第4話 入国の洗礼

「強気だね。でも、残念だなあ、次はないんだよね。ボクはサラリーマンになるんだ。こういうの、なんだっけ……実業界へ、華麗な転身を遂げるっていうんだっけ?」

 自分で言うな、自分で。自己陶酔か!

――いや、やつあたりなんて、イカンよな。

 ハッピーな奴が、みんな敵に思えてきてるみたいだ。

 こんなに人のよさそうなオッサンにあたるなんて、オレって器が小さいかも。

 別れて歩き出したあと、京旗は自己分析してまたがっくり落ち込んだ。

 次は勝つ、なんて負け惜しみだ。京旗には、次に立つ厨房なんてないのだし、パティシエとしての未来は、怖ろしいことに、真っ白シロに漂白されている。



 メトロのホーム、京旗と別れて歩き出したセザール・グティノーの後ろ姿。

 もし、誰かが前に回りこんでその顔を見れば、口の端に冷笑が浮かんでいるのに、驚き、その凄みに身をちぢめたはずだった。



 パリの国際空港、シャルル・ド・ゴール空港に向かうバスの中。

 飛行機が飛び立つ瞬間。

 これから親の金でアフリカに向かい、未知の大陸で自由奔放な一人旅ができるというのに、ワクワクもせず、京旗は、消化試合をしに行くような冷めた顔だった。

 黄熱病の予防注射、ビザの取得、マラリアの薬を予防のために飲みはじめる……などなど、ワール国への出発準備はあわただしかったし、きっちり漏れなくやったはずだ。だが、もう、行って戻ってからのことを考えはじめていた。

 ここを離れると覚悟したら、かえってクリアに、自分の感情が見えてきた。

 速攻で用事を済ませて、パリに戻ってこよう。

 とにかく。なるべく早く。

 それからどうするかは、まだ、考えもつかないが。でも自分は、さっさとパティシエに戻り、オーナー・シェフへの階段を昇っていくのだ。

 握りこぶしを握って胸に誓う京旗を乗せ、飛行機はフランスからスペイン上空を飛び、地中海とサハラ砂漠を超えて南下。ワール共和国は海辺の国際空港に降り立った。

 扉が開かれ、アテンダントに手を振られてタラップを降りはじめた瞬間、暑さが押し寄せてきた。

 草いきれ、花の匂いか土の匂いか、はたまた潟湖(ラグーン)の水の匂いなのか。異国そのものといった得体の知れない匂い。パティシエの敏感な嗅覚に触れる。

 タラップの屋根が終わり、コンクリートの滑走路の路面に降り立つと、カァっと照りつける太陽。四時半という早朝だったが、もう夜は明けきっていた。

 来たんだ。アフリカへ。

 日本人なんてめったに訪れない、ワール共和国という国へ。

 ちなみになんでこんな国に兆胡の再婚予定の相手がいるかというと、彼は、この国に仕事で駐在しているそうだ。そしてここからフランスに出張に行って、兆胡と出逢った。

『で、その人、名前はなんつーんすか?』

 と聞いたら、返事が、フザけていた。

『ナイショよ』

『はぁぁああッ?!』

 声を裏返らせた京旗。

『だぁってぇ~、最初からそおゆう目で見たら、まっさらな気持ちで見られないでしょぉ? <お父さんになるかも知れない人>と<妹になるかも知れないコ>って思わないで、最初は普通に会って接して欲しいんだもぉん。あとで答えは教えてあげるから、あててみて!』

 ゲームにしますか、アホですか。

 くらくらしてきて、額を押さえた京旗だった。

 が、言い出したら聞かない人だということも、イヤというほど身に染みていた。

 ため息をついて、その条件も飲み込んだ。

 あとは、義妹になるかも知れない中学三年生――実は同学年――の女子と、義理の父親になるかもしれない中年男とを探しあて、舐められないだけの第一印象をしっかり植え付けつつ、相手のひととなりを確認して――

「ワックス!!」

 喚き声に、京旗の意識は、ワール国の小さな国際空港の建物に引き戻された。

 軍人だ? 

 ワッペンのついた水色の半袖のシャツの制服を着て、髪をひっつめた黒い肌の――ここではみんなが黒い肌だ、それが普通の国なんだから――女性が、手のひらだけは白い手を振り回して、叫んでいた。

 はいはい、予防接種ね、証明書ね。

 それは分かったが、喋りかけられた弾丸トークが全然分からない。

 ちょっと待て!! 何語だこれは!! ワール共和国って、公用語フランス語のはずだろ?! 

 顔をひきつらせつつ、自問。ヘコみそうになる気をひきしめ、出した黄色の予防接種の証明書が無事受け取られると、預けた荷物が出てきたのを回収。入国審査に向かった。

 低い天井。クーラーはついていなくて、窓が開け放たれている。あちこちにファン。

 入国審査のカウンターは、木ででできていて、しかも日曜大工の手作りふうにペラペラだ。合成樹脂多用の日本や西欧の国際空港のカウンターとは、全然違う。

 そのカウンターで、前を行ったフランス人が、いきなり、バガーッと荷物を開けられていた。

「?!」

 京旗も、スーツケースを容赦なく開けられ、ざっと乱暴に中を掘り返された。他の客も、仕方がないという様子で、しぶしぶ見せている。

 よし、と軍人の審査官に身振りをされたときには、さっきより以上に、よれよれの気分だった。蓋を閉じて、歩き出す。ダメージがでかかった。

 だが、これがいけなかったらしい。

 審査官の隣にいた黒人が、わあわあと何か言ってきた。何を喋ってんだ? 

 制服じゃないから、小銭かせぎのポーターか何かと思ったが、何十歩も、通せんぼするように並んで歩き続ける。怒りまくっている。

 くっそー、何の因縁をつけてやがんだ? あそこでトランクの中を見られたせいか?

 何もやらないぞ、と顔をあげて、決然と真っ直ぐ荷物を引いていく京旗を、黒人の仲間が数人で取り囲んだ。

「…………!!」

 さすがに、カッとなるが、体当たりして抜けていいのか? 面倒だな。まずい。

 パリだったら、からまれたときの逃げ道や路地も知り尽くしているけど、ここは異国。置いて逃げられないバッグやスーツケースも足かせだ。

 と、不意に、女の子の声がした。

「いっしき、けいき?」

――日本語だ。なんで、こんなとこで――?

 それは質問形だったが、一応聞いただけだったらしい。壁ぎわに立って人の流れを見ていたアジア人の少女は、一色京旗に違いない少年に、まっすぐ近付いてきた。この便で着いたアジア人は、一人だけだった。

 見たところ高校二年生くらいの少女は、京旗の視線を捕らえると、自分を指差し、

「竹邑あゆ。迎え~」

 トロくさそうな、ほやんとした笑みを向けた。つられてにっこり笑い返してしまいそうになる、見た目のわりにあどけない、人畜無害の笑顔だ。

 と、黒人達が、日本語が分かってあゆが迎えだと知ったわけではないだろうが、今度は彼女に、大声でまくしたてだす。

 ガラが悪いかんじだけはつかめる。京旗の背筋を冷たいものが走った。

 ヤバい。彼女を連れて、この場を逃げ出さないと。

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