1948 西宮 牛女

 1948年、兵庫県西宮市。

 この地も戦災からは逃れられなかった。B29の焼夷弾は市街地を焼き払い、西宮七園と呼ばれた高級住宅地も灰燼に帰した。終戦より3年経った今でも復興は進んでおらず、真新しい建物の裏を覗けば手付かずの焼け野原が残っている。


 その燃え尽きた地を、チェーンソーを携えて歩く男が一人。大鋸おおが龍庵りゅうあんである。その目は周囲に油断なく注がれている。ただ単に移動しているのではない。何かを探している。


 ――西宮の焼け跡に、牛の頭をした女が出る。


 そういう噂が、この街にはあった。


 事の発端は神戸市での事だ。闇市の用心棒をしていた龍庵は、西宮に行った行商人たちが帰ってこないという話を聞いた。その時は興味がなかったので聞き流していたが、闇市を仕切る有力者から改めてその話が出たので、聞かざるを得なかった。

 有力者が言うには、行商人たちを探すために部下を何人か送り込んだらしい。だが、帰ってきたのは一人だけ。それも大怪我をしていて、『牛女』が出る、と要領を得ない事を言うばかりだった。

 これは確実に怪異が絡んでいる。そう判断した有力者は、チェーンソーのプロである龍庵に解決を依頼した。報酬を約束された龍庵は、見届け役である有力者の部下と共に西宮市へと乗り込んだ。


 聞き込みを行うと、『牛女』について、より詳しい話を聞けた。

 噂の発端は1945年、西宮市の大部分が焼けた阪神空襲であった。その時に焼けた建物の中に、牛の屠殺場があったらしい。あるいは、食肉工場や、牛頭天王の社、広々とした屋敷が焼けた、という話もあった。

 パターンは何種類かあったが、とにかく何か建物があり、そこが焼けた。すると焼け跡から、頭が牛で体が人間、赤い着物を着た怪物、『牛女』が現れたそうだ。

 牛女が空襲の犠牲者や獣の死体を食べていた、という話はいくつも聞けた。だから西宮の住民は、用事がなければ焼け跡には近寄らないようにしている。


 噂に気になる点はあるが、この西宮に『牛女』がいることは間違いなかった。恐らく行商人たちは牛女の犠牲になったのだろう。目星をつけた龍庵は、見届け人を宿に残し、チェーンソー片手に焼け跡を歩き回った。


 捜索から3日目。ようやく、望んでいた変化がやってきた。


 龍庵の前方、広々とした焼け野原に影がある。逢魔が時の薄暗がりの中にいるそれは、うずくまる人影のようにも見えるし、崩れた瓦礫にも見える。だが、龍庵の常ならざる感覚は、どちらでもないと告げていた。

 龍庵はチェーンソーを手にして、ゆっくりと影に近付く。足音を察した影が顔を上げた。そう、顔だ。龍庵は既に、それが何か判別できる距離に来ていた。


 噂通りの、牛の頭をした女だった。


 龍庵を睨みつける瞳は、真っ黒な牛の瞳だ。赤く染まった口元からは、獣の唸り声が漏れている。

 だが、首から下に目をやれば、ボロボロの赤い着物を身に纏った人体が見える。足は泥だらけ、草履も足袋も履いていない。そして手は、これも口元同様に赤い肉片に塗れている。

 牛女の足元に転がるのは、食い散らかされた男の死体だ。首の骨が折れている。殺してから食ったのだろう。

 そして、周りに淀む気配。怪異特有の、この世の道理を拒絶し、己の存在を割り込ませる力場を、牛女は放っている。


 討つべき怪異に間違いない。龍庵はチェーンソーのスターターに手を掛けた。


 その時、牛女が爆発した。

 否、

 爆ぜたのは足元の土だ。牛女はうずくまった姿勢から、四肢で土を蹴り上げて爆発的な発進をしたのだ。クラウチングスタート。陸上競技を知るものなら、そう評しただろう。

 爆発的初速は、龍庵と牛女の距離を一瞬で零にした。鋭く尖った牛の角が、龍庵の喉に迫る。

 龍庵はスターターから手を離し、両手でハンドルを握った。チェーンソーで角を受け止める。衝撃。戦車を思わせる、大質量の突撃。地面に轍を刻みつけながら、龍庵の体が後方に押されていく。

