第34話

(まさか、俺に会う為だけにわざわざここに来るとは思わなかった)


 コーヒーカップの中の黒い水面に、伊達眼鏡を掛けた自分の顔が映る。

 小春の行動力に感心した反面、連絡も無しにこっちに来た事に怒りを覚える。

 どうして連絡してくれなかったのか、自分はそんなに頼りないのかと、口にしそうになった。

 結果として、それを口にしなくても小春を責める口調になってしまい、彼女が望んだ「俺に恩を返して、夫婦らしい事」として、小春を無理矢理抱いて――泣かせてしまった。


(初めてだっただろうに、悪い事をしてしまった)


 昨晩、嫌がる小春を抱いて、これまで彼女が誰とも肉体的関係を持っていなかった事が判明したが、更に罪悪感は募った。――俺が不在の間に、不貞を働いていたらと思っていたが、そんな心配が無用だった事には安堵した。

 だだ、これで小春の望みは叶った。

 目的を果たした以上、彼女も日本に帰るだろう。英語が全く分からないというのなら、尚更、こんな文化も言語も生活様式も常識も何もかも違う国に無理に滞在を続けるよりも、日本に帰りたがるはずだ。


(これがきっかけになって、俺を嫌いになって、離婚届を出してくれればいいさ。もう彼女に俺は必要ない。彼女はまだ若いんだ。これからもっと良い奴と出会って、今度こそ幸せな未来を掴めるはずなんだ……)


 この地で研鑽を積み、弁護士として自信を持てれば、日本に帰国して、胸を張って小春に会いに行けると思った。だが、ここに来て三年が経ち、弁護士として経験を積んでも、小春を救えず、小春から逃げてしまったという罪悪感からは逃れられそうになかった。

 もう小春と向き合い、やり直す事は出来ないのだと諦めの心境になる。

 仕事と同じだ。一度失敗したら、信頼を回復する事は難しい。まして、自分は逃げ出してしまった。もう小春の信頼を取り戻す事は不可能に近い……。


「もう、朝からそんな顔をしないでよ。私まで嫌な気持ちになるじゃない」


 物思いに耽っていると、すぐ目の前に膨れっ面になっているジェニファーがいた。俺は机にカップを置くと、「生まれつきこんな顔だ」と溜め息と共に返す。


「もう少ししたら所長も来るんじゃないか。早く始業の用意をした方がいい」

「パパならいつもの様にギリギリに来るわよ。昨日も遅くまで、日本のサムライ映画を観ていたし。ところでワタシにコハルを紹介してくれないの?」

「小春に会いたいのか?」

「だって気になるじゃない。カエデの奥さんよ。カエデなんて、昔は勉強、今は仕事しかしていないじゃない。全然青春らしい事をしていないのに、一体どこでどう知り合って、結婚する事になったのか知りたいじゃない」

「そうか?」

「そうよ。ねぇ、コハルはいつまでこっちにいるの? カエデの家に行けば会えるのかしら?」

「さあな」


 その後、他の弁護士やジェニファー以外の受付担当が出勤してきたので、小春の話はそこで終わった。

 所長が始業開始時刻直前に出勤すると、昨日の急な早退について謝罪し、小春がこっちに来ている事を説明する。それから昨日の分の遅れを取り戻そうと、仕事に集中したのだった。

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