女心
あべせい
女心
「本気ですか? 本当にいいンですか?」
「はいッ。一度決めたことですから」
「取り消しは、ききませんよ」
「取り消し? 取り消しはないと思います……」
「思います、ってあなた……」
「冗談です。よろしくお願いします」
男性従業員が、一枚の封筒を差し出して、目の前の人事課課長に頭を下げた。
その10分後、同じ従業員が、年下で美人と評判の女性従業員を廊下でつかまえ、立ち話をしている。
「ぼくは、もうキミの期待に応えられない。わかっているとは思うけれど、状況が厳しいンだ」
「はァ?」
くだんの女性は、何を言われているのか、まるで理解できない。
「とにかく、そういうことだ。そのうちにわかるよ」
翌月。
駅前の雑居ビル地下1階にある居酒屋で、ある職場の「勧送迎会」が開かれた。
出席者6名だけの小さな宴会だ。畳敷きの座敷に座卓を2つ横に並べた席で、6名は鍋を囲んで酒を飲み、すでに2時間が経過している。
「今夜は最高に気分がいい。みんな飲んでいるか」
「はァーい」
「ハイ」
他の3人は返事するのも億劫という顔をしている。
2人の新入り従業員と3人の古参従業員を前に、この日の退職者が、人生の先輩として訓戒を垂れようと、5名の反応を確かめている。
歓迎会というのはよくある。送別会というのも、よく見かける。しかし、「歓送迎会」というのは、どういうことか。
文字通り、新人を歓迎して、退職者を送別する飲み会なのだろうが、新しく職場にやって来た者と、職場を去っていく者が一緒に会して酒を飲み、食事をしようというのだから、ずいぶん乱暴な話だ。
しかし、これは、この日に退職した、このなかでは一番年長の高砂信也(たかさごしんや)が言い出したことだった。
「おれは送別会なンてやってもらいたくない。もらいたくない、ないが、どうしてもというのなら、こんど新しく入って来た2人の新人の歓迎会と一緒だったら、出てやってもいい」
と高砂から勿体を付けられ、職場で主任だった高砂を上司と仰ぐ2人の男性と女性1人の計3人の部下が、2人を迎え1人を送るという形で開いた会だ。本当はしたくなかったが、やらないと後で何をされるかわからないという、不安が大きかった。
だから、職場の同じフロアにいる他の十数名の同僚たちは、会があることを薄々は知っていたが、表立っては知らんぷりをしている。
従って、気の毒と言うべきか、内心うれしいと喜ぶ手合いなのか知れないが、2人の新人女性、川北と皆野は、もう1度、1週間後に予定されている正規の歓迎会に出席を求められている。
もっとも、この新入りの女性は2人とも、女性ながらかなり飲める口のようだから、飲み会はいくつあってもいいのだろう……。
会は、新人女性の紹介が終わり、送られる高砂の挨拶もすみ、もういつお開きになってもいい雰囲気になっている。
すると、この会の幹事役を引き受けた、このなかでは現在唯ひとり、主任補佐という役職をもっている塙組之(はなわくみゆき)が、立ちあがった。
「では、お話も尽きないとは思いますが、一旦この場はお開きにして……」
と、言った。
間髪を入れずに、
「待てェ、待てーイッ!」
制止したのは、高砂だった。途端に、イヤーな空気が辺りを覆う。
「キミたち、まだ聞き忘れていることがありはしないか?」
一同、キョトンとした。そして、すぐに、場の空気が強張った。
「なんでしょうか?」
おずおずと塙。
「おれが退職する理由だよ。どうして、やめるのか、何も言ってないだろうが」
「それは最初に、先輩が、『8年この職場にいたが、結婚相手も見つからず、給与もあがらず、精も根も尽き果てたンだ』と、おっしゃったじゃないですか」
この会の冒頭、高砂が言ったことだ。
「それは、表向きだろッ」
しかし、こういう場は、表向きでいいンだ。塙はそう思っている。今夜は、まだ職場になじんでいない新入りがいる。去っていく上司の本音を聞けば、新人の労働意欲が減衰しはしないか。それは気の毒だ。塙はそれを恐れている。
