資本主義の誕生
人類はその誕生以来ほとんどの時間を狩猟採集民として過ごしてきた。数百万年に及ぶその歴史の中で、農耕が始まったのはごく最近のことである。そして、狩猟採集をして暮らしていた時代の人々の労働時間は1日4時間であった。
約1万年前、氷河期の終焉とともに始まった農耕が人類に安定した食料源と定住をもたらした。定住の最大のメリットは安全に子育てが出来る環境を確保できたことであった。人間の子供は母親の手を離れて独り立ちするまでに数年の養育期間を要する。これは人間を他の動物と隔てる特徴の一つであるが、狩猟採集民の生活においては大きな負担となる。常に移動を強いられる生活のために、乳幼児の生存率は低く、さらに成人に達するまでに命を落とすケースも珍しくなかった。農耕による定住化が人類からこの危険を取り除き、この後人類は急速に数を増し、地球の王者として君臨するに至る。1万年前の人口がわずか400万人だったことを考えれば、その後の繁栄を人類にもたらしたのが農耕だったことは間違いない。しかし、安定した生活と引き替えに、人類は畑や家畜の世話に多くの時間をとられるようになった。
ここで留意しておかなければならないのは、繁栄と幸福が同義ではないということだ。家畜は人間に飼われることによって数を増やし、種の存続をより確かなものにしたが、野を駆け回る自由を奪われ、食料として飼育される彼らが幸福であるはずはない。一方の人類は農耕・牧畜のもたらす安定した生活のおかげで生存確率を高めたが、農業労働に要する時間は彼らの自由を奪った。農業の発達は環境破壊という問題を生み、時に文明破綻の要因ともなった。1日4時間の労働時間で自然環境とも折り合いをつけて生活していた狩猟採集民と比べ、農耕民は幸せであったと言えるだろうか。
定住化は国家という概念を生み、様々な文明を花開かせたが、その一方で階級制度という不平等をも生み出した。人間が集団生活を常とする動物であることを考えれば、人間社会に身分の差が生じることに何ら不思議はない。集団にはそれを統べるリーダーが必要で、規模が大きくなれば、その管理の方途として組織化が進む。様々な役割を担う人間が現れる中で、分業化も進む。最初に現れたのは、農業や漁業に従事する生産者であった。彼らが生み出す余剰生産物のおかげで社会は他の階級に属する人たちを養うことが出来るようになり、社会に養われる人たちの中から物を作る人が現れ、生活をより快適に便利にする家具や道具が生み出された。やがて、様々な生産物の取引を専門とする人が現れ、物を取引する際の媒体としてお金という概念が生まれた。さらに、国家の基盤が安定してくると、その信用の下に貨幣が発行され、商品の取引ははるかに容易になった。同時に、貨幣の流通は富の蓄蔵を可能にし、このために富の偏在は助長された。しかし、食料生産という人間社会で最も重要な役割を担う一次産業に属する人々が社会の主役になったことは、かつて一度としてない。繁栄を享受したのは、決まって社会を統率・支配する貴族か富を独占する商人であった。
市場経済の発展は貨幣の出現と共に始まったと見てよいだろう。貨幣とは本来、それ自体には価値のないものである。たとえ金貨にせよ、その価値を担保するのはその希少性である。物質としての利用価値は、一般には馴染みの薄いものである。そして、国家が発行する貨幣に価値を与えるのは信用という目に見えないものである。信用とは幻想に過ぎないのだが、誰もが国家の定めたルールに従って利用するため、貨幣はある一定の価値を持つ。貨幣に与えられた信用のおかげで、大量に物を取引したり、本来何の価値もない貨幣という形で莫大な富を蓄えたりすることが可能になる。例えば、物々交換の世界で牛一頭と包丁十本を交換したとする。道具としての包丁は一本あれば事足りるので、包丁十本を手にした人は、また他の物品と包丁を交換せねばならない。つまり、貨幣の便利さは、物の価値を数字で表せることにある。物には相場があり、相場は変動する。ある物の価値が上がったり下がったりするのは、需要と供給のバランスで決まる。さらに面白いのは、貨幣自体の価値が変動することである。貨幣の流通量が多ければインフレが起こり、少なければデフレが起こる。景気が人々の気分に左右される所以である。人々が手持ちの資金を貯蓄に回せばデフレが起こり、消費に回せばインフレが起こる。また、国家がこれをコントロールすることも可能になる。ある国において物と貨幣の受給の均衡が保たれれば、その国内での経済活動は自己循環する。ところが、貨幣が国境を越えて流通するようになると、問題は複雑になる。
この点において顕著な働きを見せたのが、中世ヨーロッパのテンプル騎士団である。彼らは十字軍の遠征や巡礼で聖地へ赴く人たちを相手に、預託証書を発行した。各地に設けられた拠点でお金を預託証書に変えれば、拠点のある場所ならどこででも現金の払い戻しを受けることが出来た。イギリスからシリアに至る広い地域で多くの拠点を持っていた騎士団は、この世界初の銀行システムを生み出した。銀行はそれまでなかった二つの概念を生み出した。富の蓄蔵と資金の移動である。勿論、金銀財宝を集めることや、権力を握ることも富を蓄える手段にはなっただろう。しかし、国家と貨幣に対する信用が富の蓄蔵の手段になるには、銀行システムの登場を待たねばならなかった。このシステムが蓄えた富を資本として投資に回すことを可能にし、ここに物やサービスなどの実体を伴わない金融経済が誕生した。提供された物やサービスに対価が発生する実物経済に対し、実体を伴わない金融経済は投資という概念を生んだ。金融経済においては、商品が何であるかは問題ではない。大切なのは商品が利益を生むかどうか、資本を増やせるかどうかである。このシステムの下では実体のない株式や債券で資本を増やすことが可能になる。ここでは経済を循環させることよりも資本を増幅させることに重点が置かれ、実物経済との乖離が進む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます