天狗(3)

 京都市内のとあるアパートから一台の車が走り出た。運転するのは検非違使の女性だ。他には誰も乗っていない。

 車は現世の市街を東に進む。前の信号が赤になっていたので、女性はブレーキを踏んだ。信号を待っていると、彼女は何気なく左の頬を触った。


「おお、痛い痛い。輝め、本気で殴りよったなあ」


 女性は先日、楓に瑠那の居場所を伝えて、輝に殴られた検非違使職員だった。言葉こそ痛がっているが、口調も、表情もそうではない。笑っている。


 携帯が鳴る。女性はハンズフリーで通話アプリを起動させる。


「もしもし?」

《瑠那、これは一体どういう事や?》


 電話口から聞こえてきたのは、壮年の男性の声だ。


「ごめんなあ、お父様。まさか月を砕かれるとは思ってなかったんよ」

《おい、あんさん誰や。これは瑠那の番号やないんか?》

「ああ、ごめんごめん。ちょっと待ってな?」


 そう言うと女性は俯く。すると、骨が砕けて繋ぎ直される音と、肉が千切れて集まる音が車内に響いた。それが止むと、再び女性が口を開いた。


「あー、あー。お父様、この声でわかる?」


 妖艶な美女の顔。藤宮瑠那。イーに月ごと粉砕されたはずのかぐや姫と全く同じ顔であった。


《……今、何をした?》

「別の姿やったからね。変えたんよ」


 量子空間との接続は失ったものの、外部からの制御によって自在に形状を変えるディブラの性質は健在である。それはすなわち、意識さえ失わなければ自分の体を自由に作り変えることができるという意味でもある。


《ようわからんが、まあええ。そんな事より、不老不死の薬が『宇治の宝蔵』に戻ったって、ホンマか?》

「せやで」


 男が言う通り、『不老不死の薬』は宝蔵に戻されてしまった。隙があれば横取りするつもりだったが、月人の軍勢がほぼ全滅した今の瑠那では手が出せず、惜しみつつも見送るしかなかった。


《せやで、じゃあないやろ。ワシは不老不死が手に入るちゅうから、あんさんに好き勝手させたんやぞ。

 それがなんや、このザマは。薬は手に入らず、あんさんはボロ負け、ウチの会社は検非違使に疑われとる。

 それを、せやで、とか言えるなんて、浮世離れしすぎて目が見えてないんとちゃいます?》


 電話口でまくしたてる男は藤宮嘉重よししげ。藤宮グループ会長にして、瑠那の父親である。

 嘉重は娘と入れ替わった何かに協力する代わりに、不老不死になる取引をしていた。自身の不滅の為ならば、娘の一人や二人惜しくはない。だが、投資の見返りが得られないことに関しては神経質になる。そんな嘉重の性質に、瑠那はため息をついた。


「せやで、で済むんよ。だって、振り出しに戻っただけやで?」

《なんだと?》

「薬は宝蔵に収められた。ウチは表に出れなくなった。それだけや。かったるいけど、もう一度最初からやり直せばええ」


 終わったのではない。振り出しに戻っただけだ。

 異界月の演算特異点ホライズン・コンピューターは確かに消滅した。だがそれは『代数アルゼブラ』の消滅を意味しない。量子空間上にはアルゼブラは依然として存在する。

 そして本体との繋がりは切れたものの、アルゼブラの意思を宿したままの予備個体は全国各地に存在する。その内のひとり、検非違使内に別人として潜り込んでいたのが今の藤宮瑠那だった。


 瑠那はほとぼりが冷めるまで京都の外に潜むつもりだ。それから、ゆっくりと検非違使を侵食する。検非違使は今は警戒しているものの、10年、20年と時が経てば必ず気が緩む。その時を見計らって京都に舞い戻ればよい。どうせ金に困っているだろうから、大企業か政治家の後ろ盾を得れば言う事を聞かせられる。

 あるいは、検非違使が京都の治安維持に失敗したならば。話はもっと早くなる。瑠那が軍団を引き連れ、検非違使に代わって京都の異界を支配すれば良い。軍団のアテはいくつかある。『三千家』、『霊中隊』、『繰陀羅教』、『樺山示現流』。藤宮グループに資金援助を受けている退魔組織は多い。

 演算特異点ホライズン・コンピューターを再製造する目処もついている。設計図は既に瑠那の頭の中にあるのだ。資源と場所を確保すれば、百年程度で作れる。砕けた月に変わって異界京都の夜を照らすようになった、ギリシャ異界の月が狙い目だろう。

 つまり、ゴールに至るための手段は全く失っていない。そして瑠那には無限の時間がある。だから、彼女が焦ることは全く無かった。


《もう一度、だと? 悠長な、ワシを不老不死にするという約束はどうなるんや!》


 しかし嘉重はそうではない。既に60歳近い。老いを本格的に意識する時期だろう。死が近い年齢ではないが、これから無病息災で過ごせるとは保証できない。不老不死になる前に大病を患ったり、認知症になっては手遅れなのだ。

 もちろん、瑠那はそういった細かいニーズにも応えられる。


「ええ。せやから、お父様にはひとまず200歳ほど生きてもらおうかと思うてんねん」

《……なんやと?》

「不老不死やないけど、寿命を伸ばすならウチの記憶に入っとる。ひとまず、それで我慢してな」


 『代数』はアンドロメダ銀河連邦由来の医療知識も所持している。加えて彼女は月人の魔術も習得している。人間の寿命を倍にするくらいなら訳はない。

 不老不死と比べればあまりに短い延命術だが、それでも嘉重の心を動かすには十分だったようだ。


《……ならばとっととそれをワシに施せ》

「準備とかあんねん。急かさんといてや」


 これで嘉重は元通り、瑠那を支援するしかなくなるだろう。瑠那が心の中でほくそ笑んだ、その時だった。

 電話口の向こうから、ガラスが割れる音が響いた。


《なっ!?》


 賀重の驚く声。続いて、第三者の声が聞こえる。


《白峰山の使者、相模坊、参上!》

《なんだお前》

《ザッケンナコラー!》

《グワーッ!?》

《アッコラー!?》

《アイエエエ!?》

《スッゾオラー!》


 銃声。爆音。更に銃声。重ねるように銃声。時折、嘉重の情けない悲鳴が混じる。それらの音が止み、終わったのか、と瑠那が思った瞬間、声が響いた。


《お前を天狗の国へ連れて行く》

《や、やめ……うわあああ!?》


 翼が羽ばたく音と、遠ざかる嘉重の悲鳴。それっきり、スピーカーからは何の音も聞こえてこなくなった。

 瑠那は無表情で電話を切った。第三の声には聞き覚えがあった。『ジャア・ルフグン』を燃やした天狗だ。それが嘉重を攫ったのだろう。天狗隠しだ。これから何をされるのかはわからないが、死んだものと考えたほうがいいだろう。


「まあええわ」


 嘉重がいなくなっただけだ。計画は変わらない。京都の外に身を隠し、機を見て帰還する。50年かけても、100年かけても、それこそ前と同じように千年かけても構わない。瑠那は不老不死であり、『代数』は不滅なのだから。


 車は鴨川を越えた。前方には東山。左手には広大な墓地が広がる。鳥辺野とりべの。平安時代から続く墓地だ。

 無数の墓石を目にして瑠那はせせら笑う。物理空間に囚われた者たちの末路だ。物理肉体が滅びれば、量子空間上の意識も保てなくなり、消滅する。愚かな進化だ。アルゼブラのように意識だけの生命体となって、量子空間上に己を焼き付ければ、肉体という檻に囚われたまま死に沈むような事は無くなるというのに。

 だが、それが物理生命体の限界なのだろう。そういう点では、この星の生命体も、アンドロメダ銀河の生命体も変わらない。観測のスケールが大きすぎて、世界の根幹を司る法則に焦点を合わせられない。アルゼブラのように量子の世界に生きて、観測と確率を操り、世界の全てを識る事は不可能。生まれながらの劣等存在なのだ。


 そこまで考えた瑠那は、墓場から興味をなくして視線を前方に戻した。前方に車はない。制限速度ギリギリまでスピードを上げる。

 バックミラーに他の車の姿が映る。どんどん近付いてきている、と思ったら隣の車線に移った。瑠那の車を追い越すつもりらしい。完全にスピード違反だ。


「せっかちさんやなあ」


 瑠那は呆れた声を出すが、それだけだ。ストレスを感じたり、憤ったりはしない。ただ、抜かしていく車に少しだけ注意を払うだけだ。

 後ろから来た車が瑠那の車の横に並んだ。そのまま追い越していくかと思いきや、少しスピードを落として瑠那の車と並走する形になった。瑠那がアクセルを緩めようか、と思っていると、隣の車の窓が開いた。