 それでも龍庵は倒れない。牛女に押され続けているが、全身の筋肉を総動員し、姿勢を保つ。倒れれば終わりだ。牛女の力でのしかかられたら、引き剥がすことはできない。


 牛女に僅かな動揺が見えた。この突進を受けて倒れなかった者など、今までいなかったのだろう。勢いが僅かに緩んだ。

 龍庵は渾身の力で、突進の勢いを左に流す。均衡を失った牛女の体は、弾かれたように左斜後方へ飛んでいった。先には焼け落ちた廃屋。衝突。轟音。土埃が舞い上がる。

 崩れた瓦礫から目を離さず、龍庵はチェーンソーのスターターを引いた。どんな獣とも似つかない、ガソリンエンジンの唸り声が響き始める。


「もう」


 それすら掻き消す、牛のこえ

 土煙を割って現れた、無傷の牛女。その姿を見た龍庵は、思わず声を上げた。


「大きすぎないか?」


 立ち上がった牛女の背丈は、ゆうに3mを超えていた。さっきまでは地面に這いつくばっていたから高さを感じなかったが、こうして見下されると、言い様のない威圧感に襲われる。


 牛女が龍庵に大股で近付き、殴りかかった。龍庵はチェーンソーでガードするが、当然のごとく吹き飛ばされた。スケールが違う。日本人としては恵まれた体格である龍庵も、野生の力には敵わない。

 だが、殴りかかった牛女も怯んでいた。左手の甲が中ほどまで斬られている。チェーンソーの回転刃に拳を叩きつけたのだから当然だ。


 牛女は追撃を躊躇い、その間に龍庵は立ち上がった。鋭く息を吐き、チェーンソーを振り被って牛女に接近する。牛女は痛みを嫌い、バックステップで龍庵の斬撃を避けた。

 腰の引けた相手に対して、龍庵は畳み掛けようとする。だが、牛女は焼け残った電柱を掴むと、力任せに引き抜いた。

 木製の半ば焼け焦げた電柱である。ガス灯などよりもよほど軽い。しかし、木の枝のように片手で持てる重さでは、決して無い。

 猛然と唸りを上げ、電柱が龍庵の頭上から襲いかかる。龍庵は頭上にチェーンソーを掲げ、降ってきた電柱を防御した。圧倒的質量が龍庵を襲う。重みのあまり片膝をついた。しかし、それ以上は崩れなかった。

 牛女は咆哮を上げ、2度、3度と電柱を振り下ろす。鈍い音が焼け跡に響き渡るが、龍庵は潰れない。


「もう」


焦れた牛女は一際大きな吠え声と共に、力任せに電柱を振り下ろした。それが決定打となった。

 砕けたのは龍庵ではなく、電柱だった。度重なるチェーンソーへの接触で切れ目が入った電柱では、牛女の剛力を受け止めるのは不可能であった。

 武器が砕け、バランスを崩す牛女。その隙を見逃す龍庵ではない。膝立ちの状態から一気に踏み込み、牛女の太腿をチェーンソーで斬り裂いた。

 牛女の口から悲鳴が上がる。傷は深い。巨体を支えきれず、今度は牛女が膝立ちになった。間髪入れずに、龍庵は牛女の心臓めがけてチェーンソーを突き出す。

 だが、牛女はまたしても左の拳を放った。龍庵はチェーンソーで防御するが、最初と同様に吹き飛ばされる。左手が真っ二つになると引き換えに、牛女は龍庵から距離を取った。


 立ち上がった龍庵は、チェーンソーを下段に構えて最後の突進を仕掛けようとする。だが、一歩踏み出した所で足を止め、逆方向に飛び退った。

 直後、銃声が響き渡る。龍庵の眼前の空気が揺れた。龍庵は音のした方に視線を向ける。


 瓦礫の陰から覗いた銃口が龍庵を狙っていた。焼け残った家の陰に男が潜んでいた。みすぼらしい外見に、淀んだ目。手にした銃だけが不釣り合いに輝いている。

 見れば、そこかしこの物陰から同じような浮浪者たちが姿を現していた。男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいる。刃物を持つ人間もいれば、石を持つ人間もいる。共通しているのは、龍庵に向けられた殺意だ。


「だろうな」


 龍庵は驚かない。牛女の噂には不審な点があった。噂は広まっていたのに、誰も死体を見つけていなかった。肉は牛女が食べたとしても、骨や服、手荷物まで胃袋に収めるとは考えにくい。ましてや神戸の行商人の荷物は、次の出入りに使う銃だ。

