第60話 NARUMI vs KURUMI②

「くるみさん……」


 奈々子は、両手を組んで祈っていた。完全に計算外だった。天野鳴海がここまでの強さとは思わなかったのだ。呉工の高橋明日花を倒したというから警戒していたが、彼女はそこからさらに進化を遂げてきている。今の彼女はミチルや明日花といった、全国レベルのエースと同等の実力を持っていると考えて間違いないだろう。


 曲の前半でくるみは、二千点もリードされてしまった。このままでは、ミチルが取った点差がひっくり返されてしまう。


 くるみは純粋で心優しいが、繊細であわてんぼうな面もある。予想外の強敵に、調子をくずされてしまわないだろうか、奈々子は心配だった。


「大丈夫ですわ」


 ミチルが、奈々子の手を上から握る。彼女は体温が高い。暖かい手だった。


「くるみさんは、私のウットゥ(妹)です。守られるだけのかよわい存在ではありません。彼女もまた、朱雀の気高き乙女なのです」


 微笑みを見ると奈々子の気持ちも落ち着いてきた。不安になっていたのは自分だけだと気づく。


「ミチル様……私も、くるみさんを信じます!」


 盛り上がりが終わってほとんど音がなくなり、速度も遅くなった。嵐の前の静けさだ。


 ここから盛り上がつつ、徐々に加速して、メインテーマが鳴り響く前にこの曲最大の難所がやってくる。腕の見せ所であり、スコアに大きな差がつく部分だ。


 この曲では、難所で譜面が分岐する。前半のプレイ成績によって、最大の難所の配置がまるで変わってくるのだ。分岐は、プッシュ、スワイプ、ステップの三種類。プレイヤーの最も得意なものが選ばれる。


 静かなオルガンの持続音の感覚が、徐々に短くなってくる。プッシュ、スワイプ、ステップのノーツがばらばらと流れてきて、くるみも鳴海も確実に押していく。まだ譜面は二人とも変わらない。音が細かくなってきた。ピアノやストリングスが現れ、ボリュームが大きくなってくる。ドラムやギターも合わさり、だんだんとメロディがなくなり、混沌とした音楽となる。


 そして、音楽が最高速度になったとき、譜面が変化した。鳴海のもとには、何重にも連なるパッチワークのようなプッシュノーツが画面の上から下に迫ってくる。一方くるみのもとには、音符がいくつも連なる楽譜のようなスワイプノーツがモニタに現れた。くるみはそれを落ち着いた動きでなぞっていく。


 くるみのいつもの慌てようからは想像もつかない。あれほど大きく複雑な図形が現れれば、焦ってしまうのが普通だ。しかしくるみはまるで一時間ほど余裕があるとでもいうように、丁寧に丁寧にスワイプしていた。それでいて混沌とした音楽が終わるころには、しっかりと図形をカバーし終わっていた。


 鳴海のもとに、ただでさえ難しいプッシュノーツの滝に加え、大量のお邪魔ノーツがやってくる。さすがの鳴海でも押し切れない。お邪魔ノーツは見逃され、画面下の判定ラインで赤くはじけた。


 NARUMI 72278(-300)

 KURUMI 69271






 混沌としたパートを抜け、輝かしく、元気に、明るく、メインテーマが鳴り響く。二人の譜面はまた同じになった。一気に視界が晴れるような音楽の変化だ。


 海桜高校の西園寺玲子と山本さくらは、やはり最前列、それも中央の席でセッションを見ていた。出雲とは当たるとしてもまだ先になるが、さくらがどうしても一番いいところで鳴海のセッションを見たいと希望したのだ。