2人の新人の女性が互いに顔を見合わせ、何か言いたげだ。
「では、こういう会を催してもらったオレからのお礼として聞いてもらいたい」
そんな話はしなくていい。塙は、古参の横居三千代(よこいみちよ)と立川俊介(たちかわしゅんすけ)の戸惑った顔を見て、2人は同じ気持ちなンだと感じた。
「高砂さん」
「なんだ、三千代ッ」
高砂は、これまで彼が最も気にかけていた三千代の声に、キッと振り向いた。
しかし、「三千代ッ」と呼び捨てることはないだろ。当の三千代だけじゃなくて、塙や立川も、不愉快な気分になった。
しかし、三千代は、相手はこの程度の男なのだとわかっている。で、気を取り直して言った。
「きょうは送別会だけじゃないでしょ。新しいひともいるのだから、ぶっちゃけた話は、あまり……」
「あまり、なンだ? ふさわしくない、ってかッ」
高砂はかなり飲んでいる。酒に飲まれるタイプだ。それに、三千代に袖にされた悔しさがある。荒れそうな予感が漂う。
三千代は高砂の問いには答えず、立川俊介を見た。三千代は高砂の誘いを拒絶して、俊介を選んだ。それが、高砂に退職を決意させた最も大きな理由だった。
「三千代さんは、職場には夢が必要だと考えているンです。新人の方々のその夢を、最初から破ることはないでしょ」
と、立川が言った。
「オイ、立川、ご立派なことを言うじゃないか。三千代に脇の下をくすぐられて、調子に乗るンじゃないゾ。おれと三千代は、貴様よりつきあいは長いンだ」
「エッ」となった俊介に、三千代は顔の前で手を横に振る。
勤続年数は高砂が8年、三千代が3年、俊介が2年。俊介より三千代のほうが、1年多く高砂と一緒に働いていただけの話だ。つきあいという表現は誤っている。
「それに、三千代はおまえより2つも年上だ。それがいいのか。立川ッ」
いまどき、女性が年上のカップルは掃いて捨てるほどいる。そのようなことにこだわっている高砂に、三千代は呆れる。返す気持ちも起きない。
「高砂さん、わかりました。ただし、この席の予約した宴会時間はすでに5分過ぎていますので、手短にお願いします」
塙が腕時計を見ながら、割って入った。
「わかってる。すぐにすむから。おまえに迷惑はかけない」
高砂は塙に金を借りている。5万円だ。まだ返していない。そして、返すつもりもない。このまま、すっとぼけて借金をチャラにしてしまおうという魂胆だ。だから、塙には頭があがらない。いや、いまはまだ、あげないほうがいいと思っている。
高砂は、腰をおろしたままの姿勢で、エヘンとひとつ咳払いをした。
「不肖高砂信也は、現在の職場に8年と8ヵ月勤務いたしましたが、本日をもって退職いたしました。その理由はいろいろとあります」
塙は、鼻白ンだ。長くなる。それだけじゃない。あのコトもバラす腹かも知れない。塙の恥部だ。
「退職理由の1つは、上から評価されなかったことだ」
語調が急に変わった。高砂は、3年前主任になり、塙、俊介、三千代を含む6名の部下を指揮監督してきた。
「店長の内影は、おれと反りが合わない。おれがすばらしいアイデアを出しても、採用しない。だから、三千代。一度おまえから、おれのアイデアを店長に提出させたことがあったよな」
職場は従業員が120名の、大手量販店の一支店だ。
三千代は頷く。しかし、三千代は、内心思っている。あのアイデアは、わたしが考えたのッ。
しかし、高砂は三千代の胸中に思いが至らない。
「すると内影は、三千代の色香に惑わされたのか、修正なしに即採用した。ここの店長はその程度の男だ。おれはそれで、この職場を見限った。勿論、やめる理由はそれだけじゃない。もう1つは……」
と言って、高砂は斜め向かいの三千代に、ニヤけた笑いを見せながら、
「ここにいる横居三千代だ。彼女は、美人だ。職場にいる74名の女性従業員のなかでも、群を抜く美貌だと思っている」
