第6話 ショコラトリー・コンクール

「それでは、ショコラトリーのコンクールを開催します!!」

 有名な映画スターが、特設ステージに盛装であがり、司会をする。

 目玉の出し物、ショコラトリー・コンクールが始まった。

 スタートの合図は、派手派手しいファンファーレ。コックコートのショコラティエたちが、いっせいに作業台について調理を始める。

 誰も皆、集中力が高い。気迫が全身からにじみ出ている――あざやかなオーラが吹き出しているようで、そこに浮かび上がった一つの濃厚な別世界を、観客たちは、目撃した。

 まるで生きているように踊り出すスパチュール。

 宙を舞うボウル。

 華麗にステップを踏みはじめる絞り出し袋。

 ひときわ目立った手際を見せるのは、一色京旗。

 予選審査には、抹茶を使った新作のドゥミ・セック(半生菓子)を提出して、カカオの風味と抹茶の風味、香りづけの洋酒のバランスの取り方が絶賛され、一位で突破している。

 だが、この本戦のボンボン・ショコラ製作では、彼を追いあげるショコラティエがいた。

 生粋のフランス人、セザール・グディノー。

 現在二八歳、まだまだ若手だが、十五歳で中学卒業と同時にまっすぐ菓子職人の道に進んだ男だ。

 職業教育学校で二年間みっちり菓子の基礎を修行。フランス政府公認の職業適正証<CAP>の試験に当然のように合格した。

 間髪いれず店舗での実務修行に入ると、めきめきと実力をつけ、有名店に次々入って修行しながら、なんと最短の三年で、管理能力も問われるシェフ・パティシエの資格<BM>の発給を、二〇歳のときに受ける。その後、さらに上の資格<BMS>も手にした。

 着実に足元を固め、じわじわと人気を拡大してきたパティシエで、間もなく独立、オーナーシェフになるとの噂が囁かれている。

 だが本人はいたって気のいい、愛嬌のある小太りな男で、がつがつした様子がない。そこが人好きのするところだった。

 優雅な手つきで、一粒、一粒、ボンボン・ショコラ――ひとくちチョコレート――を作っていく。

 優勝候補の京旗を気にしているふうは微塵もない。会場の誰も敵ではないという、余裕の顔だ。

 面白い。それでこそ戦う価値があるってもんだぜ、バーロー。

 京旗は内心で燃えた。

 が、競技に入ってしばらくして、ふと、眉をひそめた。

――おかしい。

 素材の声が聞こえない。

 クーベルチュールをいつ湯煎からあげればいいか。冷ますのをどこでうち切って、造形にかかっていくべきか。

 くっきり見えていたリズムが、まるで取れなくなっていた。今だ、と手もとからはっきり聞こえてきていた声が、聞こえなかった。

 突然目をふさがれ、手探りで迷路を彷徨っているようになって、軽いパニックに襲われる。

 なんだこれ。どうしたらいいんだ!

――「物性が違う」?

 パイ折るとき、折り込む油脂を変えたとする。

 すると、冷蔵庫で冷やし固める時間や、出してからの作業のタイミングも、速度も、油脂の物性に合わせて変えてやらなければならない。

 油脂が固いうちに無理に折れば、パイの生地が破れてしまい、焼いても層にならなくなるし、溶けすぎていればきれいな四角形に折れず、たるんだり、小麦粉の層に焼く前に脂が染みたりして、パリッと焼き上がらなくなってしまう。

 温度の作用。力学的な作用と反作用。

 菓子作りは、極めて科学的なのだ。

 材料を変えた場合、その後数日は、パイのご機嫌をうかがうようにして、気を使いながらパイを折る。

 まさにそのときそっくりの、難しい感覚だった。

 気になってゴミ箱をチラと見る。さっき剥がした包装紙を確認。お馴染みのクーベルチュールの包装紙だ。間違いない。けど、このモノ自体は、何かが違う。

 照明の熱のせいか? 集まった人間の体温や呼気のせいか? 気温と湿度が、さっきとまた変わっていて、それを計算に組み入れ切れていないのか。

 自分では気がつかないが、実は緊張しているのか。そのための、気のせいか。

 いや、絶対に乗り切ってみせる。大丈夫。

 パティシエに失敗は許されない。

 なんども材料をいじれば、材料はくたびれ、味が劣化する。

 いじって直ればまだいいが、材料を捨てなくちゃならないような失敗は、最悪だ。

 それに、やり直すことはタイムロスになる。一日のリズムが乱れ、ただでさえ忙しい仕事が、全然終わらなくなってしまう。

 取り返しのつくことや、責任がとれることなんて、この世の中には実はひとつもないのだから、結局、ミスしないことが一番、誠実なのだ。

 ここだ、という瞬間を、一度きりのチャンスにかけて、京旗は目と耳と手と鼻と、身体感覚をフルに研ぎ澄まして、掴みとった。

 これまで沢山の材料に触れて、夏でも冬でも製品がいつでも全て同じ出来上がりになるように、つきあってきた。その応用力。

 鍋で熱くした生クリームを、削ったチョコレートのボウルに投入し、余熱でチョコを溶かす。かきまわす速度を間違うと分離して使いものにならなくなるところを、カンで速度調節、切り抜ける。

 特別な手を加えておいた、香り高い洋酒の瓶を取って、ひとたらし。目分量だが、これも、今の材料のコンディションに合わせようと、微妙な加減。集中。

 洋酒の瓶を戻すと、その手が手品のように泡立て器を掴んで戻ってくる。最短時間で作業を進めるのも、パティシエの鉄則だ。

 泡立て器で最初は優しく、次第に大胆に空気を巧みに入れていき、固さと温度に細心最大の注意を払う。これも用意しておいた絞り袋へ、最大限の速度で詰めていく。

 絞り袋を支えている方の手が、袋越しに中のガナッシュに触れて体温で溶かすと、そこの部分だけ、今しがた必死で仕込んだガナッシュが死んでしまう。大きな気泡が入らないことも大事。

 素早く、素早く、丁寧に、素早く。

 コロコロと直径を揃えて丸く絞り出されるガナッシュ。

 手の平でなるべくいじらず最短時間で丸めたそれをセンターに、チョコレートコーティングを施せば、特製トリュフの完成だ。

 目にも舌にも完璧な美術品を作り上げるためには、難しい山をいくつも越えていかねばならなかった。

 素材の声が聞こえないまま、やっとゴールに到達し、作品を提出できたとき、京旗ははーっと、珍しいことに大きな溜め息をついて、肩を降ろした……

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