「難所を抜けてから、天野さんのパフォーマンスが明らかに落ちたわね」


 玲子は、腕を組み、眼鏡の奥の瞳からじっとステージとスクリーンを見ていた。


 明るくメインテーマが流れる中、徐々に鳴海がくるみに差を詰められてきている。勝ちは譲らないだろうが、圧勝というわけにはいかなさそうだ。


「金城さんのお邪魔ノーツで、フロー状態が途切れたのかしら。まだ、フローを完璧に身に着けたというわけではないみたいね」


 隣では、さくらが両手を握って震わせている。玲子が顔を見ると、にこにこしていた。


「わくわくするなあ。鳴海は、もっともっとうまくなるんだね」


 セッション中、彼女はずっと鳴海とそのプレイ画面を食い入るように見ていた。鳴海のプレイに、ひたすら集中していたようだ。


「彼女がフローを習得したら、あなたを脅かす存在になるかもしれないわよ?」


 玲子は冗談めかしてさくらに言った。


 鳴海は明日花を倒し、フローに片足を入れるところまで来ていた。海桜高校のプレイヤーのようにフローを使いこなせば、全国三連覇に向けた大きな障害になるだろう。


 しかし、さくらは静かに大きくうなずいていた。


「……なってほしいね」


 いつの間にか、真剣な表情に変わっている。


「そういう存在に、めちゃくちゃなってほしい」


 彼女は今、この大会のプレイヤーでも圧倒的に高い能力を持っている。トップを独走しているのだ。だからこそ、強いライバルが欲しいのかもしれない。


「なるといいわね」


 玲子は返した。


 鳴海はそのあと、前半のような高い精度を見せることはなかった。曲はメインテーマが終わり、最後の盛り上がりを見せる。鐘の音が鳴り、再び音が細かくなって、最後の難所を超えて、曲は荘厳な和音で締められた。


 NARUMI 96125

 KURUMI 94077

 

 NARUMI Win!(+2048)






「天野選手強い! 難譜面を見事ものにし、金城選手に二千点の差で勝利しました! 出雲が朱雀に追いつくまであと千点! これで勝負はわからなくなったぞー!」


 実況を聞きながら、鳴海はふうと息をついた。


 自席を見ると、唄江がぴょんぴょん飛び跳ねている。


 よかった。逆転をすることはできなかったが、ここまで詰めれば、唄江が敗北の責任を感じることはないだろう。


「にふぇーでーびる」


 振り返ると、くるみがスカートをつまみ、礼儀正しく、しかしきびきびと頭を下げていた。


 相変わらず、どう対応すればいいのかよくわからない。


「えーと……ありがとう?」


 鳴海も、ワンピースで裾をつまむ真似をして、礼を返した。


 くるみは駆け寄ってきて、鳴海の手をつかんだ。


「鳴海さん、それがあなたの、姉妹を思う力なのですね!」


 感激のあまりなのか、目に涙をためている。


「う、うん。くるみちゃんも、すごかったよ」


「はい、くるみも、お姉様を思ってがんばりました。ミチルお姉様ー!」


 彼女は、振り返ると舞台袖に向かって走っていった。こけそうになりながら、ミチルのもとに駆け寄る。ミチルはよしよしと頭を撫でていた。目まぐるしいが、微笑ましい。


 くるみの難所でのスワイプには鳴海も驚き、集中力を失ってしまった。トップスピードでミチルが見せたような、落ち着いた完ぺきなプレイだったからだ。それも敬愛するミチルを想ってプレイしたと考えれば、納得できる。彼女は、ミチルの後を受け継ぎ、来年、再来年、朱雀女子をけん引するプレイヤーになるだろう。


「うたちゃん」


「鳴海、お疲れー」


 ステージ端の席に戻ると、唄江が晴れやかな笑顔を見せた。


「すごいね、鳴海! どうやってあんな集中テクニックを?」


「うん、明日花さんに教えてもらったんだ」


 合宿のとき、自由曲を練習する中で、明日花と決勝の最後のプレイのことを話していたら、フローのことを教わったのだ。


『その集中は、フロー状態ってやつだな。うまく身に着ければ、本番のセッションで最高のパフォーマンスを出せる』


『……フロー。どうやったら、できるようになるかな』


『何かに意識を集めるんだ。それを考えただけで落ち着いて、気分が安らぐような、

大切なもののことを思い出す。それを、プレイに向ければいい』


『大切なもの、かあ』


 その言葉を信じて、合宿以降、ずっと練習していたのだ。練習ではなかなかうまく

いかなかったが、今回のセッションでは、地方予選決勝のように、深く集中することができた。


「そうなの!? どうやってやるの?」


「えーと……なんかこう、うまく言えない」


「えー、鳴海のけちー」


 うたちゃんのこと考えてたからだよ――などとは、恥ずかしくて言えなかった。


 かわりに、響姫にぺこりと頭を下げる。


「響姫ちゃん、ごめん。後千点、返せなかった」


 出雲は今、朱雀女子に千点リードされている。チームセッションに勝利するためには、響姫が奈々子に千点以上の差をつけて勝たなければならない。エンプレスオンアイスは響姫の得意曲でもあるとはいえ、相手の自由曲をひっくり返すのは至難の業だ。


「心配ご無用よ」


 しかし響姫は、扇を大げさにばっと広げて、すました声で言った。


「あとは、私に委ねなさい」


 どうやら、覚悟は決まっているらしい。


 三人は、顔を見合わせて、うなずきあった。それだけでよかった。ここまで来たら語るべき言葉はない。あとはその覚悟をプレイで見せるだけだ。


 響姫は、扇をかざしながら、筐体までゆっくりと歩いて行った。

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