三千代は、顔が赤くなるのを感じる。
しかし、三千代から好意を寄せられている俊介と、三千代の上司である塙は、いよいよ始まったと思った。
「しかし、おれには理性がある。どちらかと言えば、感情よりも理性が優先する人間だ」
ウソよ。三千代だけがそのことをよォく知っている。
「三千代は29才、塙と同い年だ。おれは、三千代より10コも上だ。これはよくない。おれは美女が好きだが、10才も年下の女性とつきあう気持ちは、毛頭ない。犯罪に等しいからだ」
よく言えたものだ。三千代は、退勤後、高砂から何度も食事に誘われたことがある。そのうち一度だけ、仕方なくだが、誘いに乗った。いまはバカだったと後悔している。ただし、そのときは、事情を話して、塙にガードを頼んだ。万が一を恐れてのことだったが……。
「ただ、女性のほうから誘われる場合がある。極力、断るようにはしているが、断りきれない場合もある。それが三千代だったとは言わない。言いたくない……」
塙は覚悟した。やはり高砂はあの日のことを持ち出すつもりらしい。
「いつとは言わないが、その日、おれは彼女に誘われ、池袋のコジャレたバーに行った」
誘ったのは、高砂だ。三千代は、高砂のウソには慣れっこだが、こんなに大っぴらにウソをつかれるのはたまらない。
そのバーは、30半ばの女性バーテンがひとりで切り盛りしている、カウンター席と2人掛けのテーブル席が3つあるだけの小さな店だった。
「バーテンがすこぶるつきのいい女で、30代半ばだろうが、成熟した分、連れの女性の色香が色褪せるほど、その女には魅力があった」
三千代は思い出す。あの店は、塙の紹介だった。高砂の言うままに行くのは危険だからと、塙に教えてもらった店だった。
「その店で飲み始めて、30分ほどたった頃、うらぶれた男がのこのこやってきた」
と言って、高砂は塙をアゴでしゃくってみせた。塙の見かけがうらぶれているのかどうかは、見方次第だが、塙にはその店に行きたくない理由があった。その夜は気が進まなかったから、傍目にしょぼくれているように見えたとしても仕方ない。
塙は、下を向いた。
「おれはそのとき、ピーンッと来た。バーテンの女の顔が輝いたからな。2人はデキている、って」
三千代は、あとで塙から打ち明けられた。そのバ-テンの女性は亜果絵(あかえ)といい、店のオーナーである50代男性の愛人だったが、三千代たちの量販店に通ううち、塙を見て惚れてしまった。
しかし、塙は、亜果絵が好みではなかった。いくら色気があるとはいえ、塙に通用する色気ではなかった。しかし、塙は一度食事に誘われ、迂闊にも手を出した。
塙は経済的に苦しかった。生来ギャンブルに目がない男だ。休日には、競馬、競輪と、金がなくても通っていた。だから、女の金に釣られた。今では亜果絵から、積もり積もって50万円の借金をしている。
「塙がバーに現れた。そこに、おれと連れの、この際三千代にしておく。おれと三千代がいた。これはおかしい。だれだってそう思う」
「高砂さん、あれは偶然です。何度も言ったじゃないですか。ぼくは、あの夜、仕事でむしゃくしゃすることがあったから、通りすがりのバーに入った。そうしたら、そこに高砂さんと横居さんがいた。それだけです」
三千代は塙が気の毒になった。塙には、少し後から来て、高砂を追い払って欲しいと頼んでいたのだが、結局高砂相手では通用しなかった。
「塙、ウソをつくなら、もう少し勉強してからにしろ。あの日の1週間ほど前だったか、おまえが同じあの店に入るところを、おれは見ているンだゾ」
「エッ」
塙の顔色が変わった。高砂がかけたカマだったが、これで勝負あった。さらに高砂は、奥の手を持っていた。
「おまえ、あの女に借金しているそうだな。総務に電話がかかってきたことがあるじゃないか」