 誰かがおこぼれに預かっているのは明白だった。


 男が龍庵に銃を向ける。引き金が引かれる前に、龍庵は動いた。手にしたチェーンソーを男に向かって投げつける。縦回転しながら飛んだチェーンソーは、男の頭蓋に突き刺さった。

 男が倒れる前に、龍庵は動いていた。駆け寄って死体から銃をもぎ取る。そして、棒立ちになっていた他の浮浪者に向けて発砲する。全弾命中、とはいかなかったが、何人かが倒れた。

 撃鉄が金属音を弾き出す。弾切れ。龍庵は躊躇なく銃を投げ捨て、倒れた男の頭からチェーンソーを引き抜いた。ハンドルを握り、一番近くにいた女の浮浪者を袈裟懸けに斬り捨てる。女は悲鳴を上げて倒れた。


 乱戦になった。お互いの得物は白兵武器のみ。ならば数が多い方が勝つと考えた追い剥ぎたちは、しかし見積もりの甘さを思い知らされる事になる。

 龍庵の頭に斧を振り下ろそうとした男は、異常に軽い手応えに目を見開いた。斧がない。いや、斧を持つ腕がない。斬られたと気付いたときには、次の斬撃が首を切り飛ばしていた。

 角材を持った男と、匕首を持った子供が龍庵の左右から襲いかかる。龍庵は角材の男に背を向け、子供をチェーンソーで真っ二つにした。背中に角材が当たる。直後、その角材が男の手から吹き飛んだ。発勁。足の踏み込みの力を上半身に余すことなく伝える技術。つまりは、背中で放つ蹴りだ。

 無手になった男がチェーンソーに斬り捨てられる。その横でたたらを踏んだ女も、喉をチェーンソーで貫かれて絶命した。


 瞬く間に4人が殺されたことに、追い剥ぎたちは足を止める。そこへ龍庵は襲いかかる。一切の容赦なく。2人が斬り殺され、更に1人が殴り倒されたところで、集団の限界が来た。生き残りの1人が背を向けて逃げ出すと、残りも雪崩を打って逃げ出した。


 龍庵はチェーンソーのエンジンをかけたまま、油断なく辺りを見回す。動くものは残りひとつ。牛女だ。銃を持っていた男の死体の側でうずくまっている。龍庵には見向きもしない。大きすぎる手を死体に載せ、揺すっている。言葉にならない呻き声が、口から漏れている。

 大きさは全く違うというのに、何故だが龍庵にはそれが、眠る親を起こそうとする子供の仕草に見えた。

 龍庵は牛女に近付く。牛女はその場を動かない。すぐ側まで来た龍庵は、チェーンソーを牛女の首へ振り下ろした。



――



 宿で待機していた見届人の男の元に、少年がやってきた。大鋸龍庵という男から案内をするように頼まれたらしい。後についていくと、焼け跡に座り込む龍庵を見つけた。


「終わったぞ」


 龍庵の周りは、首を斬り落とされた牛女と、多数の死体があった。


「なんだい、こりゃあ。殺すのは牛女だと思ってたのに、なんで人が死んでるんだい」

「牛女のおこぼれに預かってた連中だ。一緒に襲いかかってきた」

「ふぅん」


 見届人は血のついた拳銃を拾い上げた。しげしげと眺めてから呟く。


「なるほど。ウチの商品だ。残りは?」

「買い手がつかないから、ねぐらにしまってあるとよ。詳しいことはコイツに聞いてくれ」


 龍庵は足元の男を蹴り転がす。膝から先が異常な方向に折れ曲がっていた。杖なしでは二度と歩けないだろう。


「……わかった。十分だ。親分に連絡して、若いのに引き取りに来させる。一緒に報酬も持ってくるが、それでいいかい?」

「ん」


 龍庵は平然としている。顔の返り血を拭おうともしない。案内人の少年は、その姿に恐れをなしてとっくに逃げ去ってしまっていた。

 怪物と人間の死体に囲まれて平然としている様子を見て、思わず見届人は呟いた。


「鬼だね」

「うん?」

「鬼だよ。人間とは思えない。チェーンソーの鬼だ」

「ああ、たまに言われる」


 暗に"人でなし"、と言ったのに、この男には通じていないようだった。

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