える。それがどれほど難しい事なのかを目の当たりにしていた中で、自然と一つの逃げ道に手を伸ばした事があった。
この先世界を変える事ができなくても、せめて冬野だけでも助ける事ができますように。
世界中のまともな吸血鬼をどうする事もできなくても、せめて冬野だけは真っ当に生きられるように。
滅血師に怯えなくてもいいように……そんな逃げ道。
吸血鬼が纏う独自の雰囲気を掻き消し誤魔化す。そんな逃げ道。
結局そんな都合の良い代物が完成する事は無く、完成どころか未完成な半端な形の試作すらできていない。
それすらできない程に、やろうとした事は雲を掴む様な行為だった。
術式を構築する為に必要な決定的な何かが埋まらない。
タチが悪いのがその決定的な何かが何なのかすら全く分からなかった事だろう。
だから形にすらならなかった。
なってさえいればひとまずは冬野が纏う雰囲気を消す事ができた筈なのに……と、そう考えながら。
理論を組み立てる段階で止まっているその術式の事を思いだしていた時だった。
「……ッ」
思わず声にならない声が出た。
だってそうだ。
何しろ……なんの脈略もなく突然にその何かが埋まったのだから。
一体その何かが具体的に何なのかが分からないまま、ただ形だけが浮かんできたのだから。
「……」
そして浮かびさえすれば後は形にするだけだ。
通常新たな形式の呪術を開発しようと思えば膨大な時間が掛かるだろう。
だけど千年に一人という宝の持ち腐れにも程がある才能を有した隼人ならば、一分あれば形にできる。
「……冬野」
「……何かな?」
「何でもいい。何か身に着けるアクセサリーみたいな物ってあるか?」
「アクセサリー?」
「マジなんでもいい。指輪でもネックレスでも、なんならリストバンドとかでもいい」
「リストバンドなら……でも、そんなのどうするの?」
「今見鬼に映ってるお前の纏うオーラ、消せるかもしれねえ」
「……ほんと?」
「うまくいけばな。とにかく何でもいい。貸してくれ。できれば駄目になっても良い奴で」
「……分かった」
そう言った冬野は力無く立ち上がり、どこかから青いリストバンドを持ってくる。
「こんなのでいい?」
「充分。これで失敗するなら俺の責任だ」
「このリストバンドでオーラを消すって……一体どうするつもりなの?」
「簡単に言えば、身に着けてたら効果のあるお守りみたいなもんだよ。それを作る」
言いながら受け取ったリストバンドを畳の上に置き、そこに手を添えて瞳を閉じた。
そして全神経を集中させ、理論を組み立てたばかりの呪術を構築。そして発動させる。
次の瞬間リストバンドが一瞬淡く発光した。
組み立てた理論に間違いがなければ、これを身に着けさえすればひとまず滅血師に狙われなくなる筈で。
そして効果も一か月近く持続する計算だ。
だからとにかく、しばらくはこれで大丈夫な筈だ……うまくいっていれば。
だけどそれを確かめる為に冬野に着用を促す事はできない。それどころではなくなった。
「ぐぶ……ガハ、ゴホッ!?」
突然強く咳き込んで、勢いよく吐血したのだから。
「さ、桜野君!?」
冬野が慌てて声を掛け、背中をさすってくれる。
だけど吐血は止まらない。
そこからも何度も血液は溢れ出て……止まったのは最初の吐血から三十秒近く咳き込み続けた時で。
「一体どうしたの急に! 今何やろうと……」
「……わかんねえ。俺はただ呪術を使っただけ……なんだけど」
呼吸を整えながらそう言う隼人に対し、何か感付いたように冬野は言う。
「呪術……もしかして」
「……何か、分かるのか?」
「……桜野君。もし……もしだよ? 吸血鬼が呪術を使ったらどうなるのかな?」
「呪術は吸血鬼を倒す為の力だから。劇薬飲むのと同じで体の内側からぶっ壊れて……」
そこまで答えて、思わず言葉を止めた。
冬野はどうしてそんな事を聞いてきたのか。そんな疑問の答えが浮かんできたから。
そもそも今自分が何故生きているのかという問いの答えが浮かんできたから。
「……冬野。お前、何か分かるか? 俺の体に何が起きているのか」
その領域にはもう触れなくてもいいと思ったのに。それでも踏み込まざるを得なかった。
きっと、そんな様な状態になってしまっていた。
その問いに冬野はすぐには答えない。
触れてはいけない。
触れられたくない。
答えが出ずに宙ぶらりんになっている問いの答えを冬吐露するにはやはりハードルが高い。だけど。
「……ぐふッ」
何かの拍子に再び咳き込み吐血してしまう隼人の姿を見て、どこか覚悟を決めるように。軽く深呼吸をして冬野は切り出した。
言わなくてはならない事を言う様に。
「……桜野君の体は……今、吸血鬼に限りなく近い何かになってるんだ」
「……そうか」