総務には、高砂の息のかかった連中が少なくない。勤務中、外部からの電話は従業員には取り次がないようになっているが、事情を知らない者がかけてくることがある。携帯電話がある時代だから、職場の固定電話にかけてくるのは、それなりの理由があることになる。
「女は、おまえが携帯の番号を変えたから、仕方なく職場にかけてきた、って言ったそうだ」
塙は、店に来いという亜果絵の催促がわずらわしく、携帯の電話番号を変えた。しかし、亜果絵から職場に電話がかかってきたことを知り、慌てて彼女の店に行き、借金の一部を返すとともに、以前通りのつきあいを復活させた。
すなわち、週に一度、店に顔を出し、亜果絵の言いなりに動く。
塙は、三千代から、高砂にしつこく誘われて困っていると相談を受けたとき、亜果絵のバーを紹介した。
そのとき、塙の心づもりでは、高砂が亜果絵に心移りしてくれればという思惑と、三千代に対して、おれには亜果絵という、見かけはすこぶるつきの魅力的な女がいるのだゾと見せつけ、三千代の気持ちを引き寄せたい。そんな複雑な計算が働いていた。
結果は、三千代の心は引き寄せられなかったが、高砂は亜果絵になびいた。それも、烈しく。年齢が高砂39、亜果絵35と、近いこともあるのだろうが。
「おれは三千代が好きだったが、諦めることにした。三千代は、いま隣に並んでいる立川と似合いなンだ。若さには敵わない。おれは、だから潔く、身を引くことにした。立川、よかっただろ」
俊介は、突然振られて、キョトンとなった。
「ぼくはベツに……」
「別に、なンだ? 三千代じゃ、不足か!」
「そういう意味じゃ……」
「高砂さん、立川さんに失礼でしょ!」
三千代が突然、高砂に噛みついた。もう、黙っていられない、という顔だ。
「オイ、三千代、どうした。おまえらしくない……」
高砂は、いままで見たことのない三千代の激しい剣幕に、目を大きく見開いた。まるで酔いが冷めたように、三千代の顔に見入った。
「わたし、立川さんのことが大好きです。でも、立川さんは、わたしより2つ年下であることを気になさっている。だから、わたし、だから、わたし……静かに、していたいのに……」
三千代の目が、急に涙であふれた。
「わたしたち、これで失礼します」
2人の新人女性、川北と皆野がそう言って立ちあがった。それまで黙々と焼酎割りを飲んでいたが、どうしようもない雲行きに呆れ果てたのだろう。
「お勘定は?」
川北が尋ねる。
「いいよ。キミたちはゲストなンだから」
と、塙。
「ありがとうございます」
2人は、ペコリと頭を下げると、そそくさと出て行った。
歓送迎会の3日後の月曜日、高砂が何食わぬ顔で出勤した。塙らが驚くのは当然だ。
高砂はこれまで通り、朝礼の時刻になると、塙ら5名の前に出て挨拶を始めた。
塙も三千代、立川、そして新人の川北、皆野も一様に、わけがわからないと言った顔をしている。
先月退職すると塙ら5名の部下に告げ、すでに送別会も行ったのだ。こんなことって、あるのか。
しかし、高砂は、塙らの心中にはお構いなしに、次のような話をした。
「みなさんは、とても不思議そうな顔をなさっておられますが、私高砂信也は幽霊でも幻でもありません。先週の金曜、私は退職いたしました。しかし、その直後、社長から直接電話がかかり、慰留されました。社長から引きとめられれば、さすがの高砂でもイヤとはいえない。それで急遽、気持ちを切り換え、きょうの出社となった次第です。みなさん、いままで通り、よろしくお願いします……」
しかし、塙は合点がいかない。内心、これはオカシイと思う。全従業員8百名以上の上に立つ社長が、わざわざ本部からやってきて単なる売り場主任の従業員を慰留するだろうか。それも退職したその日に……。
社長はワンマンで知られる。従業員の代わりはいくらでもいると考える人物だ。従業員は使い捨てでいいと日頃言っている。そのいう人物が、悪評高い高砂を引き止めるか?
