第2話 恋の想い出

 当時私の好きな男性は、国立理系大学に通う秀才の亨平という二十歳の学生だった。

 面長な顔、漆黒の髪、大きな輝く瞳、話し声は柔らかな低音で、知的な表情はずば抜けていて、そのオーラは回りの人々を圧倒していた。

 最初の出会いは、このドルチェのお客で来た時のこと。

 バッハの音楽をこよなく愛していた亨平は、バッハのマタイ受難曲をリクエストしてきた。

その日は休日ということもあり、店内は混んでいた。こういうときに限って、普段はないような探すのが難しいリクエストが多い。長い曲なら時間稼ぎもできるが、短い曲ばかり何曲もということもある。

 マタイ受難曲は数枚のレコードがあり、私はリクエストに書いてある音楽家とは違う演奏のレコードをかけてしまった。

 演奏中のレコードのジャケットはカウンターに飾っておく。亨平は演奏が始まってすぐ、カウンターのジャケットを確認にきた。

「これ、僕のリクエストと違うのだけど、、、。」

「あ、ほんとうだ、、すみません。今探しますね。」

「いえいえ、良いですよ。忙しそうですから。この演奏も聴いてみます。」

私は内心ホッとしながら、すみません、とひと言って珈琲を淹れる仕事に戻った。

 しばらくはそのマタイ受難曲が流れていて、バッハの音楽が流れている時には時々そうなるのだが、心がシンと落ち着いて、下世話なことなど考えなくなる時間となるのだ。

 バッハという人は、どういう音楽性、というより人間性を備えた人だったのだろう。人々の観念からは遠く離れ、ましてや宗教からも離れて個々の魂を安らかにしてくれる。超人的な音楽だな・・・そんなことを考えたりしていた。


「ご馳走様でした。この演奏もとても良かったです。ありがとう。」

カウンター越しにその声にふと顔を上げると、亨平が立っていた。

私は黙って頷き、500円をもらうと、小さな声で「ありがとうございました」と言った。


 亨平との最初の出会いはごくありふれた普通のことだった。


 それから半年ほど、亨平の姿を見ることはなかった。やはり、私がリクエストを間違えたから、呆れてしまってのかもしれないわね・・そんなことを思っていた。時には亨平のことをふと思い出したりしていたが、特に心に留め置かれることもなかった。


 ちょうど半年後、亨平は店にやってきて、マタイ受難曲をリクエストした。今度は私も間違えずに希望のレコードをかけることが出来た。

「ありがとう。外国に留学していました。半年位なのに随分と久しぶりな感じがします。」

「そうですか。それは忙しくて大変でしたね。お帰りなさい。」

ふたりは同時に微笑んだ。

「アルバイトの終わりは何時ですか?」

「え?終わりですか?午後5時半です。」

「そうですか。良かったらそれまで待っていますから、お茶でもしませんか?」

私は一瞬躊躇したが、

「ええ。わかりました。では後で。」

店内はお喋り厳禁なのに、ここで話をしているわけにもいかない。それに、皆に聞こえてしまうのも嫌だわ。ちょっとお茶を飲むだけね、別にデートでもあるまいし。

最初はそんなふうに自分に言い聞かせていたが、本当は胸がドキドキして顔は赤くなって、少しだけ震えていた。亨平からの誘いはとても嬉しかったのだ。


 それからはほとんど毎日、喫茶店に行ったり井の頭公園を散歩したり、商店街をブラブラ歩いたりして、様々な話をした。亨平は音楽の他にも、天文、地学、科学、数学など本当に博識で、話題が尽きることはなかったのだ。


 こんな毎日が続いたある日の事、亨平は自分のアパートに私を招いた。吉祥寺の駅から随分歩いた狭いアパートだったが、部屋は綺麗に片付いていて、レコードと本がびっしりと置いてあった。

 若いふたりの情熱は、お茶を飲むだけに留まるはずも無かった。親密な関係を結んで、より一層亨平を好きになっていった。

 歳は同い年だが、ずっと精神年齢が上のお兄さんのような存在で、父親を早くに亡くした私にとっては、世界で一番信頼できる父親代わりのようでもあった。つまりは、私にとっては全てだったのだ。


 亨平との交際は3年近く続いた。

 ある日亨平は重苦しそうに私に話し出した。

「実は僕はあと数ヶ月で東京に居ることが出来なくなった。外国に行かなくてはならない。ずっと迷っていたのだけど、自分のキャリアのためにはアメリカの大学に行って研究を続けるのが最善の道だと思うんだ。だから、君とは別れたくないのだけれど、どうしてもこのままの状態を続けることは出来ないんだ。本当に申し訳無い。」

「そうなの・・・それはもう逢えないということなの?」

「いや、そうではないよ。しばらくは逢えないけれど、きっと迎えに来るから、それまで待っていて欲しいんだ。」

「それはどれ位なの?」

「2〜3年かな。」

「そうなんだ・・・。」

「ごめんね。」

「・・・」

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