疾風怒濤
「どっせい!」
グルードが地面を叩くと、大地がひび割れて陥没した。その下に潜んでいた屍肉は、衝撃で潰れてしまった。
だが、ネフィリムはまだまだいる。陥没した穴に雪崩込み、グルードを喰らおうとする。
「フンッ!」
グルードはアッパーを放ち、屍肉の滝を弾き返す。それから穴を駆け上って地上へ復帰した。
目の前には、ネフィリムから上半身を生やしたヴィクトーリア。上下からの挟み撃ちも力ずくで突破されて、表情を引きつらせている。
「まったくもって馬鹿力……!」
「バカだからな!」
「胸を張るな!」
触手が伸びる。うねりながら迫る肉の紐は、まるでヘビやウツボのようだ。
グルードはステップを踏んで間合いを調整しながら触手を打ち落とす。
「ゾッとするねえ……」
彼には珍しい弱気の言葉。それをヴィクトーリアは聞き逃さなかった。
「ハハッ! 怖がる事を知らない男も、原初の恐怖には敵わないようですねえ!」
気を良くしたヴィクトーリアは、放つ触手を更に増やす。2倍、更に2倍。視界を埋め尽くすほどの触手がグルードに迫る。
グルードは触手を避け、あるいは拳圧で吹き飛ばし続けるが、ヴィクトーリアとの間合いは離れる一方だ。
それを逃げ腰と見たヴィクトーリアは、グルードを容赦なく崖際へと追い詰めていく。
「馬鹿力とて所詮は力。知恵と道理の前には無力なようで」
「その格好じゃ知恵も道理も無いだろ」
「うるさい! この子を恐れて手も足も出ないくせに!」
その言葉にグルードは首を傾げた。
「いや?」
「え?」
「別に怖くはないけど?」
「は? だってさっき、ゾッとするって……」
「そりゃ、ドジョウみたいだからな。こいつら」
そんな魚と一緒にされて、触手たちは困惑するように動きを止めた。あるいはヴィクトーリアが驚きすぎて固まっていたのかもしれない。
「ど、ドジョウ? の、何が怖いって?」
「だからさ、怖いんじゃなくてゾッとするんだって。
聞いてくれよ。昔な、生まれてこの方ゾッとしたことが無いって言ったらさ、アネットが俺をゾッとさせてみせますって言ったんだよ。
実際にはその作戦を思いついたのはトゥルーデなんだけどな?
まあそれでさ、何をするのかなーって待ってたらさ、アネットが洗面器を持ってきて、その中身を俺の頭の上からザーッて掛け流したんだ。部屋の中でだぞ? ヤバいって。
でももっとヤバいのは中身でさ。水だけじゃなくてドジョウが入ってたんだよ。ドジョウ! あのぬめぬめしたやつ!
それが首の隙間の、ここから服の中に入っちゃってさ、水が無いからめちゃくちゃに暴れ回るんだ。もうくすぐったくてぬめぬめしてゾッとして!
それからもう、俺ドジョウは苦手でさあ。こいつらもドジョウっぽいからあんまり触りたくないんだよ」
グルードは周りを囲む触手を見渡して、苦笑いを浮かべた。
ヴィクトーリアはしばらく固まっていたが、グルードの話が終わったことを理解し。
「ふざけるなあああっ!」
怒りと共に触手を解放した。
対するグルードは腰を深く落とすと。
「真面目だぞっ!」
真正面に正拳突きを放った。拳を受けた部分はもちろんのこと、その周囲の触手も衝撃波で散り散りになる。
「バカだけど真面目だ、バカ真面目だ!」
「それがふざけていると言っている!」
「ふざけるわけがないだろ! アネットが真面目にやってんだから!」
拳を振るい、前へ。弾け飛んだ触手の合間を進む。
「アネットのひいじいさんがお前らに協力しちまってから、アネットのじいさんも、マーサさんも、アネットも、真面目に後始末をやってきたんだぞ!」
迫ってきた肉の槍をグルードは裏拳で払い除ける。
「トゥルーデも、ノーラさんも、フンベルトさんも、シンデレラも、お前ら最後の大隊の好きにはさせないって頑張ってるんだ!」
地面がひび割れ、グルードの足元から屍肉が吹き出す。
大きく息を吸って、グルードは大地を蹴り飛ばす。ひび割れが上書きされ、屍肉を押し潰す。
「それに白雪姫も、小人の皆も、オルトリンデも、ヘンゼルとグレーテルも、自分たちみたいな人をこれ以上出したくないって戦ってるんだ!」
四方の肉塊が蠢き、肉片の弾幕を展開する。
グルードは両腕を掲げ、その場を中心にして旋回。ダブルラリアットの風圧で肉塊を吹き飛ばす。
「――そんな皆を、社長の俺は信じてる。
だから真面目だし、ゾッとしてられないってことよ」
ダブルラリアットを止めたグルードが、ヴィクトーリアを指差した。
「一丁前に啖呵を切っていますが、それで?