確かに高砂は上に対しては巧みにゴマをする。出世のためなら、上司の靴でも平気で舐めかねない男だが、そんな男をだれが引き止める。
「そういうことだから、みんな持ち場にいって、仕事してください」
高砂は上機嫌で塙らを指揮している。
そのときだった。
「高砂!」
突然、人事課長の大岩が2名の警備員を従えて現れた。大岩が従業員控え室に来ることなど、滅多にない。
「課長。何か?」
「何かじゃない。何をしているンだ。キミはやめた人間だろ。業務妨害するつもりか。この男を、早くつまみ出せ!」
2名の警備員が、高砂の腕を左右からとり押さえて、出口に向かった。
「やめろ、やめてくれ! 課長、助けてください。これは何かの間違いです」
高砂が叫ぶ。
「何が間違いなものか。やっと厄介払いができたと思っていたのだ。解雇する機会を待っていたところへ、キミがやめたいと言って来たから、このチャンスを逃す手はないと思い、即手続きをとった。この男ほど、手を焼いたことはない」
「課長、あの退職願いは冗談だったンです。私がやめる理由はないでしょう」
高砂は2人の警備員に両腕を脇からしっかり抱えられ、半ば浮きあがった状態のまま、引きずられていく。高砂はその体勢で、クビだけ後ろに捻じ曲げて、しゃべっている。
「私がやめたら、職場が困るじゃないですか。そうでしょッ」
「困ることはない。絶対に。むしろ、有り難いと思っている」
と、大岩。
すると、高砂の口調が激変した。
「なんだと、オイ、大岩! そんなことを言っているといまに大ケガをするゾ。おれは執念深いンだ」
それを見て、塙は大岩に走り寄って言った。
「課長、高砂さんって、本当にやりかねません。用心なさったほうが……」
「キミ、塙クンだったな。高砂が会社の金を横領していた事実が先々週発覚した。この会社から一歩外に出ると、パトカーが待っている。それで終わりだ」
すると三千代が、塙に近寄って、
「高砂さん、本当におやめになったンですよね。でも、昨夜彼からわたしにメールが来たンです。今夜、例のバーで待っている、って。どうしたものかと?」
三千代は不安そうに塙を見て、そう言った。
「彼は、あのバーの亜果絵さんにいま夢中です。亜果絵さんの気を引こうとして、魅力的なあなたを連れて行く気です。そんな誘いに乗ってはダメです。無視してください」
塙は、三千代への憧れを押し殺して助言している。
「立川クンは、どうしたらいいと思う?」
三千代は、塙のそばで、落ち着きなく目をキョロキョロさせている俊介に尋ねた。
「ぼくは、ぼくは……」
俊介は、三千代が自分に好意を寄せていることは充分理解している。しかし、俊介は、例え2つでも年上の女性は好きになれない。亡くなった祖母から、小さい頃、
「お嫁にもらう相手は、年下にしなさい。女は早く老ける。1つでも年上の女は、年をとってから、男が苦労するからね」
そう何度も聞かされていた。年上女性は俊介の恋愛対象にはならない
「高砂さんが本当に好きなのは、三千代さんでしょ。だから、三千代さんを誘いたくて、その亜果絵さんのバーに連れて行きたいだけなンじゃないですか」
そういう考え方も出来る。高砂は気の多い男だ。だれを狙っているのかは、結局本人にもわからないのかも知れない。
すると、高砂が最後の悪あがきのように、大声で、
「塙、おれがこのままここから出ていけば、おまえから借りた5万円、チャラになるぞ。それでもいいのかー!」
塙は、亜果絵から借りている50万円弱の返済のためには、5万円でも必要だと思っている。
すると、三千代が大きな声で、
「塙さんは、餞別代わりに高砂さんにあげる、って。お生憎さま」
三千代は塙に体を摺り寄せると、小さな声で、
「5万円くらい、わたしが立て替えるから。いいでしょ」
「エッ」
塙は三千代の変心に驚いたが、三千代自身、自分がどうしてこんなことを突然言ったのか、わからない。
ひとの心、ってどうなっているのだろう。
わたしは俊介が好きなのに、彼は少しもこたえてくれない。だから、いまは塙で我慢しておくのがいいと思っているのかも知れない。塙は、バーの亜果絵が好きなわけではない。借金があるから、仕方なくつきあっているに過ぎない。根は臆病で正直な男なのだ。
三千代はそんなことを考えながら、警備員に両側から抱えられるようにして職場から去っていく高砂を、能天気な笑顔で見送っていた。
(了)
女心 あべせい @abesei
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