概ね予想通りだった。それが冬野の問いの真意で、自身が生き残っている答えだ。
「……あんまり驚かないんだね」
「驚くけど……でもまあ、情報としては知ってるからな。不思議と、納得はできた」
……吸血した人間の眷属化。吸血鬼に限りなく近い何かという事はつまりそういう事だ。
眷属化は非常に希少な吸血能力ではあるがその力は強力で、その力を持ち生まれて来た吸血鬼は確認できた限り一人残らず歴史に残るだけの規模の事件を引き起こしてきた。
吸血した人間を吸血鬼と人間の中間に当たる様な、そんな存在へと一時的に変貌させる。
変貌させた人間は一時的に吸血鬼より劣る程度の身体能力と再生能力を得てそして……主の為に動く僕となる。
そうして眷属の数を増やす事で人質かつ兵力を得て、故にその能力を持つ吸血鬼が現れた時は、終息までに悲惨なまでに多くの血が流れる事になる。
きっと冬野はその力を持っていて、隼人を眷属化する事で根本的に再生能力を引き上げ命を繋ぎ止めた。
それが先の問いかけの理由であり、隼人の血を吸った理由だ。
「知ってる……まあそうだよね。桜野君だし……ごめんね、こんな形になっちゃって」
冬野はどこか不安そうな表情で隼人に謝ってきた。そんな冬野を見て考える。冬野にとって誰かを眷属にするという行為はどういう事なのだろうと。
そして深く考えなくても少なくとも本当に碌でもない行為だと思っている事は間違いないのではないかと思った。
だからこそ冬野は謝らなくても良い事で謝っている。
そうだ。謝らなくても良い筈なのだ。
人の血を吸う。
誰かを眷属なんてものにする。
それらの行為が冬野にとって嫌悪する事で。
謝らなければならない様な事なのだとしても……そうした行為の上に、誰かを助けるという意思が籠っているのだから。
それで後悔する事が分かっていても、踏み出してくれたのだから。
だとしたら謝らせてはいけない。絶対にそんな事を抱え込ませてはならない。
それでよかったと言わなければならない。言ってやりたい。
「いいよ、こんな形で。遅くなったけど……ありがとな、助けてくれて」
今にして思えばまだ助けてくれてありがとうなんていう、言って当然のお礼すらまだ言えていなかった。
そしてそんな言えていなかった言葉を切り出す事ができたなら、もう少し位は言葉を紡ぐ事ができる。
本当に、冬野に言ってやりたい言葉を。
「第一お前はさ……何も悪い事、してねえよ。だからさ、難しいかもしれねえけど抱え込むなよ。笑っててくれ。そんな謝らなくていい事で謝んないでくれ」
そんな隼人の言葉に少し間を空けてから冬野は言う。
「でも私、血、吸ったよ。眷属化だって……厳密には違うかもだけど、友達を奴隷にする様な、そんな力だよ」
「それはお前が俺を助けてくれようとした結果で……なんて言ってもそう簡単に受け入れられないのは、分かるよ。俺も基本的にそんな感じだからさ。だけど……なんて言えばいいかな。そう思ってる奴はちゃんといるって。それだけは、忘れないでくれねえかな」
そしてそんな言葉を聞いた冬野は少しだけ黙り込んで……それから、小さな声で言う。
「……うん、忘れない」
そう言った冬野は小さく笑った。
笑ってそして手を伸ばす。隼人から意図せず溢れ出した血液が付着したリストバンドに。
「……付けてみても、いいかな?」
「……いいのか? なんかもう、血塗れになってるけど」
「……いいよ、それでも」
そう言って冬野はリストバンドを手に取って右腕に付けて見せる。
「……ッ」
そして思わず息を呑んだ。
「……どう、かな?」
「消えてる……消えてるよ冬野!」
浮かんできた情報を元に組み上げた理論で形にしたそれは確かに効果を成していた。今の今まで吸血鬼の雰囲気を纏い続けていたのに、それが完全に消え去ったのだ。
「ほんと? ちゃんとさ……人間っぽくなれてる?」
「ああ……とりあえずこれで、大丈夫だ」
言いながら少し泣きそうになった。
ひとまず冬野の身の安全を確保できたからというのもあるかもしれない。
だけど多分それだけじゃなくて。
どこか報われた様な気にもなって。
決め手となったのは突拍子もなく得たピースだ。
だけどそれをはめ込めば完成する状態までは自力で持っていけた筈で。
それは必死に頑張ってきたけど結局何も成しえず全てが無駄に終わった努力でようやく掴めた成果だから。
ようやく冬野の為に何かができたから。
これを報われたと思うなという方が難しい。本当に泣きそうになる。
(……駄目だ、泣くな)
涙は堪えた。今まで散々情けない姿を見せ続けてきたから。せめて今この瞬間位は、ほんの少しでもかっこいいと思える自分でいたかった。
「……そっか、良かった」
そして隼人の言葉を聞いて、少しだけ安心した様に冬野は言う。