どうやってこの子を倒すと?」
全ての攻撃を防がれても、ヴィクトーリアはなおも平然としている。グルードが近付けないからだ。
グルードが触手を殴っている間に、ヴィクトーリアはネフィリムの表皮上を移動して距離を取ってしまう。そのため、今になってもヴィクトーリア自身は傷ひとつ負っていない。
削られたネフィリムの体も全体から見れば微々たるもの。このまま物量で押し潰せば、いつか疲れたグルードを食い殺せる。そういう計算だった。
「殴る」
対するグルードの答えはたった一言であった。
「……バカですか? 指一本触れられていないでしょう」
「バカなんだよ。だから、これから頑張ってめっちゃ速く動く」
左足を半歩前に。踵を僅かに浮かせ、膝から力を抜く。大地を踏みしめるのではなく、羽毛の上に乗るように、軽やかに足をつく。
腕を上げ、拳は顔の前に。左手を前に、右手は顎の下に。ボクシングに似た構えだ。さして特別なものではない。
問題はグルードが構えたことそのものだ。力任せにマウスを地面に埋められる男が、わざわざ構えをとる。つまり、技が出る。
それはアネットから教わった技。
始祖グリム兄弟から現代まで伝わる技法。
『屠殺ごっこ』を始めとする数々の怪異を屠った神速の連撃。
「
グルードの周りを囲んでいた肉片が消滅した。
「――ッ!?」
驚くヴィクトーリアの前で、屍肉が次々と爆ぜ飛ぶ。熱のない爆発は、猛スピードでヴィクトーリアに向かって突進してくる。
状況が理解できないまま、ヴィクトーリアは爆発の先端に向かって攻撃を放った。しかし、肉片も、触手も、屍肉の塊も、すべて吹き飛ばされて塵になってしまう。
「くっ!?」
ヴィクトーリアは肉塊の上を移動し、爆発から距離を取ろうとする。だが、爆発は肉の海を掻き分けてヴィクトーリアに迫る。ネフィリムの助けを得て逃げるヴィクトーリアよりも速い。
「これ、は……!?」
そこでようやく、ヴィクトーリアは爆発の正体を見破った。
わかってみれば大したことではない。グルードが目にも留まらぬ速さで動き、片っ端からネフィリムを殴り飛ばしているだけだった。
問題は、その『目にも留まらぬ速さ』というものが音速を超えているということである。
『疾風怒濤』。それは身体の動と静の極限を高速で切り替えることで爆発させる格闘術である。
まず、呼吸と自己暗示によって脳のリミッターを解除。人体が本来持つ100%の力を引き出す。これが動の極限だ。
一方動きは最小限に。踏み出すことすらしない。足首から先の筋肉で地面を蹴り、ノーモーションでトップスピードに突入する。これが静の極限。
結果、生まれる光景は何か。予備動作を一切見せずに、非人間的な速さで敵の懐に飛び込む術者である。
身体能力は人並みのアネットですら、翡翠が見切れないほどの速さで攻撃を繰り出すことができた。
それを、無双の怪力を持つグルードが行ったのだ。音の壁が破壊されたのも、当然と言えよう。
「デタラメなァ!?」
悲鳴を上げながらヴィクトーリアは巨大なニンゲンを産み出す。少しでも時間を稼ごうと、ニンゲンはグルードの前に立ちはだかったが、体に大穴を開けられて崩れ落ちた。
ならば、とヴィクトーリアはグルードの進行方向に肉の槍を仕込んだ。踏み込んだ瞬間に、無数の触手でグルードを串刺しにしようという目論見だ。
しかし音速の踏み込みは地下にまで影響を及ぼしていた。地面がひび割れる程の衝撃、そして音速のグルードが通り抜けた後の
罠を文字通り踏み越えたグルードが、眼前の肉塊に拳を振るう。ネフィリムの体が衝撃で千切られ塵になる。黒い塵がヴィクトーリアの頬をかすめた。
グルードが拳を振るえば、巻き起こる風がヴィクトーリアの髪を揺らす。全力で逃げているのに、そこまで近付かれていた。
「う、ああああっ!」
悲鳴を上げたヴィクトーリアは、手の届く限りのネフィリムを掻き集めて、自分の前に肉の壁を作った。
更に屍肉を凝縮し、押し固め、質量を上乗せする。岩よりも重く、鉄よりも硬く。決して打ち破られないように作った肉の壁を、細工も何もなくグルードへと叩きつける。
それはまるで怒涛だ。前にあるものをすべて飲み込み、破壊し、
迫る死を見据えて、グルードは直進する。足は止めない。
仲間を信じて、仲間に信じられている。その正しさが背中を後押ししてくれる。
ゾッとするにも、恐怖するにも及ばない。
大地を踏みしめ、体を加速。その身を一陣の疾風と化す。
津波の懐に一瞬で飛び込んだグルードは、鋼を纏った拳を力の限り突き出した。
拳が大気を、音を、屍肉を切り裂く。それらすべてがグルードの拳を止め、弾き返そうとしてくる。
世界そのものがのしかかってくるかのような重みを受けて、それでもグルードは腕を伸ばす。
疾風が怒涛を切り裂いた。
ネフィリムの津波を貫いたグルードという槍は、そのままヴィクトーリアに突き刺さった。避けることはおろか、肉壁が破られたと認識することもできなかった。彼女が気付いた時、その体は既にグルードの一撃によって粉砕されていた。
ヴィクトーリアを打ち砕いたグルードが大地に降り立つ。そこにネフィリムの姿はない。屍肉の怒涛として集められ、グルードによってまとめて粉砕されていた。
大きく息を吐くグルードの後ろで、打ち倒されたネフィリムの巨体が塵となって風に消えていった。
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