 天狗がショットガンを構えていた。


「は?」


 撃発。


 瑠那の車はコントロールを失い、壁にぶつかった後スピンして道路を滑っていった。最後には中央分離帯のガードレールに突っ込み、そこでようやく止まった。

 一方、天狗を乗せた車は安全にブレーキをかけ、瑠那の車から少し離れた所に止まった。助手席から天狗、愛宕山太郎坊がショットガンを構えて降りてくる。その次に運転席から降りてきたのは、長い黒髪を頭の後ろで結んだ男。九曜院明だった。


「死んだのか?」

「だったらいいがな」


 太郎坊と九曜院の問いに答えるかのように、車からビームが放たれた。九曜院を狙った光線は、しかし割って入った僧正坊によって切り払われる。


「下がれっ、九曜院!」

「すまん!」


 九曜院は車の陰に隠れる。その間に太郎坊は更にショットガンを撃ち込む。運転席のドアに散弾が突き刺さり、蜂の巣になる。そのドアを蹴り開けて降りてきた瑠那は、まったくの無傷だった。


「なあに、ウチの事追いかけてきたん? 嬉しいわあ」


 瑠那は左手をかざし、車ごと貫こうと高出力のビームを放つ。しかし車の中から飛び出してきた黄色い影がビームを弾き返した。ヤコだ。

 ヤコは素早く駆け寄ると、瑠那の頭目掛けて爪を振り下ろす。だが、当たる寸前で見えない壁に阻まれた。ヤコは舌打ちし、後ろへ宙返りして瑠那からの距離を取る。


「おると思ったわ。二度も食われたからねえ、予測ぐらいは立てられるんよ」

「そりゃ良かった。ボクだって、三度も同じ味のものを食べたくないもん」


 瑠那が言い終わるとほぼ同時に、僧正坊が背後から斬りかかった。更に正面からは太郎坊がショットガンを撃つ。だが、斬撃も散弾も、瑠那を囲む見えない壁に弾かれてしまう。


「ひょっとして、あの狩人はおらんの? 月を無くしたウチなら自分らでも勝てると思ったんか、いじらしいねえ」

「いや。イーさんは頼らない。私たちの手で引導を渡す」


 追手の車の後部座席から白衣を着た女が降りてきた。その姿を見て、瑠那は目を見開いた。


「おや、まあ。ウチの目の前に出てくるなんて、びっくりやわあ」


 八雲楓。『隙間女』の怪異。物理生命体でありながら、量子空間にアクセスできるこの星で唯一の存在。演算特異点ホライズン・コンピューターの代わりになるもの。瑠那にとっては『不老不死の薬』に負けず劣らず価値のある個体が、姿を晒している。


「なあに、やっぱり気が変わってウチと一緒になってくれるん?」

「……瑠那。一つだけ聞いておきたいことがある」


 薄笑いを浮かべる瑠那に対し、楓の表情はどこまでも真剣だった。


「キミが子供の頃から私に良くしてくれたのは、私の力が目当てだったのかい?」

「ややわあ、そんな。わかりきったこと言わんといて、楓ちゃん」


 くすくすと笑い、前置きしてから瑠那は告げる。


「その力が無かったら、楓ちゃんもそこらの有象無象と変わらんやろ」

「……そうか」


 力なく俯いた楓は、一呼吸の間を置いて顔を上げた。その目には決別の決意が宿っていた。


「打ち合わせ通りに行く。頼むよ、教授!」

「准教授だ」

「させへんで」


 瑠那は一歩前に踏み出した。同時に、自分の周囲の確率を変動させ、爆発的な推進力を生み出す。一気に楓との距離が縮まる。反応できていない楓の腹を手刀で狙う。

 即死はさせない。『隙間女』の力は必要だ。急所を外して戦闘不能にした後、周りを片付けるつもりだった。


 割り込んだチェーンソーが瑠那の手刀を受け止めた。


「……イケズやわあ」


 回転刃を携えて楓を守ったのは、青いジャケットの男。他でもない、大鋸輝であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る