「こんな事言える資格があるのかは分からないけどね……滅血師に狙われるかもしれないって思ったらさ、やっぱり怖かったから」
「……大丈夫だ。もう狙われる事はねえ。狙わせねえ」
少しでも冬野を安心させる為にそう言いながら考える。
どうして突拍子もなくこんな風に形になったのだろうかと。
今自分がやった事は過程と結果の全てが異質な物だった。
どうしてそういう事になったのか。なれたのか。
そしてそれは今改めて考えてみれば、自然と納得の行く様な仮設が浮かんできた。
(……吸血鬼の眷属になったからか)
半分吸血鬼の様な存在になった。つまり今自分の体の中には、人間の時は知りえなかった吸血鬼の情報が詰まっているという事になる。
故にそこから自然と必要なピースを摘まみ取る事ができたのだろう。
突拍子の無いような話ではなかったのだ。
そして冬野は少し安心した表情をしばらく浮かべていた後、やがて隼人に問いかける。
「それで、私なんかより……桜野君はもう大丈夫?」
「……俺?」
「その……さっき凄い血ぃ吐いてたじゃん。確かに眷属の体は人間よりも再生力は強いけど……でも、呪術って再生力を阻害するよね? それでさっき体の内側から壊れたんだったら……多分、そう簡単に治らないんじゃないかなって」
「……まだしんどいけど多分大丈夫だよ。吸血鬼程呪術の影響は受けねえみてえだ」
隼人は冬野を安心させる為に少しでも笑顔を作って言う。
半分吸血鬼。
身体能力も再生能力も半分。
たけど呪術を使用した事による影響力も、多分半分近くまで落ちているのではないかと思う。
純度百パーセントの吸血鬼が呪術を使ったとすれば、おそらくそれだけで致命傷レベルに体内の臓器が崩壊する気がして、その点呪術を使ったのはほんの僅かだったとはいえ、激しく吐血する程度で収まっている。
眷属に対する呪術の再生阻害も普通の吸血鬼程強い影響を受けない。
理論上眷属が通常持つ再生能力の半分。
通常の吸血鬼の四分の一程の再生能力は残っているみたいで。
多分ズタズタになった臓器位ならば、まだしんどいなんて軽い言葉を言える位には回復する。
「……じゃあその……よかった。普通に考えて血ぃ吐くってさ、本当に体の中がおかしくなってる時の奴じゃん。それがもし殆ど治ってなかったらって。それも私の為にこれを作ってって事なら尚更……うん、ほんと、大丈夫ならよかった」
「もう心配ねえよ。お前が滅血師に狙われる事も。俺が呪術使って死ぬ事もねえから」
だから。冬野自身が抱え込んでしまった心の問題は解決するには至らないけれど。支える事位しかできないけれど。とにかく互いに命の危機は去ったと見ていいだろう。
隼人はそう言うけれど、冬野はそれでもまだ何か不安そうだった。
「……どした? まだなんか不安な事とかあるか?」
まあそもそもが色々と抱え込ませてしまった訳で、不安じゃ無ければ笑えるのかと言われればそうではない筈で。だからただ単に不安な事は無いけど気が重いというだけなのかもしれないけれど。それでも一応聞いてみると、冬野は言う。
「そもそもの話になるんだけどね……一体さ、私が来るまでに何があったの?」
「……ああ、そういや知らないのか」
起きた事態はあまりに衝撃的で。そして他ならぬ冬野に見付けられて戦線を離脱したのだから、冬野は起きた事を知っていると思っていたのだが、どうやら思い違いらしい。
確かに考えてみれば、隼人の体は凄まじい力で勢いよく弾き飛ばされた。
そして当の男は隼人の幻術におそらく掛かり、距離を詰め追撃してくる様な真似をしてこなかった。
故に幻術に男の動き次第ではあるが、冬野にとっては突然虫の息の隼人が遠方から飛んできて、自分の目の前に転がってきたという事しか知らない可能性だって十分にありえる。
狐の面の吸血鬼にやられたなんて知り様がなかったのかもしれない。
知り様がなかった状況だからこそ、こうして隼人は無事生きたまま運び込まれた訳だ。
……正直、あの時の事を思いだそうとすると、あの時の事だけじゃなく色々な事がフラッシュバックしてきて息が苦しくなる。怖くて怖くて仕方がなくなる。
「……大丈夫?」
そして様子がおかしい事を察したのだろう。冬野がそう聞いてくる。
まさかこんな状況に巻き込む様な形になっているのにそれをはぐらかす訳にはいかないだろう。
言わない理由は当然なくて、トラウマ染みたその記憶を共有してほしくもあった。
「……大丈夫」
だからそう言って息を整えて。あの場であった事を言おうとした……その時だった。
激しい物音と共に玄関のドアが飛んできたのは。
突然現れた狐の面の男がドアを蹴り破り、一瞬で隼人に接近して蹴りを叩き込んだのは。
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