吉祥寺恋物語

織辺 優歌

第1話 名曲喫茶

 武蔵野市吉祥寺は、井の頭恩寵公園を懐に抱き、豊かな緑の大地と共存する街である。

 若い学生を中心に街には人が溢れ、時代の流行には少し遅れるが、小作りでお洒落なカフェや、それぞれに個性を展開している洋服屋、雑貨屋、飲食店、デパート等が立ち並ぶ。

 

 一昔前になるが、この街に名曲喫茶「ドルチェ」があった。

 珈琲は一杯500円、40年程前の500円は結構な値段だ。お喋りは一切禁止。皆黙って音楽を聴く。女店員の「いらっしゃいませ〜」などの言葉もない。お客が椅子に座ったら、おもむろに水をテーブルに置き、笑顔でお客を見つめる。小声で「珈琲」というお客に、にっこり微笑んで頷くのである。

 店の中はアンティーク家具が置かれ、所狭しとエミール・ガレのアンティークランプ、シャンデリアが飾られていた。価値のある高価なランプだったと思う。ついつい見とれてしまうような美しい装飾で、クラシック音楽との調和、そして窓から差し込む陽の光がガレの硝子を照らす時、時空を越えてモーツァルトやベートーヴェン、バッハ、ショパン等の音楽と一体になるような感覚を覚えたのである。

 私はこの店で数年間に渡ってアルバイトをしていた。その頃の学生は今ほど締め付けもなく自由で青春時代を謳歌出来たような気がする。私は音楽の勉強をしていた。音楽は私の命であり、かけがえのないものだ。だから、黙って音楽を聴けるこの店は、とても大切で居心地の良い空間であった。

 もちろん当時はレコードしかない。2000枚近くのレコードが置かれていた。人がひとり立つのがやっとの狭いカウンターに、自分の聴きたい曲を書く、小さなリクエスト用紙が置かれていた。女店員は珈琲を湧かし、お客に珈琲を出し、食器を洗い、リクエストに応えるためにその夥しい数のレコードの中かからリクエスト曲のレコードを探す。これがなかなか大変な仕事だった。午後二時半から五時半までは2人の女店員がいたが、それ以外の時間、閉店の11時まではひとりでこなすので、座る間もない程忙しい時もあった。

 真空管のアンプから出る音色は、なんとも心地良かった。歪みも雑音も、音楽の臨場感として感じられたのだ。だから、どんなに忙しくても、暇でも、飽きることは無かった。一日中店にいても、あっと言う間に時間は経っていったのである。

 午前11時からの開店であったが、平日の午前中は比較的暇で、誰もお客がいないときは、私はよく音響の良い客席に座り、この空間を独り占めにして存分に好きな音楽を堪能していた。

 ベートーヴェンのピアノソナタ「ハンマークラヴィール」を聴いている時、ベートーヴェンが直ぐそばの椅子に座って何か話をしてくれているように思ったことがある。ぼんやりとベートーヴェンの姿も見えていた。ベートーヴェンは数百年前に自身が作曲したピアノソナタをじっと聴きながら、すぐその椅子に座って私に話をしてくれた。この曲はどういう音楽なのかということを。言葉では無く、それは直接心に響いてくる感覚で、私はいつの間にか涙が溢れてきた。そんな不思議な瞬間が何度も訪れた「ドルチェ」はまるで異空間だったのである。

 ドルチェには5〜6人のアルバイトの女店員がいた。声楽科、古楽器科の音大生、バッハをこよなく愛する主婦、ファッション関係の学生などである。

 古楽器科、チェンバロ専攻の綾ちゃんとは一番の仲良しだった。綾ちゃんはおっちょこちょいのところがあって、古楽器科専門でバッハはそれこそ専門に勉強していたはずなのに、小さなホワイトボードに曲名を書くのだが、BACHをBACK、CHOPINをCOPINなどと書いていたようで、お客はバッハを専門に勉強しているのに、いつも間違えて書くんだねと、綾ちゃんのことを微笑ましく思っていたのである。

「ひどいんだよ、最初から言ってくれれば良いのに、後から言うんだものお客さん。書き間違いなんて誰でもするのに・・・」

私は笑ってしまうのだが、本人は真剣な面持ちで話している。自分はどうも間が抜けていて馬鹿なことをするのだと。そんな性格だからチェンバロの神経質な先生とは全然肌合いが合わない、どうしたらいいのだろう・・と話題はいつもそんなこと。でも優しい綾ちゃんのことを私は大好きで、今でも時々ランチを食べながらお喋りをする。

 ドルチェは、音楽だけでなく、人生の中でとても大切な親友までプレゼントしてくれたのだ。


 当時、日本画専攻の美術大学の学生、昌樹は、くりくりの長髪のくせ毛、明るい丸顔で人懐っこい風貌だった。いつも微笑んでいるような大きな瞳で見つめられると、何を言われても憎めない魅力があり、大らかでチャーミングな人柄は皆に好かれた。

 昌樹は初対面の時に、

「あなたはお釈迦様のようなお顔をしている美しい人ですね。僕は貴方が一目で好きになりました。結婚してください。結婚してくれなければ、僕は死にます。いや、僕はあなたと絶対に結婚します。僕にはわかるのです、未来が。早く結婚しましょう。」

と、私に言った。

 その当時は、人々の意識も今とは違いのんびりしたもので、生身の人間同士の交流があった。だから、今だったらストーカーと誤解されそうなこんな言葉も、若い私にとって、純粋な若者の情熱として感じられたし、まさしくその通りだったのである。その迸るような情熱に心が揺れ動いたが、他に好きな人がいたので、昌樹とはそれきり会わなかった。今はどこでどうしているのか、消息はつかめていない。ちょっぴりくすぐったい様な懐かしい想い出である。

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