外伝
最後の1日
1945年4月29日。ベルリン、総統地下壕。
「赤軍はポツダム広場を確保。この地下壕まで500mの所まで迫っています」
机に広げられたベルリン市街地の地図を参照しながら、将軍が戦況を報告する。地図の9割は赤色、すなわち敵の占領下に落ちたことを示す色で塗られている。
だれがどう見ても敗北必死の盤面であった。
報告を聞くのはナチスドイツ総統、アドルフ・ヒトラー。第三帝国を標榜して全世界に戦争を仕掛け、おぞましい大量虐殺を引き起こした張本人であり、敗北を間近に控えてやつれ果てた小男であった。
彼はまだ諦めていない。この状況を覆す可能性のある、とある存在を知っていた。
「ヒムラーの『最後の大隊』が来れば大丈夫だ」
国家親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラー。総統の最も忠実な部下である彼が極秘裏に編成した『最後の大隊』が、このベルリンの戦いに参戦するはずであった。
『最後の大隊』は『人狼』、『フランケンシュタインの怪物』、『ヴァンピール』などといった超常の存在、すなわち『怪異』を主軸とした部隊である。
いかに連合軍と赤軍が圧倒的な戦力を備えているといっても、それは人智の及ぶ範囲に収まっている。獣に姿を変え、死体を起こし、夜闇を見通す怪物たちに敵うはずがない。ヒトラーはヒムラーが用意したこの怪物の軍勢に全てを賭けていた。
だが、総統がヒムラーの名を口に出した時、その場に居合わせた将軍たちは顔を見合わせた。互いの表情には気まずさが浮かんでいる。
しばらく間を置いてから、将軍のひとりが恐る恐る切り出した。
「閣下、その……ヒムラーは……」
そのまま言葉は止まってしまう。ヒトラーが視線を向け、続きを促すが、それでも言葉が出てこない。
そこで、別の将軍が彼の言葉を引き継いだ。
「ヒムラーは独自にアメリカに降伏しようとしていました。今は連絡がつきません」
ヒトラーの動きが止まった。
総統に最も忠誠を誓っていたと思われていた男の、予想だにしない裏切りであった。
しばしの沈黙の後、ヒトラーはかけていた眼鏡を外した。その手は怒りに震えていたが、メガネを机に叩きつけないようゆっくりと、過剰なまでにゆっくりと置いた。
そして、居合わせた人々に告げる。
「この中で、我がドイツに心から忠誠を誓っている者は残れ」
少し間を置いた後、部屋からひとり、またひとりと出ていく。大勢いた党員たちは誰もいなくなり、残ったのは4人の将軍と2人の大臣だけであった。
鉄扉が閉まった直後、ヒトラーは赫怒した。
「ヒムラーもそう言ったんだよ!」
煮えた鍋の蓋が吹き飛んだかのような怒声であった。
「何が『忠誠こそ我が名誉』だよ! 親衛隊の全権を与えて、私の命令を忠実に実行すると誓ったのにこれだ!」
『
総統のために作られ、あらゆる陰謀、虐殺を粛々として行う部隊にふさわしい言葉であったが、今となっては波打ち際に書かれた文字よりも虚しい。
「挙げ句の果てに怪異を集めた『最後の大隊』などというものを作るために金と時間を奪っていった!
オカルトなんか大ッ嫌いだ!」
「でも許可したのは閣下ではないですか」
「うっさい! 大ッ嫌いだ! インチキ宗教野郎のバーカ!」
将軍の反論をヒトラーは子供じみたかんしゃくで打ち返した。
『最後の大隊』はヒムラーから持ちかけてきた計画である。その話を聞いた総統は、当初は半信半疑であった。神話の怪物や悪魔が本当に存在するのか。しかもそれを軍隊に仕立て上げることができるなど、到底思えなかった。
それでも『最後の大隊』の研究を許可したのは、他ならぬ忠臣ヒムラーが提案したことだからである。彼が言うのなら、少なくとも間違いはないだろう。
そう信じた結果がこれだった。
「んじゃあルーデルを円卓の騎士になぞらえたのは何だったんすか」
「あの調子であと11人出てくると思ったんだよ!」
逆上したヒトラーが手にしていたペンを机に叩きつけると、乾いた音を立ててペンが跳ね返った。
「畜生めぇぇぇっ!」
悪態はなおも続く。
「ヒムラーは古代アーリア人の秘密を解き明かすと言って無価値な紙切れと土くれをこね回していただけだ! それも貴重な資金と優秀な人材を注ぎ込んで!
奴らが捏造をしているという考えが足らんかった! 親衛隊の詐欺師どもを粛清するべきだった、スターリンのように!」
一通り怒鳴り散らしたヒトラーは気が済んだのか、それとも疲れたのか、とにかく怒鳴るのを一旦止めて椅子に座った。
「私はオカルトを利用こそしたが、本気で信じたことは無かったぞ……!」
その言葉に将軍たちは顔を見合わせた。何しろ『最後の大隊』の存在は、ラジオで大々的に宣伝したほどだ。ヒトラーがオカルトを信じていないなどとは到底思えなかった。
ただ、ヒトラー個人としてはオカルトにはやや懐疑的であった。以前、ヒムラーの勧めでトゥーレ協会なるオカルト研究を主軸にした政治結社と接触したことがあったが、言ってることがメチャクチャだったのでそっと距離を置いたこともある。
第一次世界大戦の敗戦のショックからドイツ国民を立ち直らせるためなら、古代アーリア人の末裔という幻想も、ユダヤ人への差別意識も、メフォ手形という詐術も全て使う。それが巡り巡って国民のためになる。ヒトラーが信じているのはそういうものであった。
「裏切り者め……ヒムラーの奴は最初から私を裏切り、騙し続けていたんだ! トゥーレ協会を紹介したあの時から!
『最後の大隊』も同じだ! シュタイナーも! どいつもこいつも私の期待を裏切るばかりだ!」
ヒトラーの罵倒は鉄扉の向こうまで響いていた。そこには、先程退室した軍人や事務員たちが所在なさげに立ち尽くしていた。
その中に一人、すすり泣く女性がいた。昨日、ヒトラーとささやかな結婚式を挙げたエヴァである。
そんな彼女を、秘書のユンゲが慰める。
「大丈夫よ、閣下の期待に答えられた人なんて一人もいないから」
結局のところ、ヒトラーはそういう男であった。
「……アーリア人が妄想なんて、最初からわかってたんだ」
怒りが過ぎ去った後には虚しさしか残らない。赤く塗り潰された地図を前に、背広の小男はうなだれる。
「ワイマールのドン底で国民を立ち上がらせるには、嘘でもいいから自尊心と敵を作り上げる必要があったんだ。
でも、それももうおしまいだ」
他の人々は視線を交わした。ここにきてようやく敗北を認めたのか。今更気付いても遅い。最後まで見苦しく足掻くつもりではなかったのか。そうした感情がない混ぜになった視線だった。
「我々は終わりだ。
諸々の手続きを済ませよう。私は最後の準備をする。
君たちは好きにするといい」
翌日、4月30日。
地下壕に一発の銃声が響いた。
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